第46話 覚えていません!
橘星莉奈視点
目が覚めたとき、最初に感じたのは、いつもと違う枕の感触だった。
ふかふかしていて、少しだけ高さがある。
それから、どこか安心する匂い。
(……あれ?)
私はゆっくりと目を開けた。
見慣れない天井。
見慣れないカーテン。
そして、ベッドの横に置かれた、見覚えのあるパソコンデスク。
「…………」
ここは。
「……翼くんのお部屋?」
どうしてでしょう。
私は確か、昨日の夜、舞ちゃんとお出かけをして……。
おしゃれなお店で、美味しいお料理を食べて。
久しぶりにお酒も飲んで。
それから……。
「…………あれ?」
思い出せない。
楽しかったことは覚えている。
舞ちゃんとたくさん笑ったことも。
甘くて美味しいカクテルを飲んだことも。
翼くんの話をしたことも……。
(……翼くんの話?)
何を話したんでしたっけ。
「……うぅ」
考えようとした途端、頭がずきんと痛んだ。
「いたた……」
どうやら、少し飲みすぎてしまったらしい。
ベッドの脇には、お水の入ったペットボトルと、折りたたまれた小さなメモが置かれていた。
『おはようございます。お水、置いておきますね。無理せず休んでください。 翼』
「…………」
私はメモを手に取り、思わず頬を緩めた。
(……優しい)
きっと、帰ってきた私をここまで運んでくれたんでしょう。
そういえば、昨夜は……。
(……どうやって帰ってきたんでしょう?)
タクシーに乗ったような気もする。
舞ちゃんの声を聞いたような気もする。
でも、そこから先が、まるで霧の中だった。
「……迷惑、かけちゃったかな」
私は小さく呟いて、ペットボトルのお水を飲んだ。
冷たい水が喉を通っていく。
そのとき、廊下の向こうから玄関の扉が開く音がした。
「あ、ただいま」
翼くんの声だ。
続いて、鍵を置く音。
(……結衣を送ってきてくれたんですね)
時計を見ると、もう九時を過ぎていた。
「……えっ!?」
私は慌ててベッドから起き上がった。
(寝坊しちゃった!)
今日はお店がお休みとはいえ、結衣の朝ごはんも、着替えも、保育園の準備も……!
「あっ、星莉奈さん。起きました?」
部屋の扉が軽くノックされ、翼くんが顔を覗かせた。
「お、おはようございます、翼くん!」
「おはようございます。体調はどうですか?」
「だ、大丈夫です! それより、結衣は……!」
「ああ、もう保育園に送ってきましたよ」
「そ、そうですよね……」
「朝ごはんもちゃんと食べましたし、元気に行きました」
「……すみません」
私はしゅんと肩を落とした。
「全部、翼くんに任せてしまって……」
「いいんですよ。昨日は久しぶりのお出かけだったんですから」
翼くんはいつもどおり、穏やかに笑ってくれた。
「結衣ちゃんも、『ママ、まだねんね?』って聞いてましたけど、昨日は楽しかったみたいだよって言ったら、嬉しそうにしてました」
「……そうですか」
「あと、『つーくん、ママにおみずあげてね』って」
「ふふっ……」
思わず笑ってしまう。
結衣らしい。
「……翼くん」
「はい?」
「昨日は、ありがとうございました」
「いえいえ」
「それと……」
私は少し迷ってから、恐る恐る尋ねた。
「……私、昨日、何か変なことをしませんでしたか?」
「…………」
翼くんの笑顔が止まった。
本当に、一瞬だけ。
けれど、私は見逃さなかった。
「……翼くん?」
「えっ? あ、いや……」
翼くんはなぜか視線を泳がせた。
「……そんなに気にしなくても大丈夫ですよ」
「…………」
そんなに。
気にしなくても。
(……それって、何かしたということですよね?)
「……私、何かしたんですね?」
「いや、その……」
「……翼くん?」
「……とりあえず、朝ごはん食べませんか?」
話を逸らされました。
しかも、とても分かりやすく。
(……私、いったい何をしたんでしょう)
胸の奥に、小さな不安が芽生えた。
*
朝ごはんは、翼くんが作ってくれたお粥だった。
卵がふんわりと混ざっていて、優しい味がする。
「……美味しいです」
「よかった。胃に優しい方がいいかなと思って」
「ありがとうございます」
「頭、痛くないですか?」
「少しだけ。でも、大丈夫です」
「今日はゆっくりしましょう」
翼くんはそう言って、私の向かいに座った。
その表情は、いつもどおり優しい。
……いつもどおり、なのだけれど。
「…………」
「……星莉奈さん?」
「……翼くん」
「はい」
「本当に、昨日は何もありませんでしたか?」
「…………」
まただ。
また、少しだけ固まった。
「……えっと」
「……えっと?」
「……何も、というか……」
「…………」
「……星莉奈さん、結構酔ってましたね」
「そ、それは覚えています……」
「舞ちゃんが送ってきてくれたんですよ」
「あ、そうだったんですね」
「はい。タクシーで」
「……それで?」
「……それで?」
「……私、ちゃんと歩けましたか?」
「……まあ、なんとか」
(なんとか!?)
「……翼くんに、何か失礼なことは?」
「…………」
翼くんが、お茶を飲んだ。
ゆっくりと。
とても、ゆっくりと。
(……どうして今、お茶を飲むんですか!?)
「……大丈夫ですよ」
ようやく、翼くんが答えた。
「星莉奈さんが心配するようなことは、何もありませんでしたから」
「……本当ですか?」
「……はい」
なぜでしょう。
今、ほんの少しだけ、耳が赤かったような。
「…………」
「……星莉奈さん?」
「……いえ」
私はお粥を一口食べた。
(……何か、隠してますよね?)
でも、翼くんが言いたくないのなら、無理に聞くのもよくない。
それに、昨日の私は酔っていた。
きっと、少し甘えてしまったのだろう。
(……そうですよね)
(……それくらい、ですよね?)
私はそう自分に言い聞かせた。
*
朝食のあと、翼くんは少しだけ仕事の確認をすると言って、パソコンに向かった。
私はソファで休みながら、舞ちゃんにメッセージを送ることにした。
『舞ちゃん、おはよう。昨日はありがとう。ちゃんと帰れたみたいで安心したよ』
すぐに返事が来た。
『星莉奈さん! おはようございます!』
『昨日、すっごく楽しかったです! また行きましょうね!』
可愛らしいスタンプまで添えられている。
私は微笑んだ。
本当に、楽しかった。
久しぶりに、母親でも、お店のオーナーでもない、ただの私として過ごせた夜だった。
……途中までは、ちゃんと覚えている。
『こちらこそ、ありがとう。また行こうね』
送信してから、私は少し迷った。
そして。
『あのね、舞ちゃん』
『私、昨日、変なこと言ってなかった?』
送信。
既読。
少し間が空いた。
『…………』
(……え?)
『舞ちゃん?』
『星莉奈さん』
『朝倉くんのこと、本当に大好きなんですね♡』
「…………」
私はスマートフォンを見つめた。
(……え?)
その瞬間、頭の奥に、昨夜の光景がぼんやりと浮かんだ。
舞ちゃんの楽しそうな笑顔。
テーブルに並んだ、色とりどりのカクテル。
そして。
『だいすきぃ……つばさくん、だぁいすきぃ♡』
「…………」
(……え)
(……今の、私?)
(…………)
(……私ですね)
私はゆっくりとスマートフォンを伏せた。
そして、クッションに顔を埋める。
「……うわぁ……」
(……恥ずかしい……)
(……私、あんな声で……)
(……舞ちゃんに、何を聞かせてるんでしょう……)
「……うぅぅ……」
思わず、クッションをぎゅっと抱きしめた。
もちろん、翼くんのことが大好きなのは本当だ。
本当だけれど。
(……あんなふうに、何度も……)
(……しかも、あんな甘えた声で……)
「……うわぁ……恥ずかしい……」
私はソファの上で小さく丸くなった。
(……明日、舞ちゃんと普通に顔を合わせられるでしょうか……)
しばらくして、ようやく顔を上げる。
(……でも)
(……まだ、これくらいなら……)
好きな人のことを、好きだと言っただけ。
……そう。
きっと、それだけ。
私は自分にそう言い聞かせた。
(……これ以上、恥ずかしいことなんて……)
(……してませんよね?)
*
しばらくして、翼くんがパソコンの前から立ち上がった。
「星莉奈さん」
「……はい?」
顔を上げると、翼くんが冷たいお茶の入ったグラスを持って立っていた。
「よかったら、飲んでください」
「……飲んで……?」
その言葉を口にした瞬間。
頭の奥で、何かが揺れた。
(……飲んで?)
(……のんで……)
ふと、昨夜の光景が浮かんだ。
翼くんの部屋。
ベッドに腰掛けている私。
目の前には、水の入ったグラスを持った翼くん。
『星莉奈さん、お水飲めますか?』
そして。
『……のませて?』
「…………」
(……え?)
(……今の、私?)
さらに、記憶が続く。
私は唇をきゅっと尖らせて、翼くんに顔を近づけていた。
「…………っ!?」
(……待って)
(……待ってください)
(……私、口移しで飲ませてもらおうとしてたんですか!?)
「……くううううううううううううっ……!」
私はクッションに顔を埋めた。
(……恥ずかしい……!)
(……恥ずかしすぎます……!)
「……星莉奈さん? 大丈夫ですか?」
「……だ、大丈夫です……!」
「……お茶、ここに置きますね」
「……あ、ありがとうございます……」
翼くんがテーブルにグラスを置く。
私はそれを見つめたまま、固まっていた。
(……さっきの『大好き』なんて、まだ可愛い方だったじゃないですか……!)
(……お願いですから……)
(……もう、これ以上のことはしてませんよね……!?)
*
お昼が近づく頃には、頭痛もだいぶ落ち着いていた。
翼くんは台所で、何やらいい匂いのするものを作っている。
「翼くん、何を作っているんですか?」
「うどんです。お昼も、あんまり重くない方がいいかなと思って」
「……ありがとうございます」
「もう少しでできますよ」
「じゃあ、私もお手伝いします」
「えっ、休んでていいですよ?」
「もう元気ですから」
私は笑って、食器棚からお皿を取り出した。
翼くんは少し困ったように笑ったけれど、最後には「じゃあ、お願いします」と言ってくれた。
二人で並んで、台所に立つ。
それだけで、なんだか嬉しい。
(……昨日は、本当に楽しかったな)
舞ちゃんとおしゃれをして。
美味しいお酒を飲んで。
たくさんおしゃべりをして。
そして帰ってきたら、翼くんがいてくれた。
(……幸せですね)
私は小さく微笑んだ。
「星莉奈さん、器、熱いので気をつけてくださいね」
「はい」
翼くんからうどんの器を受け取り、テーブルへ運ぶ。
湯気がふわりと立ち上った。
卵とわかめ、それから刻んだねぎ。
とても美味しそうだ。
「わぁ……美味しそう」
「簡単なものですけど」
「ふふっ。翼くんの作るご飯、私、大好きですよ」
「……ありがとうございます」
翼くんが少し照れたように笑う。
その顔が可愛くて、私もつられて笑ってしまった。
二人分の器を並べて。
お箸を置いて。
お茶も用意して。
「……よし」
私は満足して、翼くんを振り返った。
「翼くん、お待たせしました」
「ありがとうございます」
「ふふっ。じゃあ、食べましょうか」
その瞬間だった。
(…………食べる?)
何かが。
頭の奥で、引っかかった。
(……たべ……?)
一瞬、視界が揺れた気がした。
そして。
突然、記憶が流れ込んできた。
薄暗い部屋。
柔らかなベッド。
すぐ目の前にある、翼くんの顔。
(……あれ?)
翼くんが、驚いたような顔をしている。
どうして?
……あ。
私の腕が。
翼くんの首に、回っている。
(…………え?)
それから。
聞こえた。
甘えるような、少し舌足らずな声。
『……わたしを、たべて?』
「…………」
(…………え?)
(……嘘)
(嘘、嘘、嘘!!)
(……あれって、私?)
(……私なの??)
(…………)
(私だあああああああああ!!!!)
「いやああああああああああああ!!!!!」
「うわっ!? 星莉奈さん!?」
私はその場にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆う。
(何を言ってるんですか、私ぃぃぃ!!)
(よりによって翼くんに!!)
(あんな顔で!!)
(あんな声で!!)
(……しかも!!)
(自分から抱きついてるじゃないですかぁぁぁ!!)
「せ、星莉奈さん!? 大丈夫ですか!?」
翼くんが慌てて駆け寄ってきた。
「ど、どうしたんですか!? 頭、痛いですか!?」
「ち、違いますぅ……!」
「えっ!? じゃあ、気持ち悪いとか!?」
「そ、そうじゃなくてぇ……!」
「……?」
(言えるわけありません!!)
(『私を食べてって言いましたよね!?』なんて!!)
私は膝を抱え、顔を伏せた。
(……どうしよう)
(……どうしよう、どうしよう!!)
昨日の私は、いったい何を考えていたんでしょう。
いえ、何も考えていなかったんでしょうけど!
それにしたって!
(……あんなこと……!)
「……星莉奈さん」
翼くんが、私の隣にしゃがみ込んだ。
「……本当に大丈夫ですか?」
その声が、あまりにも優しくて。
私はますます顔を上げられなくなった。
「……だ、大丈夫です……」
「……でも、顔が真っ赤ですよ?」
「……見ないでくださいぃ……」
「ええっ?」
翼くんはしばらく困ったようにしていたけれど、やがて少し笑った。
「……星莉奈さん、大丈夫ですよ」
「…………っ」
「ほら、食べましょう?」
「どっちをですかぁぁぁぁ!?!?」
「…………え?」
「…………」
「…………」
……あ。
(……言っちゃった)
恐る恐る、顔を上げる。
翼くんが固まっていた。
そして。
その顔が。
みるみる赤くなっていく。
「……せ、星莉奈さん」
「……は、はい……」
「……もしかして」
「…………」
「……昨日のこと、思い出しました?」
「…………」
私は、小さく頷いた。
「……お、思い出しました……」
「…………」
「…………」
「……お昼ご飯の方です」
(分かってますうううううう!!!)
私は再び顔を覆った。
「……も、もう嫌ですぅ……」
「えっ、いや、その……」
「……どうして……」
「……?」
「……どうして、あんなこと言っちゃったんでしょう……!」
翼くんは何も言わなかった。
ただ、困ったように笑っている。
(……絶対、覚えてる)
(……全部、覚えてるんですね!?)
「……翼くん」
「は、はい」
「……昨日の私のこと、忘れてください」
「…………」
「……お願いします」
「……全部、忘れてください……!」
翼くんは少しだけ考えてから、申し訳なさそうに笑った。
「……たぶん、無理です」
「どうしてですかぁぁぁ!!」
「い、いや! あんなこと言われたら、さすがに……!」
「言わないでくださいぃぃ!!」
「す、すみません!」
二人そろって、顔が真っ赤だった。
*
ようやく椅子に座れた頃には、うどんの湯気も少し落ち着いていた。
私はお箸を持ったまま、俯いていた。
向かいの翼くんも、どこか落ち着かない様子でお茶を飲んでいる。
「…………」
「…………」
……気まずい。
ものすごく、気まずい。
(……こんなに恥ずかしい思いをしたの、いつ以来でしょう)
いえ。
こんな思い、初めてかもしれない。
「……あの」
私が口を開くと、翼くんが顔を上げた。
「はい」
「……昨日は、本当にすみませんでした」
「……謝らなくていいですよ」
「でも……」
「星莉奈さん、酔ってたんですから」
「……それでも、あんなこと……」
言いかけて、また顔が熱くなる。
翼くんは少しだけ笑った。
「……正直、びっくりはしました」
「……うぅ」
「でも、嫌だったわけじゃないです」
「…………え?」
思わず顔を上げた。
翼くんは、少し照れたように頬を掻いている。
「……ただ、星莉奈さん、あのときかなり酔ってたので」
「…………」
「……だから、ちゃんと寝てもらおうと思って」
私は、そっとお箸を置いた。
「……翼くん」
「はい?」
「……昨日、私たち……」
そこまで言って、声が小さくなった。
翼くんは、すぐに私の聞きたいことを察してくれたらしい。
「……何もしてませんよ」
「…………」
「お水を飲んでもらって、寝てもらいました」
「……そう、ですか」
ほっとした。
……ほっとした、はずなのに。
胸の奥に、ほんの少しだけ、別の気持ちが生まれた。
(……何も、してないんですね)
いえ。
当然です。
酔っていたんですから。
翼くんがそうしてくれたのは、とても優しいことだと思う。
……でも。
「…………」
「……星莉奈さん?」
「……いえ」
私は首を振った。
すると、翼くんが少しだけ微笑んだ。
「……あ、でも」
「……?」
「おでこには、キスしました」
「…………」
「……それは、すみません」
「…………え?」
今度は、別の記憶が浮かんだ。
額に触れた、柔らかい感触。
それから、自分の声。
『ちゅーされたぁ〜』
「…………っ!!」
私は両手で顔を覆った。
「……そ、それも思い出しました……!」
「えっ!? そこも!?」
「……はいぃ……」
「……あはは」
翼くんが、とうとう笑ってしまった。
「……笑わないでください……」
「す、すみません。でも……」
「……でも?」
「……星莉奈さん、昨日、すごく可愛かったので」
「…………」
(…………え?)
顔が熱い。
さっきから、ずっと熱い。
もう、これ以上赤くなれないと思っていたのに。
「……翼くん」
「はい?」
「……そういうことを、さらっと言わないでください……」
「……えっ?」
「……心臓に悪いです」
翼くんは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「……それ、昨日の俺も同じでしたよ」
「…………」
「……特に、最後のは」
「思い出させないでくださいぃぃ!!」
また、叫んでしまった。
翼くんはお腹を抱えて笑っている。
(……もう)
(……翼くんの意地悪)
でも。
その笑顔を見ていると、私も少しだけ笑ってしまった。
「……翼くん」
「はい」
「……本当に、ありがとうございました」
「……はい」
「……昨日、ちゃんと私を大切にしてくれて」
翼くんは少し驚いたように私を見た。
そして、いつもの優しい顔で笑った。
「……当たり前ですよ」
「…………」
「星莉奈さんは、俺にとって大切な人ですから」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
私は小さく頷いた。
「……はい」
少しだけ、沈黙が流れた。
けれど、今度の沈黙は、気まずくなかった。
翼くんが、お箸を手に取る。
「……さて」
「……はい」
「そろそろ、本当に食べましょうか」
「……ふふっ。そうですね」
私もお箸を持った。
「いただきます」
「いただきます」
うどんを一口。
優しいお出汁の味が、口いっぱいに広がる。
「……美味しい」
「よかったです」
翼くんが嬉しそうに笑う。
私はその顔を見つめて、ふと思った。
……昨日の私は、きっと。
お酒の力を借りて、普段は恥ずかしくて言えないことを、全部言ってしまったんだろう。
翼くんが大好きだということも。
もっと甘えたいということも。
……あんな、とんでもないことまで。
(……でも)
好きな気持ちまで、嘘だったわけじゃない。
私はそっと、お箸を置いた。
「……翼くん」
「はい?」
「……昨日のことなんですけど」
翼くんの手が、ぴたりと止まった。
「……は、はい」
私は少しだけ迷ってから、微笑んだ。
「……あの、全部がお酒のせいだったわけじゃありませんから」
「…………え?」
「……翼くんのことが大好きなのは、本当です」
翼くんが、目を丸くした。
そして。
「…………っ」
今度は、翼くんの顔が真っ赤になった。
「……せ、星莉奈さん」
「……はい?」
「……それ、今言います?」
「……ふふっ」
「……俺、まだ食べてる途中なんですけど……」
「……私だって、さっきからずっと恥ずかしいんですよ?」
少しだけ、仕返し。
そう思って笑うと、翼くんは困ったように眉を下げた。
「……参りました」
「ふふふっ」
二人で笑い合う。
昨日の夜のことは、きっと一生忘れられない。
……できれば、忘れたい部分もあるけれど。
それでも。
こうして笑い合えるのなら。
(……悪くない、のかもしれませんね)
*
食べ終わった器を前に、私は小さく息をついた。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした。お口に合ってよかったです」
「ふふっ。とっても美味しかったです」
翼くんは嬉しそうに微笑んだ。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、穏やかな時間が流れている。
……よかった。
ようやく、普通にお話ができるようになりました。
そう思った、そのとき。
「……あ、星莉奈さん」
「はい?」
「このあと、食べてもいいですか?」
「……え?」
食べる?
もう、お昼ご飯は食べ終わったはずだけれど。
(……あ、デザートでしょうか)
そういえば、冷蔵庫にプリンが残っていたような。
結衣のおやつ用に買ったものだけれど、まだいくつかあったはず。
「ふふっ。もちろんですよ」
「……本当ですか?」
「はい。何を食べるんですか? プリンならあったと思いますけど」
翼くんは、少しだけ目を丸くした。
それから。
なぜか、いたずらっぽく笑った。
「……プリンじゃないですよ」
「……?」
「……星莉奈さんを、ですよ」
「…………」
「…………」
(…………え?)
(……私?)
(……私を?)
(…………)
(私を!?)
「~~~~っ!!」
一瞬で、顔が熱くなった。
「つ、翼くんっ!?」
「……はい?」
「な、何を言ってるんですかっ!」
「……昨日、星莉奈さんが言ってたので」
「思い出させないでくださいぃぃ!!」
翼くんは、くすくすと笑っている。
(……もうっ!)
(……翼くん、絶対に楽しんでますよね!?)
「……冗談ですよ」
「…………」
「……嫌だったら、ちゃんと言ってくださいね」
翼くんは、いつもの優しい顔に戻っていた。
私はその顔を見つめた。
……ずるい。
そんなふうに言われたら。
私は視線を落とし、膝の上で指をぎゅっと握った。
「…………」
「……星莉奈さん?」
「…………はい」
「……え?」
「……い、いいですよ……」
翼くんの笑顔が止まった。
「…………」
「…たべても………」
「……えっ?」
私は顔を上げられないまま、小さな声で続けた。
「……翼くんなら……」
「…………っ!」
*




