第42話 家族じゃないけれど
一ノ瀬悠人視点
「がおおおおっ!」
「うわっ、やられた!」
俺が大げさに後ろへ倒れると、爽太くんは腹を抱えて笑った。
「やったー! ティラノのかちー!」
「強いなあ、そいつ」
「だって、ティラノサウルスだもん!」
誕生日プレゼントに贈った恐竜を両手で持ち、爽太くんは得意げに胸を張る。
夕食もケーキも食べ終わったというのに、まだまだ元気いっぱいだ。
俺は床に座ったまま、時計を見た。
もう、ずいぶん遅い時間になっている。
「爽太くん。そろそろ寝る時間じゃないか?」
「えー! まだあそぶ!」
「明日も保育園だろ?」
「でも、ぼく五さいだよ?」
「五歳でも寝ないと大きくなれないぞ」
「……」
爽太くんは、恐竜を見つめた。
それから、俺を見上げる。
「悠人おじちゃんは、なんさい?」
「俺?」
「あのね、五さいよりおおきい?」
「ははっ。ずっと大きいよ」
「じゃあ、ねなくてもいいの?」
「いや、大人だって寝るよ」
「……なんだ」
何を期待していたんだ。
思わず笑うと、爽太くんは少し不満そうに頬を膨らませた。
「爽太ー。歯みがきするよー」
キッチンから舞ちゃんの声が飛んでくる。
「はーい!」
返事だけはいい。
爽太くんは恐竜を持ったまま、なかなか立ち上がろうとしなかった。
「ほら、爽太くん」
俺が手を差し出すと、爽太くんは恐竜を片手に持ち替え、俺の手を握った。
「悠人おじちゃんも、いっしょ!」
「歯みがき?」
「うん!」
「それはママにお願いしようか」
「えーっ!」
「ははっ。俺はここで待ってるから」
爽太くんは少し考えてから、ようやく立ち上がった。
「じゃあ、まっててね!」
「ああ」
小さな背中が、ぱたぱたと洗面所へ走っていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
……本当に、元気な子だ。
けれど、不思議と疲れは感じなかった。
むしろ、こうして一緒に遊んでいる時間が、心地よかった。
*
「悠人さん、すみません。すっかり遅くなっちゃって」
舞ちゃんが、空になった皿を重ねながら言った。
「いや、俺が長居してるだけだから」
「そんなことないですよ。爽太、すごく喜んでました」
「それならよかった」
俺はテーブルの皿を手に取った。
「これ、運ぶよ」
「あっ、いいですよ! 悠人さんは座っててください」
「二人でやったほうが早いだろ?」
「……ふふっ。ありがとうございます」
舞ちゃんが笑う。
俺たちは並んでキッチンに立ち、食器を片づけた。
水道の音。
皿が触れ合う、小さな音。
洗面所から聞こえる、爽太くんの声。
「ママー! あわ、いっぱい!」
「こら、爽太! 遊ばないの!」
「えへへー!」
思わず、二人で顔を見合わせた。
「……元気だな」
「もう、本当に毎日あんな感じです」
舞ちゃんは困ったように笑った。
「でも、今日は特に嬉しかったんだと思います」
「誕生日だからな」
「それもありますけど……」
舞ちゃんは、少しだけ言葉を止めた。
「悠人さんがお迎えに行ってくれたこと、すごく嬉しかったみたいです」
「そうなのか?」
「はい。帰ってきてから、何回も話してました」
俺は、保育園での出来事を思い出した。
玄関へ駆けてきた爽太くん。
俺の手を握り、先生たちに向かって胸を張った姿。
『ぼくの悠人おじちゃん、かっこいいでしょ!』
……あれは、さすがに照れた。
「俺も嬉しかったよ」
そう答えると、舞ちゃんが俺を見た。
「……本当ですか?」
「ああ。あんなに喜んでもらえるとは思わなかった」
「ふふっ。爽太、悠人さんのこと大好きですから」
「俺も、爽太くんのこと好きだよ」
自然に出た言葉だった。
舞ちゃんは、少し驚いたように目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
*
歯みがきを終えた爽太くんは、恐竜を抱えて戻ってきた。
「悠人おじちゃん!」
「お、終わったか?」
「うん!」
「偉いな」
「へへっ!」
俺が頭をなでると、爽太くんは満足そうに笑った。
「じゃあ、ママと寝ようか」
舞ちゃんが声をかける。
「……えー」
「もう眠いでしょ?」
「ねむくない!」
そう言いながら、大きなあくびをした。
俺は思わず吹き出した。
「今、あくびしたぞ?」
「してない!」
「いや、しただろ」
「してないもん!」
「ははっ。そうか」
爽太くんは、むっとした顔で俺を見た。
けれど、次の瞬間には、俺の膝にぴたりとくっついてきた。
「……悠人おじちゃん」
「ん?」
「また、あそぼうね」
「ああ。もちろん」
「きょうりゅうもってくるから」
「楽しみにしてるよ」
爽太くんは、にこっと笑った。
それから、少しだけ真剣な顔になった。
「……むかえも、きてね」
俺は、その言葉に一瞬だけ黙った。
保育園から帰るときにも、同じ約束をした。
ケーキのろうそくを吹き消したあとにも。
そして今、寝る前にも。
爽太くんにとって、それほど嬉しかったのだろうか。
「……ああ」
俺は、爽太くんの頭に手を置いた。
「また迎えに行くよ」
「やくそく!」
小さな手が、俺の前に差し出される。
小指だけが、ぴんと立っていた。
俺も小指を出す。
「約束だ」
指切りをすると、爽太くんはようやく満足したようだった。
「おやすみ、悠人おじちゃん!」
「おやすみ、爽太くん」
舞ちゃんに手を引かれ、寝室へ向かう。
その途中で、爽太くんが振り返った。
「悠人おじちゃん!」
「ん?」
「ぼく、きょう、たのしかった!」
「……そっか」
俺は笑った。
「俺もだよ」
*
しばらくして、舞ちゃんがリビングに戻ってきた。
「寝ました」
「早かったな」
「布団に入ったら、すぐでした」
「ははっ。あれだけ遊んだからな」
「そうですね」
舞ちゃんは笑いながら、ソファに腰を下ろした。
俺も隣に座る。
さっきまであれほど賑やかだった部屋が、嘘みたいに静かだった。
テーブルには、誕生日の飾りが少し残っている。
壁には、舞ちゃんが用意した『おたんじょうびおめでとう』の文字。
床の隅には、爽太くんが遊んでいた恐竜のおもちゃ。
……なんだか、いいな。
そう思った。
「悠人さん」
舞ちゃんが、静かに俺を呼んだ。
「ん?」
「今日は、本当にありがとうございました」
「そんな。俺も楽しかったって」
「……はい」
舞ちゃんは微笑んだ。
けれど、どこか言いづらそうにも見えた。
「……どうした?」
俺が尋ねると、舞ちゃんは少し迷ってから口を開いた。
「悠人さん……爽太のこと、負担になっていませんか?」
「……え?」
思ってもいなかった言葉だった。
「負担?」
「はい……」
舞ちゃんは、膝の上で手を重ねた。
「悠人さんには、お仕事もありますし、自分の時間だってあるのに……爽太のお迎えまでお願いしてしまって」
「それは、舞ちゃんが頼んでくれたからだろ?」
「そうなんですけど……」
舞ちゃんは、少しうつむいた。
「私、悠人さんが爽太に優しくしてくれるのが、すごく嬉しいんです」
「……うん」
「でも、嬉しいからこそ……甘えすぎていないかなって」
その言葉を聞いて、俺はようやく舞ちゃんの不安が分かった気がした。
舞ちゃんは、ずっと一人で爽太くんを育ててきた。
毎日の食事も。
保育園の送り迎えも。
熱を出した夜も。
泣きやまない日も。
きっと、簡単なことばかりじゃなかったはずだ。
そして今、俺がその生活の中に少しずつ入っている。
舞ちゃんにとって、それが嬉しいことであると同時に、怖いことでもあるのかもしれない。
「舞ちゃん」
「……はい」
「負担だと思ったことはないよ」
俺は、ゆっくりと言った。
「爽太くんと過ごす時間は楽しいし、今日のお迎えだって、俺が行きたかったんだ」
「……悠人さん」
「ただ……」
そこで、少しだけ言葉が止まった。
舞ちゃんが俺を見る。
俺は、正直に続けた。
「どこまで踏み込んでいいのか、迷うことはある」
「……」
「爽太くんのことは大切だし、力になりたいと思ってる。でも、俺は……」
父親じゃない。
その言葉が、喉元まで出かかった。
けれど、口にするのをためらった。
俺は舞ちゃんの恋人だ。
爽太くんにとっては、悠人おじちゃん。
それ以上でも、それ以下でもない。
少なくとも、今は。
「……勝手に、俺が何かを決めていいわけじゃないからさ」
そう言うと、舞ちゃんは静かに頷いた。
「……そうですね」
しばらく、沈黙が落ちた。
気まずいわけじゃない。
ただ、簡単には答えの出ない話だった。
「でも」
俺は、床に置かれた恐竜を見た。
「一つだけ、決めてることはあるよ」
「……何ですか?」
「爽太くんとの約束は、ちゃんと守りたい」
舞ちゃんが顔を上げる。
「また迎えに来てって、何回も言われただろ?」
「……はい」
「だから、また行くよ。舞ちゃんがよければ」
舞ちゃんは、しばらく俺を見つめていた。
それから。
「……はい」
小さく頷いた。
「ぜひ、お願いします」
その目が、少しだけ潤んで見えた。
「……悠人さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
俺は首を振った。
「礼を言われるようなことじゃないよ」
「……それでも、です」
舞ちゃんは、そっと俺の手に触れた。
「私、嬉しいんです」
「……うん」
「爽太が、悠人さんのことをあんなふうに大好きになってくれたことも」
そこまで言って、舞ちゃんの声が少し震えた。
伏せられた目から、ぽろりと涙がこぼれる。
舞ちゃんは慌てて空いている手で目元を拭った。
それでも、涙はもう一粒、頬を伝った。
「悠人さんが、爽太のことを大切にしてくれることも」
俺は、その手を握り返した。
舞ちゃんは泣きながら、少し笑っていた。
嬉しそうで、どこかほっとしたような笑顔だった。
俺は握った手に、そっと力を込めた。
「……俺も、嬉しいよ」
*
帰る時間になった。
玄関で靴を履きながら、俺はリビングを振り返った。
壁の飾り。
小さな靴。
床に置かれた恐竜。
そして、見送りに来てくれた舞ちゃん。
「今日はありがとう」
俺が言うと、舞ちゃんは笑った。
「こちらこそ。気をつけて帰ってくださいね」
「ああ」
「……悠人さん」
「ん?」
「また、遊びに来てください」
俺は思わず笑った。
「もちろん」
舞ちゃんも笑った。
「爽太、きっと明日も悠人さんの話ばかりですよ」
「ははっ。そうかもな」
俺はドアノブに手をかけた。
そのとき、ふと、昼間の出来事を思い出した。
保育園の玄関。
先生たちに向かって、胸を張った爽太くん。
『ぼくの悠人おじちゃん、かっこいいでしょ!』
あんなふうに誰かに自慢されたのは、いつ以来だろう。
……いや。
もしかしたら、初めてかもしれない。
「……舞ちゃん」
「はい?」
「俺さ」
「……はい」
「今日、爽太くんに迎えに来てほしいって言われて……すごく嬉しかったんだ」
舞ちゃんは、黙って聞いていた。
「なんていうか……」
うまい言葉が見つからない。
誰かに必要とされること。
自分が来たことを、あんなに喜んでもらえること。
それが、こんなにも嬉しいなんて。
「……また、あの子の笑顔が見たいって思った」
舞ちゃんの目が、ゆっくりと潤んでいく。
「……悠人さん」
「ん?」
「……また、泣かせるんですか」
そう言って、舞ちゃんは困ったように笑った。
目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、一歩、俺に近づいてくる。
「舞ちゃ――」
言い終わる前に、舞ちゃんが背伸びをした。
そっと、唇が重なる。
ほんの短いキスだった。
離れた舞ちゃんは、頬を赤くしながら俺を見上げた。
「……大好きです、悠人さん」
胸の奥が、ぎゅっと温かくなった。
俺は舞ちゃんの頬にそっと触れた。
「……俺も大好きだよ、舞ちゃん」
舞ちゃんは嬉しそうに目を細めた。
「……おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
今度こそ、ドアを開ける。
外に出る直前、もう一度振り返った。
舞ちゃんはまだ、そこに立っていた。
「……また来るよ」
「はい。待ってます」
ドアが静かに閉まった。
*
帰り道。
車の窓の向こうには、夜の街が広がっていた。
信号で止まったとき、俺はハンドルに置いた手を見た。
今日、爽太くんが何度も握ってくれた手。
小さくて。
温かくて。
力いっぱい握り返してくる手だった。
『また、むかえにきてね!』
あの声が、まだ耳に残っている。
俺は、爽太くんの父親じゃない。
舞ちゃんと結婚しているわけでもない。
三人で暮らしているわけでもない。
だから、俺に何ができるのか。
何をしていいのか。
まだ、分からないことも多い。
でも。
一つだけ、はっきりしている。
俺は、あの二人と過ごす時間が好きだ。
舞ちゃんが笑っていると、嬉しい。
爽太くんが楽しそうにしていると、俺まで楽しくなる。
そして、あの子が俺を呼ぶ声を聞くと。
……また会いたいと思う。
信号が青に変わった。
俺は、ゆっくり車を走らせた。
家族じゃない。
少なくとも、今はまだ。
けれど。
あの二人の明日にも、俺がいられたらいい。
そんなことを考えながら、俺は夜の道を走っていた。




