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第43話 雨の日に教わったこと

朝倉翼視点


「つーくん! みてみて!」


リアンの奥から、元気な声が聞こえてきた。


顔を上げると、結衣ちゃんが一枚の紙を持って駆け寄ってくる。


「どうしたんですか、結衣ちゃん?」


「おえかきしたの!」


「おっ、見せてください」


結衣ちゃんは得意げに紙を広げた。


そこには、三人の人間が描かれていた。


真ん中には、小さな女の子。


その両側には、大人の男女。


三人とも、手をつないで笑っている。


「これは……?」


「ゆいと、ママと、つーくん!」


「ああ、なるほど!」


言われてみれば、右側の男の人は黒い髪をしている。


左側の女の人は、星莉奈さんと同じ短い髪だ。


そして真ん中には、にこにこと笑う結衣ちゃん。


「上手ですね、結衣ちゃん」


「えへへ!」


「三人とも、楽しそうです」


「だって、たのしいもん!」


そう言って、結衣ちゃんは胸を張った。


……そっか。


楽しいのか。


なんだか、それが妙に嬉しかった。


「まあ、素敵な絵ねぇ」


隣から、優しい声がした。


振り向くと、鈴さんが微笑んでいた。


いつもの窓際の席。


飲みかけのコーヒーを前に、結衣ちゃんの絵を眺めている。


「すずさんもみて!」


「あらあら、見せてくれるの?」


「うん!」


結衣ちゃんは、鈴さんの前に絵を差し出した。


鈴さんは眼鏡を少し上げて、ゆっくりと絵を眺めた。


「まあ……みんな、いいお顔をしているわねぇ」


「これ、ゆい!」


「ええ。可愛いわねぇ」


「こっちがママで、こっちがつーくん!」


「ふふっ。そうなのねぇ」


鈴さんは、三人の手がつながっているところを見つめた。


それから、俺を見上げる。


「……素敵なご家族ねぇ」


「……え?」


思いがけない言葉に、俺は少し驚いた。


「ふふっ。だって、みんなこんなに幸せそうなんですもの」


鈴さんは、絵を見ながら微笑んだ。


「ねぇ、結衣ちゃん?」


「うん! ゆい、しあわせ!」


迷いのない返事だった。


俺は思わず笑ってしまった。


「ははっ。そうですか」


「つーくんは?」


「え?」


「つーくんもしあわせ?」


結衣ちゃんが、まっすぐ俺を見上げている。


「……もちろんですよ」


俺は笑って答えた。


「俺も幸せです」


「えへへ!」


結衣ちゃんは満足そうに笑った。


その様子を、鈴さんは静かに眺めていた。


「……いいわねぇ」


小さな呟きだった。


けれど、とても温かな声だった。


*


午後になって、空が少しずつ暗くなってきた。


窓の向こうでは、細かな雨が降り始めている。


「……あらあら」


鈴さんが窓を見て、小さく笑った。


「降ってきちゃったわねぇ」


「そうですね」


俺も窓の外を見た。


さっきまでは曇っているだけだったのに、雨脚は少しずつ強くなっていた。


「鈴さん、傘はお持ちですか?」


「それがねぇ、今日は持ってこなかったのよ」


「そうだったんですね」


「すぐにやむかしらねぇ」


鈴さんは、困ったように微笑んだ。


俺は少し考えてから、カウンターへ向かった。


星莉奈さんが、洗い終えたカップを拭いている。


「星莉奈さん」


「はい、翼くん」


「鈴さん、傘を持っていらっしゃらないみたいで」


「あら……そうなんですね」


「俺、送ってきてもいいですか?」


星莉奈さんは、すぐに頷いた。


「もちろんです。鈴さんも、そのほうが安心だと思います」


「ありがとうございます」


「傘、入口のところにありますから、使ってくださいね」


「はい」


星莉奈さんは、窓の外をちらりと見た。


「気をつけて行ってきてください」


「行ってきます」


*


「朝倉さん、悪いわねぇ」


リアンを出ると、鈴さんが申し訳なさそうに言った。


「いえいえ。ちょうど外の空気も吸いたかったので」


「ふふっ。お優しいのねぇ」


「そんなことないですよ」


俺は傘を開き、鈴さんが入れるように少し横へずれた。


雨は、思っていたよりも冷たかった。


歩道には小さな水たまりができ始めている。


「足元、気をつけてくださいね」


「ええ、ありがとう」


鈴さんの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩く。


雨粒が傘を叩く音。


通り過ぎる車の音。


どこかの家から漂ってくる、夕飯の匂い。


そんな何でもない風景の中を、俺たちは並んで歩いていた。


「……朝倉さん」


「はい?」


「肩が濡れているわよ」


「ああ、これくらい大丈夫ですよ」


俺は笑って、傘を少し鈴さんのほうへ傾けた。


「……ふふっ」


鈴さんが、小さく笑った。


「どうかしました?」


「いいえ。朝倉さんらしいなぁと思ってねぇ」


「そうですか?」


「ええ」


鈴さんは、穏やかに頷いた。


「きっと、橘さんや結衣ちゃんにも、そうしてあげるんでしょうねぇ」


「……そうかもしれません」


自分では、あまり意識したことがなかった。


ただ、大切な人には濡れてほしくない。


それだけのことだった。


「……朝倉さん」


「はい」


「さっきの絵、本当に素敵だったわねぇ」


「ああ、結衣ちゃんの絵ですか?」


「ええ。三人とも、幸せそうだったわ」


「……そうですね」


あの絵を思い出す。


少し大きすぎる俺の顔。


星莉奈さんの短い髪。


真ん中で、二人の手を握っている結衣ちゃん。


……不思議だな。


あんな簡単な絵なのに、見ているだけで温かい気持ちになる。


「朝倉さんは、幸せ?」


「……はい」


俺は迷わず答えた。


「とても幸せです」


「そう……よかったわ」


鈴さんは、嬉しそうに微笑んだ。


しばらく、雨の音だけが続いた。


やがて、鈴さんがぽつりと言った。


「……家族って、何なのかしらねぇ」


「……家族、ですか?」


「ええ」


鈴さんは、少し遠くを見るような目をした。


「血がつながっているから家族なのか。同じ名字だから家族なのか……」


「……」


「もちろん、それも大切なことなんでしょうけどねぇ」


鈴さんは、ゆっくりと歩きながら続けた。


「私はねぇ、好きな人と楽しい時間を過ごすのは、とても幸せなことだと思うの」


「……はい」


「でもねぇ、家族になるって、楽しいことばかりじゃないのよ」


俺は、鈴さんの横顔を見た。


「悲しいことも、苦しいこともあるわ。時には、どうしていいか分からなくなることだってねぇ」


鈴さんの声は、いつもと変わらず穏やかだった。


けれど、その言葉には、長い年月を生きてきた人だけが持つ重みがあった。


「それでもねぇ……」


鈴さんは、少しだけ微笑んだ。


「その人の悲しみも、心配事も、自分の人生の一部として引き受けたいと思うこと……」


そして、静かに続けた。


「それが、家族になるってことなのかもしれないわねぇ」


俺は、すぐには返事ができなかった。


……家族になる。


星莉奈さんの笑顔が浮かんだ。


結衣ちゃんの、小さな手。


三人で食べる夕食。


何でもないことで笑い合う夜。


そして、二人が泣いていた日のことも。


苦しそうな顔をしていた日のことも。


俺は、思い出していた。


……そうか。


家族って、楽しい時間を一緒に過ごすだけじゃないんだ。


「……鈴さん」


「なぁに?」


「……素敵ですね」


「ふふっ。そうかしら?」


「はい」


俺は、小さく頷いた。


「……とても」


鈴さんは、嬉しそうに笑った。


そして、俺の濡れた肩をちらりと見た。


「……朝倉さんなら、きっと大丈夫ねぇ」


「……え?」


「ふふっ。なんでもないわ」


鈴さんは、また前を向いた。


俺も、それ以上は聞かなかった。


ただ。


その言葉が、不思議と心に残った。


*


「今日はありがとうねぇ、朝倉さん」


鈴さんの家の前に着くと、彼女は深々と頭を下げた。


「いえ。こちらこそ、お話できて楽しかったです」


「私もよ」


鈴さんは、優しく微笑んだ。


「また、リアンにいらしてくださいね」


「あら、もちろんよ。あそこのコーヒーは美味しいもの」


「ははっ。星莉奈さんも喜びます」


「ふふっ」


鈴さんは玄関へ向かいかけて、ふと振り返った。


「……朝倉さん」


「はい?」


「風邪をひかないようにねぇ」


「ありがとうございます。鈴さんも」


「ええ」


小さく手を振る鈴さんを見送ってから、俺は再び傘を開いた。


雨は、まだ静かに降っていた。


*


リアンの扉を開けると、カラン、とベルが鳴った。


「ただいま戻りました」


「あ、翼くん。おかえりなさい」


カウンターにいた星莉奈さんが顔を上げた。


「鈴さん、大丈夫でしたか?」


「はい。無事に送り届けました」


「よかった……あら?」


星莉奈さんの視線が、俺の肩で止まった。


「翼くん、肩が濡れてますよ?」


「え?」


右肩に触れると、思った以上に冷たかった。


「ああ、本当ですね」


「ふふっ。気づかなかったんですか?」


「はい。鈴さんと話していたので」


星莉奈さんは、俺の右肩と、ほとんど濡れていない左肩を見比べた。


それから、ふっと表情を和らげた。


「……ちょっと待っててくださいね」


そう言って、奥からタオルを持ってきてくれた。


「はい、翼くん」


「ありがとうございます」


受け取ろうとすると、星莉奈さんはタオルを俺の肩にそっと当てた。


「……結構濡れちゃいましたね」


「そうですね。ははっ」


「もう……風邪ひいちゃいますよ?」


そう言いながらも、星莉奈さんは優しく笑っていた。


まるで、大切なものに触れるみたいに。


「……星莉奈さん?」


「はい?」


「どうかしました?」


星莉奈さんは、俺の濡れた肩をもう一度そっと拭いた。


それから顔を上げて、ふわりと微笑んだ。


「……翼くんのこと、だいすきだなーって思っただけです」


「……えっ?」


あまりにも自然に言われて、返事が遅れた。


星莉奈さんは、そんな俺を見てくすっと笑う。


「ふふっ。そんなに驚かなくても」


「いや……急だったので」


「そうですね。急に言いたくなっちゃいました」


そう言って、また優しく笑った。


俺は照れくさくなって、思わず視線をそらした。


……ずるいな、この人は。


「つーくん!」


そこへ、結衣ちゃんが駆け寄ってきた。


「え、ママだけずるい!」


「えっ、結衣ちゃん?」


「ゆいも、つーくんだいすきなの!」


「ははっ。ありがとうございます」


「つーくんは?」


「もちろん、俺も結衣ちゃんが大好きですよ」


「ママは?」


「えっ?」


思わぬ質問に、俺は目を丸くした。


星莉奈さんも驚いたように結衣ちゃんを見る。


「ゆい、ママのこともだいすきっていってほしい!」


「ゆ、結衣……!」


星莉奈さんの頬が赤くなる。


俺はそんな彼女を見て、思わず笑った。


「もちろん、星莉奈さんも大好きですよ」


「……っ、翼くん……」


結衣ちゃんは満足そうに笑った。


「えへへ! じゃあ、さんにんいっしょ!」


そう言って、結衣ちゃんが俺と星莉奈さんの手を握った。


星莉奈さんと目が合う。


まだ少し赤い顔で、彼女は幸せそうに微笑んでいた。


俺も、自然と笑顔になった。


窓の向こうでは、まだ雨が降っている。


けれど、リアンの中は温かかった。


さっき鈴さんが話してくれた言葉を、ふと思い出す。


『その人の悲しみも、心配事も、自分の人生の一部として引き受けたいと思うこと……』


……家族、か。


俺は、つながれた二人の手をそっと握り返した。


今はまだ、その言葉の意味を全部理解できているわけじゃない。


それでも。


この温かさを、大切にしたいと思った。


三人の笑い声が、雨音に溶けていく。


俺は、この何でもない午後が、たまらなく好きだった。

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