第44話 あなたのそばで
朝倉翼視点
「つーくん! きょう、ママおやすみなんだよ!」
朝食の席で、結衣ちゃんが嬉しそうに教えてくれた。
「そうだね。今日は星莉奈さん、お休みだもんね」
「うん! だから、いっしょにあそべる!」
「ふふっ。そうですね」
向かいに座る星莉奈さんが、優しく微笑む。
「でも結衣、今日は保育園がありますよ?」
「……え?」
結衣ちゃんの手が止まった。
「ほいくえん?」
「そうですよ」
「……ママ、おやすみなのに?」
「うん。今日はママ、少しおうちで休ませてもらおうかなって」
「……むぅ」
結衣ちゃんは頬を膨らませた。
……ああ、なるほど。
ママがお休みなら、自分もお休みだと思ったんだな。
「結衣ちゃん」
「なあに?」
「今日は保育園でいっぱい遊んできてね。帰ってきたら、三人で何かしようか」
「……さんにん?」
「うん。結衣ちゃんと、ママと、俺」
「……ほんと?」
「もちろん」
すると、結衣ちゃんは少し考えたあと、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、おみせやさん!」
「お店屋さん?」
「うん! ゆいがおみせのひと!」
「いいね。じゃあ俺、お客さんになるよ」
「ママも!」
「ふふっ。はい、ママもお客さんですね」
「やったー!」
さっきまで膨らんでいた頬が、あっという間に笑顔に変わった。
……単純というか、素直というか。
本当に可愛いなぁ。
「じゃあ、いっぱい食べて、元気に行こうか」
「はーい!」
結衣ちゃんは元気よく返事をすると、再び朝ごはんを食べ始めた。
その様子を見て、星莉奈さんと目が合う。
「……ありがとうございます、翼くん」
「いえいえ」
小さく笑い合う。
いつもの朝。
いつもの食卓。
でも、今日は少しだけ違う。
星莉奈さんが、一日お休みなのだ。
*
結衣ちゃんを保育園へ送り届け、俺たちは家に戻ってきた。
玄関で靴を脱いだ星莉奈さんが、大きく息を吐く。
「……ふぅ」
「お疲れさまです」
「ふふっ。まだ朝ですよ?」
「でも、毎日忙しいじゃないですか」
「……そうですね」
星莉奈さんは少し照れくさそうに笑った。
リアンのオーナーとして、毎日店に立っている星莉奈さん。
接客も、調理も、仕込みも。
小さなお店とはいえ、やることは山ほどある。
しかも帰ってくれば、結衣ちゃんのお母さんだ。
休みの日くらい、ゆっくりしてほしい。
「今日は何か予定があるんですか?」
「そうですね……」
星莉奈さんは少し考えた。
「お洗濯をして、お掃除をして……あとは、夕食の買い物でしょうか」
「……星莉奈さん」
「はい?」
「それ、お休みになってませんよ」
「……あ」
俺がそう言うと、星莉奈さんは困ったように笑った。
「……ふふっ。確かにそうですね」
「洗濯は朝のうちに終わりましたし、掃除も昨日しましたよ。買い物は結衣ちゃんのお迎えの帰りにでも寄りましょう」
「でも……」
「今日はゆっくりしてください」
星莉奈さんは俺を見つめたあと、ふっと表情を緩めた。
「……それじゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「もちろんです」
「……ありがとうございます」
そう言って、星莉奈さんはソファへ腰を下ろした。
そして、背もたれにゆっくりと体を預ける。
「……ああ」
小さな声が漏れた。
「……気持ちいいです」
「ははっ。よかったですね」
「ふふっ。なんだか、久しぶりに何もしない時間です」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。
……そうだよな。
何もしなくていい時間って、案外貴重なんだ。
「じゃあ、俺は仕事してきますね」
「はい。頑張ってください」
「星莉奈さんは、のんびりしててくださいね」
「……ふふっ。分かりました」
俺は仕事部屋へ向かった。
扉を閉める直前、ちらりと振り返る。
星莉奈さんはソファに座り、窓から差し込む朝日を眺めていた。
その横顔は、いつもより少しだけ穏やかに見えた。
……よし。
俺も頑張ろう。
*
午前中の仕事は、思っていたより順調に進んだ。
プログラムの修正を終え、動作確認をする。
「……よし、問題なし」
時計を見ると、もう昼前だった。
「そろそろ休憩するか」
椅子から立ち上がり、リビングへ向かう。
すると。
「……あれ?」
ソファの上で、星莉奈さんが眠っていた。
横向きになり、クッションに頬を寄せている。
テレビはついていない。
テーブルの上には、途中まで読んでいたらしい本が一冊。
……寝ちゃったのか。
そっと近づく。
「……すぅ……」
小さな寝息。
穏やかな寝顔。
いつもリアンで見せる、きりっとしたオーナーの表情とは少し違う。
……可愛いなぁ。
いや。
それより、寒くないかな。
俺は棚からブランケットを取り出し、星莉奈さんの肩にそっと掛けた。
「……ゆっくり休んでくださいね」
小さく呟く。
もちろん返事はない。
でも、なんだか嬉しかった。
星莉奈さんが、こうして安心して眠ってくれていることが。
……さて。
お昼ごはん、どうしようかな。
冷蔵庫を開ける。
卵。
ベーコン。
玉ねぎ。
それから、昨日の残りごはん。
「……よし」
今日はオムライスにしよう。
星莉奈さんが起きた時、すぐに食べられるように。
俺は袖をまくり、静かに料理を始めた。
*
「……ん……」
キッチンで仕上げの準備をしていると、ソファの方から小さな声が聞こえた。
顔を出すと、星莉奈さんがゆっくりと体を起こしていた。
「……あれ……?」
まだ少し眠そうな目で、辺りを見回している。
そして、自分に掛かっているブランケットに気づいた。
「……これ……」
星莉奈さんは、ブランケットの端をそっと指でつまんだ。
しばらくそれを見つめてから、俺の方を見る。
「……翼くんが、掛けてくださったんですか?」
「はい。気持ちよさそうに寝てたので」
「……そうだったんですね」
星莉奈さんは小さく微笑んだ。
そして、ブランケットを両手でそっと引き寄せる。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。寒くなかったですか?」
「はい。とても温かかったです」
そう答えた星莉奈さんは、もう一度ブランケットに視線を落とした。
その口元には、まだ小さな笑みが浮かんでいる。
……そんなに嬉しかったのかな。
ただブランケットを掛けただけなんだけど。
「……翼くん」
「はい?」
「……こういうの、嬉しいですね」
「え?」
「目が覚めたら、誰かが自分のことを気にかけてくれていたんだって……分かるのが」
星莉奈さんは少し照れたように笑った。
「……ふふっ。なんだか、幸せです」
その笑顔を見た瞬間。
俺まで、胸の奥が温かくなった。
「……それなら、よかったです」
「はい」
「あ、そうだ。星莉奈さん」
「何ですか?」
「お昼ごはん、もうすぐできますよ」
「……え?」
星莉奈さんが目を丸くした。
「翼くんが、作ってくださったんですか?」
「はい。簡単なものですけど」
「……私、すっかり寝てしまって……」
「今日はお休みなんですから、それでいいんですよ」
「でも……」
「それに、俺もお腹空いてましたし」
そう言うと、星莉奈さんは少しだけ笑った。
「……ふふっ。ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……何だか、今日は甘えてばかりですね」
「いいじゃないですか。たまには」
「……そうですね」
星莉奈さんは、嬉しそうに微笑んだ。
「……今日は、そうさせてもらいます」
*
「わぁ……!」
テーブルにオムライスを並べると、星莉奈さんが嬉しそうな声を上げた。
「おいしそうですね!」
「お口に合うといいんですけど」
「ふふっ。翼くんのお料理なら、きっとおいしいです」
「それ、ちょっとプレッシャーですね」
「あら。そうですか?」
「はい。リアンのオーナーに食べてもらうわけですから」
「……ふふっ。今日はただのお客さんですから、安心してください」
「じゃあ、星莉奈さん」
「はい?」
「本日のランチ、オムライスでございます」
少し大げさに頭を下げる。
すると、星莉奈さんも楽しそうに笑った。
「ありがとうございます、シェフ」
「どうぞ、ごゆっくり」
「ふふっ」
二人で笑い合いながら、手を合わせた。
「いただきます」
星莉奈さんがスプーンを手に取り、オムライスを一口食べる。
「……ん!」
「どうですか?」
「……おいしいです!」
「よかった」
「卵もふわふわで……ふふっ。幸せです」
そう言って、また一口。
その姿を見ているだけで、作った甲斐があったと思える。
……料理って、不思議だな。
誰かがおいしそうに食べてくれるだけで、こんなに嬉しい。
「翼くんも、食べてくださいね?」
「あ、はい」
慌てて自分のスプーンを持つ。
すると、星莉奈さんがくすっと笑った。
「……私の顔、何かついてますか?」
「えっ!? い、いえ!」
「……ふふっ。そうですか」
……しまった。
見すぎてた。
俺は少し照れながら、オムライスを口に運んだ。
*
昼食を終え、俺は食器をシンクへ運んだ。
「翼くん、洗い物は私がしますよ?」
「いいですよ。今日は星莉奈さんのお休みなんですから」
「でも、お料理まで作っていただいたのに……」
「じゃあ、またおいしいコーヒーを淹れてください。それでおあいこです」
「……ふふっ。分かりました」
星莉奈さんは小さく笑って、ソファへ戻っていった。
俺は蛇口をひねり、皿を洗い始める。
……それにしても。
今日は星莉奈さん、よく眠ってたな。
やっぱり、普段の疲れが溜まっているんだろう。
そんなことを考えていると。
ぎゅっ。
「……え?」
突然、背中に柔らかな温もりを感じた。
腰にそっと回された二本の腕。
背中に、こつんと額が触れる。
「……星莉奈さん?」
「……はい」
「……どうしたんですか?」
「……ふふっ」
返事の代わりに、小さな笑い声。
そして、背中から控えめな声が聞こえた。
「……邪魔ですか?」
「えっ!? い、いえ! 大丈夫ですけど……!」
突然のことに、思わず声が裏返った。
すると、星莉奈さんは俺の背中に頬を寄せたまま、小さく呟いた。
「……くっついていたいんです。だめですか?」
「…………っ!」
……待って。
ちょっと待って。
今、何て?
くっついていたい?
だめですか?
……かわいすぎるだろおおおお!!
なんだこの人!
普段はあんなに落ち着いているのに!
今日はどうしちゃったんだ!?
いや、嬉しい!
めちゃくちゃ嬉しいけど!
心臓がもたない!!
「……翼くん?」
「……だ、だめ……」
「…………」
「……じゃないです……」
「……ふふっ。よかった」
ぎゅっ。
背中に回された腕に、少しだけ力がこもった。
「……ありがとうございます、翼くん」
……ああ、もう。
この人には一生敵わない気がする。
俺は蛇口を止めた。
「……星莉奈さん」
「はい?」
「……洗い物、ちょっとだけ後回しにしてもいいですか?」
「……ふふっ。どうしてですか?」
「……今、動くのがもったいなくて」
「…………」
背中越しに、星莉奈さんが小さく息を呑む気配がした。
そして。
「……ふふっ」
さっきよりも少し照れたような声で、笑った。
「……私も、同じです」
……ああ。
幸せって。
案外、こういう時間のことなのかもしれない。
*
午後の仕事を再開しようと、俺は仕事部屋へ戻った。
椅子に腰を下ろし、パソコンの画面を確認する。
「さて……午後も頑張りますか」
午前中に進めていた作業の続きを開く。
その時だった。
コンコン。
控えめなノックの音が聞こえた。
「はい、どうぞ」
「……失礼します」
扉がゆっくりと開き、星莉奈さんが顔を覗かせた。
その手には、コーヒーカップが一つ。
「翼くん、コーヒーを淹れたので……」
「あ、ありがとうございます!」
差し出されたカップを受け取る。
ふわりと広がる、深煎りの香ばしい香り。
……ああ、いい匂い。
「ちょうど飲みたいと思ってたんです」
「ふふっ。それならよかったです」
星莉奈さんは嬉しそうに微笑んだ。
「お仕事、頑張ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「私は、もう少しお昼寝してきますね」
「あはは。ゆっくり休んでください」
「はい。……それでは」
星莉奈さんは静かに部屋を出ていった。
……ふふっ。
今日は本当にのんびり過ごしてるなぁ。
普段はリアンで忙しく働いているんだ。
こういう日があったっていい。
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「……おいしい」
やっぱり、星莉奈さんの淹れるコーヒーは格別だ。
さて。
俺も仕事を頑張ろう。
そう思ってキーボードに手を伸ばした、その数分後。
コンコン。
「……ん?」
またノックが聞こえた。
「はい?」
扉が少しだけ開く。
「……翼くん」
「あれ、星莉奈さん。どうしました?」
星莉奈さんは扉の隙間から顔を覗かせたまま、何やら言いにくそうにしている。
「……あの」
「はい?」
「……一つ、お願いしてもいいですか?」
「もちろんです。何ですか?」
「…………」
少しの沈黙。
そして、星莉奈さんは小さな声で言った。
「……ここで、寝てもいいですか……?」
「……えっ?」
思わず聞き返してしまった。
「ここ、ですか?」
「……はい」
星莉奈さんは、ちらりと部屋の奥にあるベッドへ視線を向けた。
「……お邪魔でしょうか……?」
「い、いや! 全然大丈夫ですよ!」
「……本当ですか?」
「もちろんです!」
すると、星莉奈さんの表情がぱっと明るくなった。
「……ふふっ。ありがとうございます」
そう言って、部屋の中へ入ってくる。
そして。
俺のベッドに、そっと腰掛けた。
……え?
いや、もちろんいいって言ったけど。
本当にここで寝るんだ。
星莉奈さんはゆっくりと横になった。
そして、俺の枕に顔を埋める。
「…………」
……なんだろう。
ものすごく落ち着かない。
いや、俺の部屋なんだけど。
自分の部屋なのに、落ち着かない。
すると。
「……ふふっ」
枕に顔を埋めたまま、星莉奈さんが小さく笑った。
「……翼くん」
「は、はい?」
「……翼くんの匂いがします」
「えっ!?」
思わず椅子から立ち上がりそうになった。
「す、すみません! 臭かったですか!?」
すると、星莉奈さんは顔を上げ、きょとんとした表情を浮かべた。
そして。
「……ふふっ」
楽しそうに笑った。
「違いますよ」
「え?」
「……安心するんです」
「…………っ!」
……待って。
今、なんて?
俺の匂いで安心する?
しかも、そんな幸せそうな顔で?
……かわいすぎるだろおおおお!!
いや、ちょっと待て。
俺の枕。
今、星莉奈さんに抱きしめられてるよな?
しかも、顔まで埋めてもらってるよな?
…………。
おい、枕!!
そこを代われええええ!!
……いや、何を言ってるんだ俺は。
枕に嫉妬してどうする。
落ち着け。
俺は大人だ。
大人なんだぞ。
「……翼くん?」
「は、はいっ!?」
「……どうかしました?」
「い、いえ! 何でもありません!」
「……ふふっ。変な翼くん」
そう言って、星莉奈さんはもう一度枕に頬を寄せた。
……くっ。
枕め。
羨ましいやつだ。
俺は深く息を吐き、パソコンの画面に向き直った。
……仕事しろ、俺。
カタカタカタ。
……。
ちらっ。
ベッドを見る。
星莉奈さんは、横向きになって目を閉じていた。
……。
カタカタカタ。
……。
ちらっ。
……可愛いなぁ。
いやいや。
仕事だって。
カタカタカタ。
……。
ちらっ。
……本当に可愛いなぁ。
だめだ。
全然集中できない。
俺は小さく息を吐いた。
……まったく。
今日はどうしちゃったんだろう。
普段の星莉奈さんは、もっと落ち着いていて。
俺の仕事を邪魔しないように、いつも気を遣ってくれる人だ。
それなのに。
今日は少しだけ、甘えん坊だ。
……いや。
もしかしたら。
普段は、甘えるのを我慢しているのかもしれない。
リアンではオーナーとして。
家では結衣ちゃんのお母さんとして。
いつも誰かのために頑張っている。
だからこそ。
こうして何も考えずに眠れる時間が、必要なのかもしれない。
そんなことを考えていると。
「……すぅ……」
小さな寝息が聞こえてきた。
見ると、星莉奈さんはすっかり眠っていた。
俺の枕を両手で抱えるようにして。
穏やかな表情で。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
……本当に、気持ちよさそうだ。
俺は椅子から立ち上がり、そっとベッドへ近づいた。
足元に畳んであった薄い掛け布団を、星莉奈さんの肩まで掛ける。
「……おやすみなさい、星莉奈さん」
小さく呟く。
返事はない。
ただ、規則正しい寝息が聞こえるだけ。
俺は仕事机に戻り、再びキーボードに手を置いた。
カタカタカタ。
時折、ベッドへ視線を向ける。
そこには、幸せそうに眠る星莉奈さん。
……なんだか、不思議だ。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ仕事。
いつもと同じパソコン。
なのに。
今日は、いつもより少しだけ温かい。
……あ。
そういえば。
俺、今日ちゃんと仕事終わるかな。
ちらっ。
「……すぅ……」
……可愛い。
いや、本当に。
こんな可愛い人が隣で寝ていて、集中できる男なんているのか!?
俺は誰にともなく心の中で叫びながら、再びキーボードを叩き始めた。
*
「……ふぅ」
作業していたファイルを保存し、俺は大きく伸びをした。
時計を見ると、もうすぐ結衣ちゃんのお迎えの時間だった。
「……そろそろか」
ベッドに目を向ける。
星莉奈さんは、まだ気持ちよさそうに眠っていた。
俺の枕を抱きしめたまま、すやすやと小さな寝息を立てている。
……結局、ずっと寝てたなぁ。
でも、これだけ眠れるってことは、それだけ疲れてたんだろう。
俺は椅子から立ち上がり、ベッドのそばへ向かった。
「……星莉奈さん」
「…………」
「……せり、星莉奈さん」
肩にそっと手を添える。
「……起きてください。そろそろ結衣ちゃんのお迎えの時間になりますよ」
「……ん……」
星莉奈さんが小さく身じろぎした。
「……翼くん……?」
「はい。おはようございます」
「……おはよう……ございます……」
眠たそうな声。
ゆっくりと目を開けた星莉奈さんは、しばらく俺の顔を見つめていた。
「…………」
「……星莉奈さん?」
「……あっ」
突然、何かに気づいたように目を見開いた。
「す、すみません!」
「えっ?」
星莉奈さんは慌てて上半身を起こした。
「わ、私……いびき、かいてませんでしたか!?」
「……え?」
「その……翼くんがお仕事している横で、ぐっすり寝てしまって……」
少し頬を赤くしながら、心配そうにこちらを見上げてくる。
……ああ。
そういうことか。
「大丈夫ですよ。静かに寝てました」
「……本当ですか?」
「はい。すごく気持ちよさそうでした」
「……よかったぁ……」
星莉奈さんは胸に手を当て、ほっと息を吐いた。
……いや。
待って。
寝起きでそんな安心した顔するの、反則じゃないですか?
「……あの、翼くん」
「はい?」
「……お仕事の邪魔には、なりませんでしたか?」
「全然ですよ」
「……本当に?」
「はい。むしろ、癒やされました」
「……え?」
「……あっ」
しまった。
つい本音が。
星莉奈さんが、ぱちぱちと瞬きをする。
そして、じわじわと頬を赤くした。
「……そ、そういうことを……さらっと言わないでください……」
「す、すみません!」
「……もう」
星莉奈さんは照れくさそうに笑うと、俺の枕に視線を落とした。
「……でも、本当にぐっすり眠れました」
「それならよかったです」
「……翼くんのおかげですね」
「え?」
「……ふふっ。秘密です」
そう言って、星莉奈さんはベッドから降りた。
……秘密って。
さっき自分で俺の匂いがするとか言ってたじゃないですか。
今さら秘密にされても!
……いや。
可愛いからいいけど。
「さて、結衣ちゃんを迎えに行きましょうか」
「はい。俺も準備しますね」
「……あの、翼くん」
「はい?」
星莉奈さんは少しだけ振り返り、柔らかく微笑んだ。
「……また、ここでお昼寝してもいいですか?」
「……もちろんです」
「……ふふっ。ありがとうございます」
その笑顔を見て、俺も自然と笑っていた。
……ただし。
次は枕に嫉妬しないようにしよう。
……いや。
無理かもしれない。
*
「ママー! つーくーん!」
保育園の門から、結衣ちゃんが元気いっぱいに走ってきた。
「おかえり、結衣」
「おかえり、結衣ちゃん」
「ただいまー!」
結衣ちゃんは星莉奈さんに飛びつくと、すぐに俺の方を向いた。
「つーくん! きょうね、ゆい、おえかきしたの!」
「へえ! 何を描いたの?」
「ママと、つーくんと、ゆい!」
「えっ?」
「みてみて!」
結衣ちゃんは通園バッグから一枚の紙を取り出した。
そこには、三人の人間が並んで描かれていた。
真ん中には、小さな女の子。
その両隣に、大人が二人。
みんな、にっこり笑っている。
「……これが結衣ちゃん?」
「うん!」
「じゃあ、こっちがママで……」
「こっちがつーくん!」
「そっか」
俺は思わず笑った。
「上手に描けたね」
「えへへ!」
結衣ちゃんは得意げに胸を張った。
星莉奈さんも隣から絵を覗き込み、嬉しそうに微笑む。
「とっても上手ね、結衣」
「でしょー!」
「おうちに飾りましょうか」
「うん! いちばんみえるとこ!」
「ふふっ。そうね」
俺はもう一度、その絵を見た。
三人が並んで笑っている。
ただ、それだけの絵。
なのに。
なんだか、胸がいっぱいになった。
「……つーくん?」
「ん?」
「どうしたの?」
「……ううん。嬉しいなって」
「えへへ!」
結衣ちゃんは俺の手をぎゅっと握った。
「かえろ!」
「うん。帰ろうか」
反対側では、星莉奈さんが結衣ちゃんの手を握る。
三人で並んで歩き始めた。
……ああ。
帰る場所があるって、いいな。
そんなことを、ふと思った。
*
夕食を終えたあと。
「いらっしゃいませー!」
リビングに、元気な声が響いた。
結衣ちゃんのお店が、開店したらしい。
テーブルの上には、おもちゃのお皿とコップ。
そして、積み木で作られた料理らしきものが並んでいる。
「いらっしゃいませ! なんめいさまですか!」
「二名です」
俺が答えると、結衣ちゃんは大きく頷いた。
「こちらへどうぞー!」
「ありがとうございます」
隣では、星莉奈さんが楽しそうに笑っている。
「ふふっ。立派なお店ですね」
「うん! ゆいのおみせ!」
「店長さん、おすすめは何ですか?」
俺が尋ねると、結衣ちゃんは少し考えた。
「……おむらいす!」
「おっ。オムライス!」
「あと、いちごのけーき!」
「いいですねぇ」
「あと、からあげ!」
「豪華だなぁ」
「あと、らーめん!」
「……ずいぶん幅広いお店ですね」
思わず呟くと、星莉奈さんがくすくす笑った。
「翼くん、店長さんに失礼ですよ」
「あ、すみません」
「ふふっ」
結衣ちゃんは得意げにおもちゃの皿を運んできた。
「おまたせしましたー!」
「ありがとうございます」
「おいしい?」
「うん。すごくおいしいよ!」
「えへへ!」
俺が食べる真似をすると、結衣ちゃんは満足そうに笑った。
今度は星莉奈さんの前にも、お皿を置く。
「ママも!」
「はい。いただきます」
星莉奈さんも小さなスプーンを持ち、食べる真似をした。
「……ん! おいしい!」
「でしょー!」
「結衣はお料理が上手ね」
「ママより?」
「……あら」
星莉奈さんが少しだけ目を丸くした。
そして、いたずらっぽく笑う。
「それは、どうかしら?」
「ゆいのほうがじょうず!」
「ふふっ。じゃあ、今度ママと勝負しましょうか」
「しょうぶ!」
……おお。
リアンのオーナーに勝負を挑むとは。
なかなか将来有望だな。
「じゃあ、俺は審査員ですね」
「つーくんは、ゆいのかちっていうの!」
「えっ!? 審査員なのに!?」
「うん!」
「……それ、もう結果決まってない?」
星莉奈さんが声を上げて笑った。
「ふふふっ! 翼くん、大変ですね」
「本当ですよ」
結衣ちゃんは何が面白いのか分からないまま、俺たちにつられて笑い始めた。
「あはははっ!」
その笑い声が、リビングいっぱいに広がる。
……ああ。
やっぱり、いいな。
こういう時間。
*
結衣ちゃんを寝かしつけたあと。
俺はリビングのソファに腰を下ろした。
「……ふぅ」
隣に、星莉奈さんが座る。
「今日は、ありがとうございました」
「え?」
「朝から、いろいろと」
「そんな。大したことしてないですよ」
「……いいえ」
星莉奈さんはゆっくりと首を横に振った。
「とても、いいお休みでした」
「それならよかったです」
「……ふふっ」
少しの沈黙。
時計の針の音が、静かな部屋に響く。
「……翼くん」
「はい?」
「今日、気づいたことがあるんです」
「何ですか?」
星莉奈さんは少しだけ考えるように視線を落とした。
「……私、休むのがあまり上手じゃなかったみたいです」
「……そうなんですか?」
「はい。お店がお休みでも、何かしなきゃって思ってしまって」
「……ああ」
「でも今日は、何もしなくてもいいんだって思えました」
星莉奈さんは俺を見て、柔らかく微笑んだ。
「……翼くんが、そう思わせてくれたんです」
「……俺が?」
「はい」
そう言って、少しだけ俺の方へ体を寄せる。
肩と肩が、そっと触れた。
「……それに」
「はい?」
「……誰かに甘えるのも、悪くないですね」
「…………」
……ああ。
まただ。
今日は本当に、心臓に悪い。
「……いつでも、甘えてください」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
星莉奈さんが、少し驚いたように俺を見る。
「……いいんですか?」
「もちろんです」
「……ふふっ」
星莉奈さんは嬉しそうに笑った。
そして、そっと俺の肩に頭を預けた。
「……じゃあ、もう少しだけ」
「……はい」
俺も、静かに微笑んだ。
窓の外は、すっかり夜になっている。
明日になれば、またいつもの忙しい日々が始まる。
リアンも開くし、俺も仕事がある。
結衣ちゃんは保育園へ行く。
きっと、今日みたいにのんびり過ごせる日は、そう多くない。
でも。
だからこそ、こういう日が大切なんだろう。
ふと、鈴さんの言葉が頭をよぎった。
誰かを幸せにすることばかり考えないで。
自分も一緒に、幸せになっていい。
……そうですね、鈴さん。
俺は今日、何か特別なことをしたわけじゃない。
ただ、星莉奈さんにブランケットを掛けて。
昼ごはんを作って。
隣で眠る彼女を、時々眺めていただけだ。
それなのに。
こんなにも、幸せだった。
「……翼くん?」
「はい?」
「……何だか、嬉しそうですね」
「……そう見えます?」
「はい。ふふっ」
俺は少しだけ笑った。
「……幸せだなって、思ってました」
「…………」
星莉奈さんは一瞬、目を丸くした。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……私もです」
肩に預けられた頭が、ほんの少しだけ近づく。
俺はその温もりを感じながら、静かに目を閉じた。
……特別なことなんて、何もなくていい。
ただ、こうして。
大切な人が、安心して笑っていられる。
そして、その隣で。
俺も、一緒に笑っていられる。
それだけで。
今日という日は、十分すぎるほど幸せだった。




