第40話 六人分の、特別な一日
「……そういえば、悠人と話してたんですけど」
カフェ『リアン』。
いつものカウンター席でコーヒーを飲みながら、俺はふと思い出したことを口にした。
「今度、みんなでご飯でも行こうかって」
「みんな、ですか?」
カウンターの向こうで、星莉奈さんが首を傾げる。
「はい。俺と星莉奈さんと結衣ちゃん。それから、悠人と舞ちゃんと爽太くんの六人で」
「あ、それ!」
隣から元気な声が飛んできた。
舞ちゃんだ。
「悠人さんから聞きました! 私も楽しみにしてたんですよ!」
「そうなんですね」
「はい! で、朝倉さん!」
「は、はい?」
「せっかく六人集まるんですから、ご飯だけじゃもったいなくないですか?」
「……え?」
舞ちゃんは、何かを思いついた子どものような顔で笑った。
「みんなでお出かけしましょうよ!」
「お、お出かけ?」
「そうです! 朝から遊んで、お昼も一緒に食べて、夕方まで楽しむんです!」
……なるほど。
確かに、それは楽しそうだ。
「いいですね」
星莉奈さんも微笑んだ。
「結衣も喜びそう」
「ですよね!」
その瞬間。
「ゆいもいくー!」
店の奥から、小さな声が飛んできた。
振り返ると、結衣ちゃんが両手を上げていた。
「つーくん!」
「はい?」
「どこいくの?」
「……それを今から決めようかなって」
「ゆい、おさかなさんみたい!」
「お魚さん?」
「うん! おっきいの!」
「じゃあ、水族館なんてどうです?」
舞ちゃんが手を叩いた。
「水族館!」
結衣ちゃんが目を輝かせる。
「爽太もサメとか好きなんですよ!」
「サメですか」
「はい! きっと大喜びします!」
「ふふ。じゃあ、決まりですね」
星莉奈さんが微笑む。
「翼くんはどうですか?」
「俺はもちろん、いいですよ」
「つーくんもいく?」
結衣ちゃんが俺の服の裾を引っ張った。
「行くよ」
「やったー!」
その笑顔を見た瞬間、思った。
……たぶん俺、水族館に行く前から十分幸せだ。
*
そして、お出かけ当日の朝。
「つーくん! はやくー!」
玄関から、結衣ちゃんの元気な声が響いた。
「ちょ、ちょっと待って! 今、靴履いてるから!」
「おさかなさん、まってるよ!」
「お魚さんは逃げないから!」
……いや、逃げるかもしれないけど。
少なくとも、水族館からはいなくならないと思う。
「ふふ。結衣、そんなに急がなくても大丈夫だよ」
星莉奈さんが笑いながら、結衣ちゃんの帽子を直す。
「だって、はやくいきたいもん!」
「そうだね。楽しみだもんね」
俺たち三人は、一緒に家を出た。
結衣ちゃんは真ん中。
右手に星莉奈さん、左手に俺。
両手を繋いで歩く小さな背中が、いつもより弾んで見えた。
……こうして三人で出かけるのも、すっかり自然になったな。
待ち合わせ場所に着くと、悠人たちが先に来ていた。
「おーい、翼」
悠人が片手を上げる。
隣には舞ちゃん。そして、爽太くん。
「おはようございます、朝倉さん!」
「おはよう、舞ちゃん」
「おはよう、翼」
「おう」
すると、爽太くんが俺たちを見つけて駆け寄ってきた。
「翼おじちゃん!」
「おっ、おはよう、爽太くん!」
「きょう、サメいる!?」
「いると思うよ」
「やったー!」
爽太くんはくるっと振り返った。
「悠人おじちゃん! サメいるって!」
悠人が穏やかに笑う。
「よかったな、爽太くん」
「うん!」
その様子を見て、俺は少し驚いた。
……なんだろう。
悠人と爽太くん、前よりずっと自然に話してるな。
「つーくん!」
今度は結衣ちゃんが俺の手を引いた。
「いこ!」
「はいはい」
「爽太くんも!」
「おう!」
二人はもう、水族館の入口に夢中だった。
……よし。
今日は賑やかな一日になりそうだ。
*
水族館に入った瞬間。
「わああああ!」
「うおおお!」
二人の歓声が、ほぼ同時に響いた。
目の前には、大きな水槽。
青い光の中を、色とりどりの魚たちが泳いでいる。
「つーくん! みて!」
結衣ちゃんが俺の手を引いた。
「おさかなさん、いっぱい!」
「本当だね」
「こっちにも!」
「うんうん」
「あっ! あれおっきい!」
「おお、本当だ!」
……忙しい。
まだ入館して三分くらいなんですが。
一方、爽太くんは。
「さめは!?」
「もう少し先みたいだぞ」
悠人に手を引かれながら、必死に周囲を見回していた。
「まだ!?」
「まだだな」
「はやく!」
「順番に見ような、爽太くん」
「むうう……」
……悠人。
お前、なんかすごいな。
爽太くんの勢いを、全部受け止めている。
「翼くん」
隣から、星莉奈さんの声がした。
「楽しそうですね」
「はい。二人とも、すごいですね」
「ふふ。朝からずっと楽しみにしてたんですよ」
そう言って笑う星莉奈さんの横顔を見た。
青い光が、銀灰色の髪を柔らかく照らしている。
……綺麗だな。
「……翼くん?」
「……はい?」
「どうかしました?」
「い、いえ。なんでも」
「ふふ?」
……絶対、なんでもない顔じゃなかった。
「つーくん!」
「はい!」
「こっち!」
「はいっ!」
……今日の俺、何回呼ばれるんだろう。
ちょっと数えてみたくなってきた。
*
「いたあああ!!」
爽太くんの叫び声が響いた。
サメだ。
大きな水槽の中を、灰色の体がゆっくりと泳いでいる。
「すげえええ!」
爽太くんはガラスに張りつくようにして見上げた。
「悠人おじちゃん! みて!」
「見てるぞ、爽太くん」
「でっかい!」
「でっかいな」
「つよそう!」
「強そうだな」
……悠人、返答が全部完璧だ。
「翼おじちゃん!」
「はい!」
「さめ、こわくない!?」
爽太くんがこちらを振り返った。
「……ちょっと怖いかな」
「おれ、こわくない!」
「おお、強いね」
「おれがまもる!」
「……えっ」
爽太くんは胸を張った。
「サメきたら、おれがやっつける!」
「……そ、そうなんだ」
……いや。
待って。
四歳の男の子に守られる二十五歳男性ってどうなんだ。
「ふふっ」
星莉奈さんが笑い始めた。
「爽太くん、頼もしいね」
「うん!」
「……でも、翼おじちゃんも守るからね」
そう言うと、爽太くんはにっと笑った。
「じゃあ、いっしょにたたかお!」
「……うん」
……参ったな。
こういうこと、さらっと言うんだもんな。
「つーくん!」
今度は結衣ちゃんが俺の手を握った。
「ゆいも!」
「……え?」
「ゆいも、いっしょ!」
「……もちろん!」
「やったー!」
……。
……サメ一匹に、大人一人と子ども二人。
……いや、勝てる気がしないんですが。
「朝倉さん」
舞ちゃんが隣から顔を出した。
「すっかり子どもたちの隊長ですね!」
「……そうですね」
「ふふ。いいチームです!」
「……ありがとうございます」
「悠人さんも、爽太といいコンビですよね!」
「……そうか?」
「そうですよ!」
悠人は少しだけ笑った。
「……まあ、楽しいよ」
その言葉を聞いて、舞ちゃんが嬉しそうに目を細めた。
……ああ。
いいな。
こういうの。
*
次に向かったのは、クラゲの展示室だった。
照明を落とした空間に、淡い光を放つ水槽が並んでいる。
透明な傘を広げたクラゲたちが、ゆっくりと漂っていた。
「……きれい」
結衣ちゃんが、小さな声で呟いた。
さっきまでの元気な声とは違う。
本当に、見とれているみたいだった。
「綺麗だね」
星莉奈さんが隣にしゃがむ。
「ふわふわしてる」
「そうだね」
「おそら、とんでるみたい」
「……うん」
その言葉に、俺も水槽を見上げた。
確かに。
暗い水の中を漂う姿は、空に浮かぶ雲みたいにも見える。
「……結衣ちゃん、すごいね」
「えへへ」
結衣ちゃんが嬉しそうに笑った。
すると、小さな手が俺の手を握った。
反対側の手は、星莉奈さんと繋がっている。
三人で並んで、クラゲを眺める。
……静かだ。
さっきまであんなに賑やかだったのに。
こういう時間も、いいな。
「……翼くん」
「はい」
「今日、来られてよかったですね」
星莉奈さんが、そっと微笑んだ。
「……はい」
俺も笑い返す。
「……すごく」
少し離れたところでは、舞ちゃんが悠人の腕に寄り添っていた。
「悠人さん、見てください。あのクラゲ、ハートみたいな形!」
「……ほんとだな」
「可愛いですね」
「……うん」
「……クラゲが、ですよ?」
「分かってるよ」
「ふふっ」
……。
……あれ?
なんか今。
すごく甘い会話が聞こえた気がするんですが。
「翼くん?」
「……いえ、なんでも」
……聞かなかったことにしよう。
うん。
*
昼食を終えた俺たちは、午後のイルカショーへ向かった。
「イルカー!」
結衣ちゃんが両手を上げる。
「ジャンプする!?」
爽太くんも大興奮だ。
「すると思うよ」
舞ちゃんが笑う。
「じゃあ、前のほうで見ましょうか!」
「……前?」
俺は、なんとなく嫌な予感がした。
会場の前方。
そこには、気になる表示がある。
『水がかかる場合があります』
……。
……なるほど。
「……あの、舞ちゃん」
「はい?」
「ここ、濡れるらしいですよ」
「大丈夫ですよ!」
「……そうですか?」
「だって、迫力あるほうが楽しいじゃないですか!」
……理屈としては分かる。
分かるんだけど。
「つーくん!」
結衣ちゃんが、俺の袖を引いた。
「いっしょにすわろ!」
「……はい」
……決まった。
俺の運命が。
ショーが始まると、子どもたちは大喜びだった。
イルカが水面から飛び上がるたびに、歓声が上がる。
「わあああ!」
「すげええ!」
俺も、つい夢中になる。
「おおっ!」
……いや、これはすごい。
本当にすごい。
そして。
係員さんの合図で、イルカが大きく跳ねた。
「……お?」
水面に落ちる。
大きな音。
次の瞬間。
――ばっしゃあああん!!
「……っ!?」
視界が、一瞬真っ白になった。
……。
……。
……冷たい。
「……え?」
顔を拭う。
髪から、水が滴る。
服も、びっしょり。
……俺。
今、完全に。
「ぶっ……!」
隣から、吹き出す音がした。
振り返る。
悠人だった。
「……お前」
「……いや、悪い」
「……笑ってるだろ」
「……笑ってない」
「絶対笑ってるだろ!」
「……っ、ふ」
……笑ってるじゃねえか!!
「つーくん!」
結衣ちゃんが俺を見上げた。
「びしょびしょー!」
「……そうだね」
「おさかなさんみたい!」
「……俺、人間なんだけどなあ」
「あはははは!」
爽太くんまで大笑いだ。
「翼おじちゃん、イルカにやられたー!」
「……やられたね」
「もっかいやってー!」
「それは俺の意思じゃどうにもならないかな!?」
そして。
「……ふふっ」
星莉奈さん。
「……ふふふっ」
……星莉奈さん?
「……っ、あははは!」
……あ。
笑った。
思いっきり笑った。
「つ、翼くん……っ、ごめんなさい……!」
「い、いや、いいんですけど!」
「だって……っ、そんなに綺麗に……!」
「……綺麗に水をかぶりましたね、俺」
「ふふふっ……!」
……。
……まあ。
いいか。
こんなに楽しそうに笑ってくれるなら。
「……星莉奈さん」
「はい?」
「……そんなに面白かったですか?」
「……はいっ」
即答だった。
……ですよね!!
「ふふっ、ごめんなさい」
そう言いながら、星莉奈さんはバッグからタオルを取り出した。
「はい。これ、使ってください」
「ありがとうございます……」
「……翼くん」
「はい?」
「……でも、ちょっと可愛いです」
「……っ!?」
……待ってください。
びしょ濡れの成人男性に、それ言います?
「……ほら、じっとして」
星莉奈さんが、俺の前髪をタオルでそっと拭いた。
近い。
近いです。
しかも周囲には、悠人と舞ちゃんがいる。
「……朝倉さん」
舞ちゃんの声。
「なんですか……」
「すっごく幸せそうですね!」
「……っ!!」
……勘弁してください!!
*
水族館を出る頃には、空が柔らかい色に変わっていた。
「たのしかったー!」
結衣ちゃんが、大きく伸びをする。
「おれ、サメみた!」
爽太くんは、買ってもらった小さなサメのぬいぐるみを抱えている。
「よかったね、爽太」
舞ちゃんが頭を撫でた。
「うん!」
結衣ちゃんの手には、青いイルカのキーホルダー。
「つーくん!」
「はい?」
「これ、おそろい!」
そう言って、俺の手元を指さす。
……そう。
俺も、同じイルカのキーホルダーを買っていた。
結衣ちゃんがどうしてもお揃いにしたいと言ってくれたから。
「お揃いだね」
「えへへ!」
……。
……なんだろう。
小さなキーホルダーなのに。
やたら嬉しい。
「せっかくだし、写真撮りません?」
舞ちゃんがスマホを取り出した。
「六人で!」
「いいですね」
星莉奈さんが頷く。
近くにいたスタッフさんにお願いして、俺たちは並んだ。
前には結衣ちゃんと爽太くん。
その後ろに、大人四人。
「つーくん、ここ!」
結衣ちゃんが俺の手を引く。
「はいはい」
「ママも!」
「うん」
星莉奈さんが隣に立つ。
自然と、俺の肩に少しだけ触れた。
反対側では、舞ちゃんが悠人の腕にぎゅっと抱きついている。
「悠人さん、笑ってくださいね!」
「……笑ってるよ」
「もっと!」
「……これ以上?」
「はい!」
……あいつも大変だな。
「はい、撮りますよー!」
スタッフさんの声。
「せーの!」
「「「「「「はい、チーズ!」」」」」」
――カシャッ。
写真を確認すると。
結衣ちゃんは満面の笑み。
爽太くんは、サメのぬいぐるみを高く掲げている。
舞ちゃんは楽しそうに笑っていて。
悠人も、いつもより少し柔らかい顔をしている。
星莉奈さんは、幸せそうに微笑んでいた。
そして俺は。
……。
……なんか。
ものすごく、にやけていた。
「……俺、こんな顔してたんだ」
思わず呟く。
「ふふ」
隣で星莉奈さんが笑った。
「いい顔ですよ、翼くん」
「……そうですか?」
「はい」
少しだけ、俺の手を握る。
「……私、この写真、大好きです」
「……」
胸の奥が、じんわり温かくなった。
「……俺もです」
そう答えると、星莉奈さんは嬉しそうに目を細めた。
*
帰り道。
結衣ちゃんは、俺の手を握ったまま、こくり、こくりと船を漕いでいた。
「……結衣ちゃん?」
「……んー」
「眠い?」
「……ねむくない……」
……うん。
完全に眠い人の返事だ。
少し離れたところでは、爽太くんも悠人に抱っこされていた。
サメのぬいぐるみを胸に抱えたまま、すやすや眠っている。
「……寝ちゃいましたね」
舞ちゃんが笑った。
「……いっぱい遊んだからな」
悠人が答える。
「悠人さん、重くないですか?」
「大丈夫」
「……ありがとうございます」
舞ちゃんが、そっと悠人の腕に触れた。
その顔は、とても穏やかだった。
「翼くん」
星莉奈さんが、俺の隣に立つ。
「今日は、ありがとうございました」
「えっ? いや、こちらこそ」
「結衣、本当に楽しそうでした」
「……俺も楽しかったです」
「ふふ。知ってます」
「……え?」
「だって、ずっと笑ってましたから」
……。
……そうか。
俺、そんなに笑ってたのか。
「つーくん……」
小さな声がした。
見下ろすと、結衣ちゃんが眠そうな目で俺を見ていた。
「はい?」
「……また、いこーね……」
「……うん」
小さな手を、そっと握り返す。
「また行こうね」
「……やくそく……」
「……約束」
結衣ちゃんは安心したように笑うと、星莉奈さんに抱き上げられ、その肩に顔を埋めた。
すぐに、静かな寝息が聞こえてくる。
俺は、もう一度スマホの写真を見た。
六人で並んだ、一枚の写真。
誰かが特別なことをしたわけじゃない。
大きな事件が起きたわけでもない。
ただ、みんなで出かけて。
魚を見て。
笑って。
ご飯を食べて。
……俺だけ、びしょ濡れになって。
「……ふっ」
思わず笑ってしまう。
「どうした、翼?」
悠人が振り返った。
「……いや」
俺はスマホをしまった。
「……また、みんなでどっか行こうな」
悠人は少しだけ目を丸くして。
それから、いつもの穏やかな顔で笑った。
「……ああ。行こう」
「次はどこがいいですかね!」
舞ちゃんが楽しそうに声を上げる。
「結衣と爽太に聞いてみましょうか」
星莉奈さんも微笑んだ。
……そうだな。
次は、どこへ行こう。
動物園でも。
遊園地でも。
ただ近くの公園で、お弁当を食べるだけでもいい。
きっと、楽しい。
だって。
今日みたいに、みんなが笑ってくれるなら。
……それだけで、俺には十分すぎるくらいだから。
【作者あとがき】
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
気づけば『それでもヒーロー』も第40話。
いつも読んでくださる皆さま、本当にありがとうございます!
今回は、久しぶりに六人全員でのお出かけ回でした!
恋人同士になった二組と、元気いっぱいの結衣と爽太。
みんなで魚を見て、笑って、写真を撮って。
こういう何気ない一日も、きっと大切な思い出になっていくんだと思います。
……ちなみに翼くん。
今回も見事にやられましたね(笑)。
本人は災難だったかもしれませんが、星莉奈さんがあんなに笑ってくれたなら、きっと本人も満更ではないはずです。
これからも、六人の賑やかで温かな日々を見守っていただけたら嬉しいです!
それでは、また次のお話で!




