↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
49/50

第49話 最後に聞きたい音


朝倉翼視点


翌朝。


俺は、自宅のリビングで小さな懐中時計を見つめていた。


くすんだ金色の、古い時計。


表面には細かな傷がいくつも刻まれている。


蓋を開くと、二本の針は昨日と同じ場所で止まっていた。


当然だ。


この時計は、もう何十年も前から動いていないのだから。


それでも、つい耳を近づけてしまう。


……何も聞こえない。


「……頼むぞ」


誰に言うでもなく、小さく呟いた。


そのとき。


ピンポーン。


玄関のチャイムが鳴った。


時計をケースに収め、玄関へ向かう。


扉を開けると、見慣れた男が立っていた。


「よう」


「……悠人」


「なんだよ。朝から辛気くせぇ顔してんな」


「お前は朝から元気だな」


「当然だろ。俺はいつだってお前より格好いいからな」


「……それ、関係ある?」


「ある」


即答だった。


思わず笑ってしまった。


昨日、電話で事情は説明してある。


鈴さんが倒れたこと。


病院で聞いた、懐中時計の思い出。


そして、もう一度だけ、あの音を聞きたいと呟いたこと。


悠人は、余計なことを何も聞かなかった。


ただ一言。


『明日、朝から動けるか?』


そう言っただけだった。


「ほら、行くぞ」


悠人がスマートフォンを掲げる。


画面には、いくつもの時計店の名前が並んでいた。


「……これ、全部調べたのか?」


「まあな。古い時計の修理を扱ってる店を中心に拾ってみた」


「すごいな……」


「まだ修理できるかはわかんねぇけどな」


悠人は画面を指でなぞった。


「電話で確認できた店は三軒。残りは直接聞いてみるしかねぇ。移動時間を考えると、こっちから回った方が早い」


「……お前、いつ調べたんだよ」


「昨日の夜」


「寝た?」


「寝たよ。お前ほど寝つき悪くねぇし」


「余計なお世話だ」


「ははっ」


悠人は笑いながら、俺の肩を軽く叩いた。


「運転は任せたぞ」


「ああ」


俺は懐中時計を鞄にしまった。


「……行こう」


\*


一軒目の時計店は、駅前の商店街にあった。


古い看板が掲げられた、小さな店。


ショーケースには腕時計が整然と並んでいた。


「すみません」


店の奥から、年配の男性が顔を出した。


「いらっしゃい」


俺は懐中時計を取り出した。


「あの、この時計を修理していただきたいんですが……」


男性は眼鏡をかけ直し、時計を受け取った。


蓋を開き、裏側を確かめる。


「……ずいぶん古いね」


「はい。何十年も前に壊れたものらしくて」


「ふむ……」


男性はしばらく時計を眺めていた。


やがて、小さく首を横に振った。


「悪いけど、うちじゃ難しいな」


「……そうですか」


「部品が残っていないと思う。古い機械式時計を専門に扱うところじゃないとね」


「……わかりました。ありがとうございます」


時計を受け取り、頭を下げた。


店を出ると、悠人がスマートフォンを操作していた。


「次、行くぞ」


「……ああ」


「まだ一軒目だろ」


「……そうだな」


俺たちは車に乗り込んだ。


\*


二軒目。


「申し訳ないですが、こちらでは対応できません」


三軒目。


「修理できたとしても、部品を探すのに数か月はかかると思いますよ」


四軒目。


「これは……ちょっと厳しいですね」


何度も同じ説明をした。


何度も時計を差し出した。


そして、何度も頭を下げた。


気づけば、昼を過ぎていた。


車内には、エアコンの小さな音だけが響いていた。


信号待ちで、俺はハンドルに置いた手を見つめた。


「……なあ、悠人」


「ん?」


「……やっぱり、難しいのかな」


助手席でスマートフォンを操作していた悠人が、顔を上げた。


「何が?」


「時計の修理」


「そりゃ難しいだろ」


あまりにもあっさりとした返事だった。


「……おい」


「何だよ」


「もう少し励ましてくれてもよくない?」


「励まして直るなら、いくらでも励ましてやるよ」


「……それはそうだけど」


悠人は小さく笑った。


「でもな、翼」


「ん?」


「難しいって言われただけだろ」


「……え?」


「直せないって言われた店が四軒。それだけだ」


悠人はスマートフォンの画面を俺に向けた。


「まだ、調べた店は残ってる」


「……ああ」


「だったら、次だ」


信号が青に変わった。


俺はアクセルを踏んだ。


「……そうだな」


悠人は、何事もなかったように画面へ目を戻した。


出会ってから、まだ一年も経っていない。


それなのに、こいつといると不思議と前を向ける。


俺が立ち止まりそうになると、悠人はいつも少し先を見ている。


そして、当たり前のように言うんだ。


まだ終わってないだろ、と。


「……ありがとな、悠人」


「礼なら時計が直ってからにしろ」


「……はいはい」


「あと、昼飯おごれ」


「結局それかよ」


「俺の貴重な有給を使ってんだぞ?」


「わかったよ」


「よし。じゃあ次はあっちだ」


悠人が指さした方向へ、車を走らせた。


\*


五軒目も、駄目だった。


六軒目では、修理の受付すらしていなかった。


そして、七軒目。


商店街から少し離れた住宅街の一角に、その店はあった。


古びた木製の看板。


そこには、かすれた文字で『時計修理』と書かれていた。


「……ここか?」


「ああ。ネットにはほとんど情報がなかったけど、さっきの店で教えてもらった」


「……なるほど」


車を停め、店の前に立つ。


ガラス越しに見える店内には、大小さまざまな時計が並んでいた。


壁掛け時計。


置き時計。


古い腕時計。


そして、いくつもの懐中時計。


「……行くか」


悠人が扉を開けた。


カラン。


小さなベルが鳴った。


「いらっしゃい」


店の奥から、白髪の男性が顔を出した。


七十歳くらいだろうか。


丸い眼鏡をかけ、作業用のエプロンを身につけている。


「すみません。古い懐中時計の修理をお願いしたいんですが」


俺がそう言うと、男性は静かに頷いた。


「見せてごらん」


俺は鞄から時計を取り出した。


男性はそれを受け取ると、少しだけ目を細めた。


「……ほう」


蓋を開き、裏蓋を確かめる。


小さな工具を取り出し、慎重に内部を開いた。


俺と悠人は、黙ってその手元を見つめていた。


「……ずいぶん古いねぇ」


「はい」


「長いこと動いていないだろう?」


「……何十年も前からだそうです」


男性は、時計の内部をじっと見つめた。


「なるほど……」


「……直せそうですか?」


思わず尋ねた。


男性は、すぐには答えなかった。


小さな部品を確認し、工具を置く。


そして、ゆっくりと顔を上げた。


「……どうして、この時計を直したいんだい?」


俺は、少しだけ迷った。


けれど。


「……大切な人の、形見なんです」


男性は黙って聞いていた。


「俺のじゃありません。知り合いのおばあちゃんが、ずっと大切にしている時計で……」


俺は、鈴さんの話をした。


旦那さんが階段で鈴さんを守ったこと。


そのときに時計が壊れてしまったこと。


何十年も、止まったまま大切に持ち歩いていたこと。


そして。


「……もう一度だけ、あの時計の音を聞きたいって」


言葉が、自然と小さくなった。


「……そう言っていたんです」


男性は、しばらく時計を見つめていた。


やがて。


「……そうか」


静かに呟いた。


「いい時計だね」


「……え?」


「ずいぶん大切にされてきたんだろう。外側は傷だらけだけど、手入れはされている」


男性は、懐中時計をそっと作業台に置いた。


「ただね、正直に言うと……簡単な修理じゃない」


「……はい」


「内部の部品がいくつか傷んでいる。代わりの部品も、そう簡単には手に入らない」


胸の奥が、少しだけ沈んだ。


やっぱり。


そう思いかけたときだった。


「……でも」


男性が、眼鏡を押し上げた。


「似た規格の部品が、うちに残っているかもしれない」


「……!」


「加工が必要になるだろうし、必ず直せるとは言えないけどね」


俺は思わず身を乗り出した。


「……お願いできますか?」


「……急ぎなのかい?」


「……はい」


男性は、俺の顔を見つめた。


「……どれくらい?」


俺は、一度だけ息を呑んだ。


「……できれば、今日中に」


悠人が隣で黙っていた。


男性も、しばらく何も言わなかった。


無茶なお願いだということは、わかっている。


何十年も止まっていた時計。


ほかの店では、数か月かかると言われた。


それを、今日中に。


無理だと言われても仕方がない。


けれど。


「……すみません」


俺は頭を下げた。


「無理なお願いだって、わかっています。でも……」


言葉が詰まる。


鈴さんの笑顔が浮かんだ。


窓際の席。


いつものコーヒー。


そして、あの懐中時計。


「……時間が、あまりないんです」


男性は、ゆっくりと時計に目を落とした。


「……そうか」


そして、静かに頷いた。


「……やれるだけ、やってみよう」


「……!」


「ただし、約束はできないよ」


「……はい!」


俺は深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


隣で、悠人も頭を下げた。


「よろしくお願いします」


\*


それから、長い時間が過ぎた。


男性は作業台に向かい、懐中時計の内部を慎重に調べていた。


小さな工具。


虫眼鏡。


細かな部品。


俺には、何をしているのかほとんどわからなかった。


ただ、その指先が驚くほど丁寧に動いていることだけはわかった。


悠人は途中で飲み物を買いに行き、俺にも一本渡してくれた。


「ほら」


「……ありがとう」


「お前、朝からほとんど飲んでねぇだろ」


「……そうだったかな」


「そうだよ」


俺はペットボトルの蓋を開け、一口飲んだ。


冷たい水が喉を通る。


「……なあ、悠人」


「ん?」


「……直るかな」


「知らねぇ」


「……お前な」


「俺は時計職人じゃねぇし」


「……それはそうだけど」


悠人は作業台を見つめた。


「でも、あのじいさんはまだ諦めてねぇだろ」


「……ああ」


「だったら、俺たちも待とうぜ」


その言葉に、俺は小さく頷いた。


「……そうだな」


窓の外では、夕日が傾き始めていた。


店内には、いくつもの時計が並んでいる。


けれど。


俺が聞きたい音は、たった一つだった。


\*


「……よし」


不意に、男性が小さく呟いた。


俺と悠人は、同時に顔を上げた。


「……どうですか?」


男性は答えず、懐中時計をそっと持ち上げた。


裏蓋を閉じる。


竜頭を慎重に回す。


そして、作業台の上に置いた。


「……耳を澄ませてごらん」


俺は、息を止めた。


静かな店内。


遠くで車が走る音。


そして。


カチ。


……カチ。


カチ、カチ、カチ。


「…………!」


小さな音だった。


けれど。


確かに、聞こえた。


何十年も止まっていた時計が。


今。


動いている。


「……動いた……」


自分でも驚くほど、小さな声が出た。


「……悠人」


「ああ」


「……動いたぞ……」


「……見りゃわかる」


悠人はそう言いながら、笑っていた。


俺は、時計を見つめた。


二本の針が、ゆっくりと進んでいる。


「……ありがとうございます……!」


気づけば、深く頭を下げていた。


男性は、少し照れくさそうに笑った。


「まだ調整が必要だけどね。長く止まっていた時計だから、また不具合が出るかもしれない」


「……それでも、十分です」


俺は、顔を上げた。


「本当に……ありがとうございます」


男性は、時計をそっと俺に差し出した。


「……持っていってあげなさい」


「……はい」


「きっと、喜んでくれるよ」


俺は両手で時計を受け取った。


くすんだ金色の懐中時計。


その小さな身体の中で、確かに時間が動いていた。


\*


病院へ向かう車の中。


俺は何度も、助手席の悠人に尋ねた。


「……まだ動いてる?」


「動いてる」


「……本当に?」


「さっきも確認しただろ」


「……もう一回」


「お前、しつこいぞ」


悠人は呆れながらも、時計に耳を近づけた。


「……大丈夫だ。ちゃんと動いてる」


「……そっか」


俺は、ハンドルを握り直した。


「……よかった」


悠人は、しばらく黙っていた。


そして。


「……なあ、翼」


「ん?」


「お前さ」


「うん」


「……本当に、変わんねぇな」


「……何が?」


「知り合ってから、まだ一年も経ってねぇけどさ。お前、最初からそうだったよな」


「……何がだよ」


「自分のことより、誰かのことばっかり」


「……そんなことないよ」


「あるって」


悠人は窓の外を見た。


「……まあ、そういうところが、お前なんだろうけどな」


「……なんだよ、急に」


「別に」


少しだけ、間が空いた。


「……俺だって、あのばあちゃんには世話になってるし」


「……うん」


「いちご狩り、楽しかったしな」


「……そうだな」


「だから、まあ……」


悠人は、少し照れくさそうに鼻を鳴らした。


「……直ってよかったな」


俺は、小さく笑った。


「……ああ」


そして、前を向いた。


「……本当に、よかった」


\*


病院の廊下を、急ぎ足で進む。


悠人も、俺の隣を歩いていた。


鈴さんの病室は、廊下の一番奥。


俺は、懐中時計を握りしめた。


あと少し。


あと少しで。


あの音を、鈴さんに届けられる。


\*


その頃。


鈴さんの病室では、星莉奈と舞がベッドのそばに座っていた。


「……鈴さん、今日は少し顔色がいいですね」


星莉奈が、優しく声をかける。


鈴は、ゆっくりと微笑んだ。


「……ふふっ……そうかしら……」


「はい。昨日より、ずっと」


舞も頷いた。


「鈴さん、またリアンに来てくださいね。今度は私が、とびっきり美味しいコーヒーを淹れますから!」


「……あら……それは……楽しみねぇ……」


鈴は、二人の顔を見つめた。


そして、ふと窓の外に目を向けた。


「……ねぇ……二人とも……」


「はい?」


「……少し……昔話をしても……いいかしら……」


星莉奈と舞は、顔を見合わせた。


「もちろんです」


「私も聞きたいです!」


鈴は、嬉しそうに目を細めた。


「……私の主人ねぇ……」


その声は、ひどく穏やかだった。


「……本当に……不器用な人だったのよ……」


「……そうなんですか?」


星莉奈が尋ねる。


「……ええ……口下手でねぇ……気の利いたことなんて……ちっとも言えない人で……」


鈴は、懐かしそうに微笑んだ。


「……でもね……」


少しだけ、声が柔らかくなった。


「……私が困っていると……いつも一生懸命になってくれたの……」


「……素敵な旦那さんですね」


星莉奈がそう言うと、鈴は少し得意げに笑った。


「……ふふっ……そうでしょう……?」


「……私ね……そんなあの人が……大好きだったのよ……」


舞が、そっと尋ねた。


「……今でも、ですか?」


「……もちろんよぉ……」


鈴は、静かに微笑んだ。


「……今でも……世界で一番……格好いい人だと思っているわ……」


星莉奈の目に、涙が浮かんだ。


「……鈴さん……」


「……ふふっ……泣かないで……」


鈴は、優しく笑った。


「……幸せだったのよ……本当に……」


そのときだった。


バタン!


病室の扉が勢いよく開いた。


「鈴さん!!」


息を切らした翼が、懐中時計を手に立っていた。


その後ろには、悠人の姿もあった。


「……時計……直りました……!」


鈴は、目を見開いた。


ほんの一瞬。


目の前にいる翼の姿が、若い頃の主人と重なった。


階段で転びかけた自分を、必死な顔で抱きとめてくれたあの日。


自分のことなんて、少しも考えていなかった。


ただ、私を守ろうと。


必死だった、あの人。


「……あらあら……」


鈴は、小さく笑った。


星莉奈が振り返る。


「……翼くん?」


鈴は、翼を見つめながら呟いた。


「……本当に……似ているわねぇ……」


「……え?」


翼が首を傾げる。


鈴は、優しく微笑んだ。


「……ふふっ……なんでもないわ……」


星莉奈と舞は、顔を見合わせた。


そして、静かに微笑んだ。


\*


俺は、鈴さんのベッドのそばに立った。


「……鈴さん」


「……朝倉さん……」


「……お待たせしました」


俺は、そっと懐中時計を差し出した。


「……修理できました」


鈴さんの目が、わずかに見開かれる。


「……本当に……?」


「はい」


俺は、ゆっくりと時計の蓋を開いた。


二本の針が、動いている。


少しずつ。


確かに。


時間を刻んでいる。


「…………」


鈴さんは、何も言わなかった。


ただ、じっと時計を見つめていた。


俺は、その時計を鈴さんの手に乗せた。


「……耳に近づけてみてください」


鈴さんは、震える手で時計を持ち上げた。


ゆっくりと。


ゆっくりと。


耳元へ近づける。


そして。


カチ。


カチ。


カチ。


小さな音が、静かな病室に響いた。


鈴さんは、目を閉じた。


その頬を、一粒の涙が伝った。


「…………」


誰も、何も言わなかった。


星莉奈さんも。


舞ちゃんも。


悠人も。


そして、俺も。


ただ、鈴さんを見つめていた。


鈴さんの唇が、かすかに動いた。


「……懐かしい……」


小さな、小さな声だった。


「……あの人の……音だわ……」


時計を耳元に寄せたまま、鈴さんは微笑んだ。


まるで。


遠い昔の、幸せだった夜を思い出しているように。


そして。


「……いい音ねぇ……」


その声は、どこまでも穏やかだった。


\*


数日後。


空は、綺麗に晴れていた。


静かな葬儀場。


白い花に囲まれた祭壇には、鈴さんの写真が飾られていた。


写真の中の鈴さんは、いつものように笑っていた。


あの窓際の席で。


コーヒーを飲みながら。


俺たちに冗談を言っていたときと、何も変わらない笑顔だった。


「……鈴さん……」


星莉奈さんが、小さく呟いた。


隣では、舞ちゃんが静かに涙を流していた。


悠人は、何も言わずに祭壇を見つめていた。


俺も、ただ立ち尽くしていた。


鈴さんが亡くなったと聞いたとき。


不思議と、すぐには涙が出なかった。


あまりにも突然で。


あまりにも、信じられなくて。


けれど。


こうして写真を見つめていると。


少しずつ、実感が湧いてくる。


もう、リアンの扉を開けて。


「こんにちはぁ」


そう言って、入ってくることはない。


いつもの窓際の席に座ることも。


コーヒーを飲みながら、笑うことも。


もう、ないんだ。


「……翼くん」


星莉奈さんが、俺の手を握った。


「……はい」


「……鈴さん、最後に……笑っていましたね」


「……そうですね」


「……時計の音を聞いて……本当に、嬉しそうでした」


俺は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


星莉奈さんは、涙を拭った。


「……ありがとうございました」


「……え?」


「翼くんが、時計を直してくれて……」


「……俺だけじゃないですよ」


俺は、隣の悠人を見た。


「悠人も、一緒に探してくれましたから」


悠人は、少しだけ肩をすくめた。


「……俺は店を調べただけだ」


「そんなことないよ」


「……うるせぇな」


悠人は、顔を背けた。


けれど。


その目元が、少し赤くなっていることに気づいた。


俺は、それ以上何も言わなかった。


\*


焼香を終え、葬儀場を出た。


外には、柔らかな風が吹いていた。


空を見上げる。


雲が、ゆっくりと流れている。


「……なあ、悠人」


「ん?」


「……時計ってさ」


「ああ」


「……不思議だな」


悠人は、俺を見た。


「……何が?」


「止まっていた時間が、また動き出すこともあるんだなって」


悠人は、しばらく黙っていた。


そして。


「……そうだな」


短く答えた。


俺は、もう一度空を見上げた。


鈴さんの懐中時計。


あの時計は、今もどこかで時を刻んでいるのだろうか。


旦那さんとの思い出を乗せて。


鈴さんが最後に聞いた、あの小さな音。


カチ、カチ、カチ。


耳を澄ませば、今でも聞こえてくる気がした。


「……鈴さん」


俺は、静かに呟いた。


「……届きましたか?」


返事はなかった。


けれど。


あのときの鈴さんの笑顔を、俺はきっと忘れない。


止まっていた時計が、もう一度動き出したあの日。


鈴さんが、最後に聞きたかった音。


それは。


大切な人と過ごした時間が、確かにそこにあったことを教えてくれる音だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。