第48話 止まった時間
朝倉翼視点
カラン、カラン。
「こんにちはぁ」
聞き慣れた、のんびりとした声が店内に響いた。
「いらっしゃいませ、鈴さん!」
カウンターの向こうから、舞ちゃんが明るく声をかける。
「あら、舞ちゃん。今日も元気ねぇ」
「もちろんです! 鈴さんもお元気そうですね!」
「ふふっ。元気だけが取り柄だからねぇ」
午後二時。
昼の忙しさが落ち着いたカフェ・リアンには、いつもの穏やかな時間が流れていた。
俺はいつものカウンター席でノートパソコンを開き、仕事の続きをしていた。
「こんにちは、鈴さん」
「あら、朝倉さん。今日もお仕事?」
「ええ。そろそろ一区切りつきそうですけど」
「働き者ねぇ。でも、ちゃんと休まないと駄目よ?」
「それ、鈴さんに言われると説得力がありますね」
「あら、どういう意味かしら?」
「この前のいちご狩り、誰よりも元気だったじゃないですか」
「あらあら。だって、あんなに美味しいいちごがあるんですもの。遠慮なんてしていられないわ」
鈴さんは楽しそうに笑った。
先日のいちご狩り。
結衣ちゃんと爽太くんが夢中になっていちごを頬張る横で、鈴さんも負けじと楽しんでいた。
あの光景を思い出すだけで、自然と頬が緩む。
「鈴さん、今日はいつものコーヒーでよろしいですか?」
厨房から顔を出した星莉奈さんが尋ねる。
「ええ、お願いするわ。それと、今日はケーキもいただこうかしら」
「もちろんです。今日は苺のショートケーキがおすすめですよ」
「あら、またいちご?」
「ふふっ。鈴さん、お好きでしょう?」
「そうねぇ。じゃあ、それをいただこうかしら」
鈴さんはいつもの窓際の席に腰を下ろした。
そして、鞄から小さな懐中時計を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
くすんだ金色の、古い懐中時計。
表面には細かな傷がいくつもついていて、長い年月を感じさせる。
鈴さんが席に着くと、必ずテーブルに置くものだった。
以前、星莉奈さんから聞いたことがある。
あの時計は、亡くなった旦那さんの形見なのだと。
もう随分前から動いていないらしい。
それでも鈴さんは、いつも大切そうに持ち歩いていた。
「鈴さん、その時計って……」
俺が声をかけると、鈴さんは懐中時計に目を落とした。
「あら。これ?」
「ええ。いつも大切にされていますよね」
「ふふっ。そうねぇ」
鈴さんは懐中時計を手に取り、愛おしそうに指で撫でた。
「主人の形見なのよ」
「ええ。以前、星莉奈さんから聞きました」
「あら、そうだったのねぇ」
鈴さんは、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「この時計ね、ちょっと面白い思い出があるのよ」
「……思い出、ですか?」
「ええ。実はね、壊れた理由がちょっと変わっているの」
俺は思わず身を乗り出した。
「そうなんですか?」
「ふふっ。聞いてくれる?」
「もちろんです」
鈴さんは、懐かしそうに目を細めた。
「昔ね、主人と出かけた帰り道に、私が階段で足を滑らせてしまったことがあってねぇ」
「えっ、大丈夫だったんですか?」
「ふふっ。私はね」
鈴さんは、少し得意げに笑った。
「主人がとっさに抱きとめてくれたのよ。自分が下敷きになるようにしてね」
「……それは、すごいですね」
「そうでしょう? 普段は無口で、愛想もなくて、ちっとも格好つけない人だったのに」
鈴さんは時計を見つめた。
「そのとき、主人のポケットに入っていたこの時計が、階段にぶつかってしまってねぇ」
「それで壊れたんですか」
「ええ。私は無傷だったのに、主人は腕を擦りむいて、時計まで壊してしまったの」
「……優しい旦那さんだったんですね」
「本当にねぇ」
鈴さんは、くすりと笑った。
「でも、本人は大慌てだったのよ。私のことを何度も何度も心配して。時計のことなんて、ちっとも気にしていなかったわ」
「はは……なんだか、目に浮かびます」
「私が時計を壊してしまったことを謝ったらね、あの人、なんて言ったと思う?」
「……何て言ったんですか?」
鈴さんは、少しだけ声を低くして、誰かの真似をするように言った。
「『時計はまた買える。でも、お前は買えないだろう』って」
「……!」
思わず、言葉を失った。
鈴さんは、そんな俺を見て楽しそうに笑った。
「ふふっ。普段はあんなに無口なのに、そんなことだけはさらっと言うんだから」
「……格好いいですね、旦那さん」
「でしょう?」
鈴さんは、どこか誇らしげだった。
「でもね、私にとっては、この時計も大切なものなの」
「……そうですよね」
「だって、あの人が私を守ってくれた証なんですもの」
そう言って、鈴さんは時計をそっと閉じた。
「修理には出さなかったんですか?」
「何度かお願いしたのよ。でも、古い時計だから部品がないとか、修理が難しいとか言われてねぇ」
「そうだったんですね……」
「まあ、仕方ないわ。時計は動かなくても、思い出はなくならないもの」
鈴さんは、またいつものように微笑んだ。
俺は、その懐中時計を見つめた。
止まったままの時計。
けれど、鈴さんにとっては、きっと何よりも大切な宝物なんだろう。
\*
「鈴さん、お待たせしました」
星莉奈さんがコーヒーとケーキを運んできた。
「まあ、美味しそう」
「ありがとうございます」
「星莉奈さんの作るケーキは、本当に綺麗ねぇ。食べるのがもったいないくらい」
「そんなこと言わずに、召し上がってください」
「ふふっ。そうね」
鈴さんはフォークを手に取り、小さくケーキを切り分けた。
そして、一口。
「ああ……美味しい」
幸せそうに目を細める。
その表情を見て、星莉奈さんも嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、鈴さん」
星莉奈さんが尋ねた。
「この前のいちご狩り、結衣がまた行きたいって言ってるんですよ」
「あら、そうなの?」
「ええ。今度はもっとたくさん食べるんだって、張り切っていて」
「まあまあ。あの子ったら」
鈴さんは楽しそうに笑った。
「でも、次は負けないわよ?」
「ふふっ。結衣に伝えておきますね」
「爽太くんにもね。あの子、なかなか手強かったもの」
「はは。鈴さん、次も勝負する気満々ですね」
俺が言うと、鈴さんは胸を張った。
「もちろんよ。まだまだ若い子には負けられないわ」
三人で笑った。
穏やかな午後。
コーヒーの香り。
窓から差し込む柔らかな日差し。
そして、テーブルの上に置かれた、くすんだ金色の懐中時計。
いつもと変わらない、カフェ・リアンの日常だった。
「……あら?」
ふと、鈴さんが小さく呟いた。
「鈴さん?」
俺が顔を向けると、鈴さんは少しだけ眉を寄せていた。
「……どうしたんでしょうねぇ……」
「どうしました?」
「……ちょっと……目眩が……」
その言葉に、俺は椅子から立ち上がった。
「鈴さん、大丈夫ですか?」
「ええ……ちょっと……」
鈴さんがテーブルに手をついた。
その顔から、すっと血の気が引いていく。
「……鈴さん?」
返事がない。
次の瞬間。
鈴さんの身体が、ぐらりと傾いた。
「鈴さん!!」
考えるより先に、身体が動いていた。
椅子から崩れ落ちそうになった鈴さんを、慌てて抱きとめる。
「鈴さん! 聞こえますか!?」
返事はなかった。
「星莉奈さん! 救急車を!」
「えっ……?」
振り向いた星莉奈さんの顔が凍りつく。
「鈴さんが倒れました! 119番をお願いします!」
「は、はい!」
星莉奈さんが急いで電話を取り出す。
「舞ちゃん! ほかのスタッフと一緒に、お客さんをお願い!」
「わ、わかりました!」
舞ちゃんが近くのスタッフに声をかけ、店内のお客さんを誘導し始める。
俺は鈴さんを慎重に床へ寝かせた。
「鈴さん! 鈴さん!」
肩に触れ、呼びかける。
反応がない。
胸とお腹の動きを確かめる。
……呼吸はある。
けれど、普段よりずっと弱々しく見えた。
「鈴さん……!」
さっきまで、あんなに楽しそうに笑っていたのに。
旦那さんの話をして。
ケーキを食べて。
次のいちご狩りの話までしていたのに。
「……お願いです」
思わず声が震えた。
「目を開けてください……!」
\*
救急車のサイレンが、遠くから聞こえてきた。
それが近づいてくるまでの時間が、途方もなく長く感じられた。
実際には、ほんの数分だったのかもしれない。
それでも俺には、何十分にも思えた。
救急隊員が店内に駆け込んでくる。
「倒れた方はこちらですか?」
「はい!」
「倒れたときの状況を教えてください」
「さっきまで普通に話していて……急に目眩がすると言って、そのまま意識を失いました」
「頭は打っていますか?」
「いえ、倒れる前に支えました」
隊員たちは手際よく鈴さんの状態を確認していく。
俺は少し離れた場所で、その様子を見つめていた。
何もできない。
ただ、見ていることしかできない。
「搬送します」
ストレッチャーに乗せられた鈴さんが、店の外へ運ばれていく。
「……鈴さん」
星莉奈さんが、小さく名前を呼んだ。
振り向くと、彼女は両手を胸の前で握りしめていた。
今にも泣き出しそうな顔だった。
「星莉奈さん」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりこちらを向いた。
「……翼くん」
「俺、病院に行ってきます」
「私も……」
そう言いかけて、星莉奈さんは店内を見渡した。
まだ数人のお客さんがいる。
舞ちゃんとほかのスタッフたちが、協力して対応していた。
「星莉奈さん」
舞ちゃんが口を開いた。
「お店は私たちに任せてください。今日は早めに閉めましょう」
「でも……」
「大丈夫です。ほかのスタッフもいますから。鈴さんのところに行ってあげてください」
「……ありがとう、舞ちゃん」
星莉奈さんの声が震えた。
俺はそっと彼女の肩に触れた。
「行きましょう」
「……はい」
店を出ようとしたときだった。
ふと、窓際の席が目に入った。
飲みかけのコーヒー。
半分ほど残されたショートケーキ。
そして。
テーブルの上に、くすんだ金色の懐中時計が置かれていた。
俺は足を止めた。
「……翼くん?」
星莉奈さんが振り返る。
「……少しだけ、待ってください」
俺は窓際の席に近づいた。
懐中時計を、そっと手に取る。
冷たい金属の感触が、掌に伝わった。
さっきまで、鈴さんが嬉しそうに眺めていた時計。
旦那さんが、鈴さんを守ったときに壊れた時計。
俺はそれを、大切にポケットへしまった。
「……行きましょう」
\*
病院の待合室は、ひどく静かだった。
白い壁。
整然と並べられた椅子。
時折、廊下を通り過ぎる看護師さんの足音だけが聞こえる。
星莉奈さんは隣の椅子に座り、膝の上で両手を握りしめていた。
「……鈴さん、大丈夫でしょうか」
「……きっと、大丈夫です」
そう答えながら、自分の言葉に何の根拠もないことはわかっていた。
けれど、ほかに何と言えばいいのかわからなかった。
「ついさっきまで……」
星莉奈さんが、ぽつりと呟いた。
「ついさっきまで、笑っていたんです」
「……はい」
「ケーキを美味しいって……いつもみたいに、笑ってくださって……」
言葉が途切れる。
「……また来るわねって、いつも言ってくださるんです」
星莉奈さんは俯いた。
「私……それが、ずっと続くものだと思っていました」
俺は、何も言えなかった。
俺だって、同じだったから。
いつもの席。
いつものコーヒー。
いつもの優しい笑顔。
明日も。
来週も。
来月も。
鈴さんは、あの窓際の席に座っている。
何の疑いもなく、そう思っていた。
「……翼くん」
「はい」
「私、怖いです……」
小さな声だった。
俺は、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
「……俺もです」
強がることなんて、できなかった。
ただ、手を握っていた。
それしかできなかった。
\*
どれくらい時間が経っただろう。
ようやく、診察室の扉が開いた。
「鈴さんの付き添いの方ですか?」
医師の声に、俺たちは立ち上がった。
「はい」
「ご家族の方は?」
「……いえ、俺たちは知人です。ご家族には連絡がついていますか?」
「現在、確認を進めています」
医師は一度言葉を切った。
「詳しい病状については、ご本人やご家族の了承を得てからお話しします。ただ、現在は非常に厳しい状態です」
「……厳しい?」
思わず聞き返していた。
「はい。必要な処置を続けていますが、予断を許さない状況です」
隣で、星莉奈さんが息を呑む。
「……そんな……」
俺は、医師の顔を見つめた。
何か聞かなければ。
何か、できることはないのか。
そう思うのに、言葉が出てこなかった。
「……鈴さんに、会えますか?」
ようやく、それだけを尋ねた。
「今は処置を優先しています。面会できる状態になれば、お伝えします」
「……わかりました」
医師が去ったあとも、俺たちはしばらくその場から動けなかった。
\*
夕方になって、舞ちゃんから連絡が入った。
店は無事に閉められたらしい。
結衣ちゃんと爽太くんのことも、ほかのスタッフたちと協力して対応してくれているという。
『鈴さんはどうですか?』
スマートフォンの画面に表示されたその言葉を、俺はしばらく見つめていた。
何と返せばいいんだろう。
大丈夫だよ。
そう言えたら、どんなによかっただろう。
けれど、今の俺には言えなかった。
『まだ、詳しいことはわからない。かなり厳しい状態みたいだ』
そう返信すると、すぐに既読がついた。
けれど、返事はなかなか来なかった。
きっと、舞ちゃんも言葉を探しているんだろう。
俺はスマートフォンをしまい、隣を見る。
星莉奈さんは、窓の外を見つめていた。
夕日が、病院の廊下を橙色に染めている。
「……翼くん」
「はい」
「鈴さん、前に言っていたんです」
「……何をですか?」
「リアンができて、本当によかったって」
星莉奈さんは、ゆっくりと言葉を続けた。
「ご主人を亡くされてから、家に一人でいる時間が長かったそうなんです。でも、リアンに来れば誰かとお話しできるからって……」
「……そうだったんですね」
「だから、私……」
星莉奈さんの目から、一粒の涙が落ちた。
「もっと、たくさんお話ししておけばよかった……」
「……星莉奈さん」
「もっと、一緒に笑って……もっと……」
俺は、彼女をそっと抱き寄せた。
星莉奈さんは抵抗することなく、俺の胸に顔を埋めた。
小さな嗚咽が聞こえる。
俺は、その背中を優しく撫でた。
何も言えなかった。
慰めの言葉なんて、見つからなかった。
ただ、彼女が泣き止むまで、ずっとそばにいた。
\*
夜になって、鈴さんの状態が少し落ち着いたと聞かされた。
意識も戻り、短時間なら面会できるという。
俺たちは案内され、病室へ向かった。
扉の前で、星莉奈さんが立ち止まる。
「……翼くん」
「はい」
「私……ちゃんと笑えるでしょうか」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「……無理に笑わなくていいと思います」
「でも……鈴さんに、心配をかけたくなくて……」
「それなら、一緒に入りましょう」
俺は彼女の手を握った。
「俺も、そばにいますから」
「……はい」
静かに扉を開けた。
病室には、機械の小さな電子音が響いていた。
ベッドの上に横たわる鈴さん。
鼻には酸素を送る管がつけられ、腕には点滴が繋がっている。
いつもの元気な姿とは、あまりにも違っていた。
「……鈴さん」
星莉奈さんが、ゆっくりと近づく。
すると。
「……あら……」
かすかな声が聞こえた。
鈴さんが、薄く目を開けた。
「……星莉奈さん……」
「鈴さん……!」
星莉奈さんが、慌ててベッドのそばに寄る。
「よかった……本当に、よかった……」
鈴さんは弱々しく微笑んだ。
「……そんな顔……しないで……」
「だって……」
「……せっかくの……綺麗なお顔が……台無しよ……」
いつもの冗談。
いつもの優しい言葉。
けれど、その声はあまりにも小さかった。
俺もベッドのそばに立った。
「……鈴さん」
「あら……朝倉さん……」
「……心配しましたよ」
「……ごめんなさいねぇ……」
鈴さんは、申し訳なさそうに笑った。
「……せっかくの……楽しい午後を……」
「そんなこと、気にしないでください」
俺は思わず言葉を強めた。
「今は、ゆっくり休んでください」
「……ふふっ……」
鈴さんが、小さく笑う。
「……朝倉さんは……本当に……優しい人ねぇ……」
「……そんなことないですよ」
「……いいえ……」
鈴さんは、少しだけ目を閉じた。
俺はポケットに手を入れた。
指先に、冷たい金属が触れる。
「あの……鈴さん」
「……なあに……?」
「これ、リアンに忘れていましたよ」
俺は懐中時計を取り出した。
鈴さんの目が、わずかに見開かれる。
「……あら……」
「大切なものだと思ったので、持ってきました」
鈴さんは、ゆっくりと手を伸ばした。
俺はその手に、くすんだ金色の懐中時計をそっと乗せる。
鈴さんは、震える指で時計を包み込んだ。
「……ありがとう……朝倉さん……」
「いえ」
鈴さんは時計を見つめた。
そして、ゆっくりと蓋を開く。
動かない針。
止まったままの時間。
「……懐かしいわねぇ……」
小さな声だった。
「……あの人……この時計を……本当に大切にしていたの……」
「……はい」
「……毎晩ね……」
鈴さんは、遠くを見るように目を細めた。
「……枕元に……置いていたのよ……」
俺は黙って耳を傾けた。
「……静かな夜になると……聞こえてくるの……」
「……時計の音、ですか?」
「……ええ……」
鈴さんは、かすかに微笑んだ。
「……カチ、カチって……」
その声は、ひどく優しかった。
「……あの音を聞くとね……ああ……今日も、あの人がそばにいるんだなぁって……」
鈴さんの目尻に、小さな涙が浮かんだ。
「……不思議ねぇ……」
「……鈴さん?」
「……あの人がいなくなって……随分経つのに……」
鈴さんは時計を胸元に寄せた。
「……今でも……あの音が……恋しくなるの……」
星莉奈さんが、口元を押さえた。
鈴さんは、少し照れくさそうに笑った。
「……もう一度……聞きたかったわねぇ……」
その言葉に、俺は懐中時計を見つめた。
何十年も前に止まってしまった、小さな時計。
鈴さんがずっと大切にしてきた、旦那さんとの思い出。
そして、もう一度聞きたいと願った音。
「……鈴さん」
俺は、静かに口を開いた。
「その時計、修理できる人を探してみます」
「……え……?」
鈴さんが、驚いたように俺を見た。
「古い時計だから、難しいかもしれません。でも、探すだけならできますから」
「……でも……朝倉さん……」
「大丈夫です。俺がやりたいんです」
鈴さんは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……ふふっ……」
小さく笑った。
「……本当に……お人好しねぇ……」
「よく言われます」
俺が笑うと、鈴さんも嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとう……朝倉さん……」
鈴さんは手の中の懐中時計を見つめた。
そして、ゆっくりと俺に差し出した。
「……それじゃあ……少しだけ……預かってもらおうかしら……」
「……はい」
俺は両手で、懐中時計を受け取った。
「大切に預かります」
鈴さんは、安心したように微笑んだ。
「……ありがとう……」
それだけだった。
何かを頼むわけでもなく。
期待を押しつけるわけでもなく。
ただ、俺の気持ちを受け取ってくれた。
俺は、静かに頷いた。
\*
病室を出ると、星莉奈さんが俺の袖をそっと掴んだ。
「……翼くん」
「はい」
「本当に……修理できるんでしょうか……」
「……わかりません」
正直に答えた。
「でも、まだ何もしていませんから」
「……え?」
「探してもいないのに、無理だって決めるのは早いと思うんです」
星莉奈さんは、じっと俺を見つめていた。
「……翼くんらしいですね」
そう言って、少しだけ微笑んだ。
俺は手の中の懐中時計を見つめた。
くすんだ金色の、小さな時計。
何十年もの間、鈴さんが大切にしてきたもの。
その重みが、掌に伝わってくる。
俺は懐中時計をそっとポケットにしまい、スマートフォンを取り出した。
連絡先を開く。
一ノ瀬悠人。
迷わず、その名前を押した。
数回の呼び出し音のあと、聞き慣れた声がした。
『おう、翼。どうした?』
「……悠人」
『ん?』
「頼みたいことがある」
電話の向こうで、少しだけ間が空いた。
『……なんだよ。珍しく真剣な声してんな』
俺は、静かに息を吸った。
「……止まった時計を、動かしたいんだ」
『……時計?』
「ああ」
俺は病室の扉を、もう一度見つめた。
「……どうしても、もう一度だけ」
その先の言葉が、少しだけ詰まった。
「……あの人に、聞かせてあげたい音があるんだ」
電話の向こうで、悠人が黙った。
そして。
『……わかった』
いつもの、迷いのない声が返ってきた。
『詳しい話、聞かせろよ』
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、悠人」
窓の外には、すっかり夜が広がっていた。
俺はポケットの中の懐中時計に、そっと触れた。
この懐中時計は、もう何十年も止まったままだ。
けれど。
鈴さんは、今も大切に持ち歩いている。
旦那さんが、自分を守ってくれた証として。
そして、もう一度だけ、あの音を聞きたいと願っている。
直せるかどうかなんて、わからない。
それでも。
俺は、諦めたくなかった。
たった一度でもいい。
もう一度、あの音を。
鈴さんに、届けたい。




