第36話 夢じゃないよな
引っ越し当日。
俺、朝倉翼、二十五歳。
本日をもちまして。
長年続けてきた一人暮らしを、卒業することになりました。
…………。
……いや。
待って。
改めて考えると、これ。
**とんでもないことじゃないですかあああああっ!?**
だって!
今日から!
星莉奈さんと!
結衣ちゃんと!
**同じ家に住むんですよおおおおおっ!?**
朝起きたら、星莉奈さんがいる。
仕事が終わったら、結衣ちゃんがいる。
夕飯を一緒に食べて。
おやすみって言って。
次の日も、またおはようって言う。
…………。
……あれ?
これ、夢じゃないよな?
俺、まだ寝てたりしないよな?
試しに自分の頬をつねってみる。
「……いった」
……うん。
現実だ。
現実なのか。
…………。
**現実って、こんなに幸せでいいんですかあああああっ!?**
「……翼くん?」
「は、はいっ!?」
突然声をかけられて、肩が跳ねた。
振り返ると、星莉奈さんが不思議そうに首を傾げていた。
灰白色の髪が、さらりと揺れる。
「……どうかしました?」
「い、いえ! なんでもないです!」
「……そうですか?」
「は、はい!」
星莉奈さんは俺の顔をじっと見つめると、ふっと微笑んだ。
「……ふふっ。なんだか、うれしそうですね」
「……そ、それは……」
「……私もです」
…………。
……え?
「……今日から、毎日一緒ですね」
…………。
………………。
**ま、毎日一緒おおおおおおっ!!**
なんですかその言い方!
なんですかその笑顔!
朝から俺の心臓を破壊するつもりですか!?
「……よ、よろしくお願いします……!」
俺が思わず頭を下げると、星莉奈さんはくすっと笑った。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。翼くん」
……。
…………。
引っ越しが始まる前から、もう限界なんですが。
*
「つーくーんっ!」
玄関のほうから、元気いっぱいの声が響いた。
「ゆい、きたよー!」
「……結衣ちゃん?」
ひょこっと顔を出した結衣ちゃんは、なぜか頭に小さなタオルを巻いていた。
そして、胸を張る。
「きょうは、ゆいがたいちょうです!」
「……隊長?」
「うん! おひっこしたいちょう!」
……なるほど。
引っ越し隊長らしい。
「……結衣隊長、本日はよろしくお願いします」
「まかせて!」
結衣ちゃんは、びしっと敬礼した。
……。
かわいい。
**かわいすぎる引っ越し隊長が誕生してしまったああああっ!!**
「結衣、ちゃんとお手伝いできる?」
「できるよ!」
「重たいものは持たないでね?」
「はーい!」
星莉奈さんに返事をすると、結衣ちゃんは俺の足元に置いてあった小さな袋を見つけた。
「つーくん! これ、ゆいがもつ!」
「……あ、それならお願いしようかな」
「うんっ!」
結衣ちゃんが持ち上げた袋には、タオルが何枚か入っている。
軽くて、落としても問題のないものだ。
……よし。
隊長にぴったりの仕事だ。
「……では、結衣隊長。その荷物をお願いします」
「りょうかいしました!」
…………。
どこで覚えたんだ、その返事。
*
引っ越し作業は、思っていたよりも順調に進んだ。
大きな家具や家電は、手配していた業者の人たちが運んでくれる。
俺たちは細かい荷物を確認しながら、星莉奈さんの家へ向かった。
必要なものを少しずつ運び込んでいくうちに、空いていた部屋の様子が変わっていく。
机。
本棚。
パソコン。
二台のモニター。
そして、ベッド。
……うん。
ちゃんと俺の部屋になってきた。
「……翼くん、机はこの位置で大丈夫そうですか?」
「はい。窓の光も入りますし、いい感じです」
「……よかった」
星莉奈さんは、ほっとしたように笑った。
俺が使うことになったのは、今まであまり使われていなかった部屋だ。
仕事用の机と本棚を置いても、なんとかベッドを置く場所が確保できた。
少し手狭にはなったけれど、俺には十分すぎるくらいだ。
「……ベッドまで持ってきて、よかったんですか?」
星莉奈さんが尋ねてきた。
「はい。俺、仕事で遅くなることもありますし」
「……そうですね」
「夜中までパソコンを使う日もあるので、星莉奈さんと結衣ちゃんを起こさないように、ここで寝られるようにしておこうかなって」
「……翼くんらしいですね」
「……え?」
星莉奈さんは、少しだけ困ったように笑った。
「……いつも、私たちのことを考えてくれるから」
「い、いや、そんな……」
……だって。
大切な二人だから。
……なんて。
さすがに恥ずかしくて、口には出せなかった。
すると、星莉奈さんがベッドに目を向けた。
「……でも」
「……はい?」
「……たまには、私もここで寝てもいいですか?」
…………。
……え?
………………。
**な、なんですとおおおおおおっ!?**
ちょっと待ってください。
今、なんて言いました!?
ここで!?
寝る!?
星莉奈さんが!?
**俺のベッドでえええええっ!?**
「……つ、翼くん?」
「は、はいっ!?」
「……どうして、そんなに驚いて……」
そこまで言いかけて、星莉奈さんがぴたりと固まった。
そして。
みるみるうちに、頬が赤くなっていく。
「…………っ!」
……あ。
どうやら。
自分で言ったことの意味に、気づいたらしい。
「……あ、あのっ!」
「は、はいっ!」
「……そ、その……!」
星莉奈さんは、視線をあちこちに泳がせた。
「……翼くんが、お仕事で疲れたときとか……一緒に、お話しできたらって……!」
「……は、はい……!」
「……べ、別に……その……変な意味じゃ……!」
…………。
**変な意味ってなんですかああああっ!?**
いや、分かる!
分かるけど!
その言い方をされると、余計に意識するんですけどおおおっ!!
「……も、もちろんです!」
「…………っ」
「……いつでも、来てください」
星莉奈さんは、真っ赤な顔のまま小さくうなずいた。
「……は、はい……」
…………。
……。
やばい。
今日からこの部屋で寝るのか。
俺、ちゃんと眠れるんだろうか。
「つーくん!」
「うわあっ!?」
突然、背後から結衣ちゃんの声がした。
「……ど、どうしたの?」
「このベッド、つーくんの?」
「う、うん。そうだよ」
「ふーん!」
結衣ちゃんは、ベッドをじっと見つめた。
そして、にぱっと笑う。
「じゃあ、ゆいもねる!」
…………。
……え?
「クロブタロウも!」
…………。
**三人で寝たら俺の寝る場所がなくなりませんかああああっ!?**
隣では、星莉奈さんが真っ赤な顔のまま笑いをこらえていた。
……。
どうやら。
俺の新しい部屋は、早くも人気スポットになりそうです。
*
「つーくん! これ、どこ?」
午後。
結衣隊長の指示のもと、荷物の片づけが進んでいた。
「……それは本棚かな」
「ほんだな!」
「うん。下の段に置いてくれる?」
「りょうかい!」
結衣ちゃんは、小さな絵本を本棚に並べた。
……いや。
それ、俺の本じゃないな。
「……結衣ちゃん?」
「なあに?」
「……その絵本、結衣ちゃんのじゃない?」
「うん!」
「……どうしてここに?」
「つーくんのおへやにも、ゆいのほん!」
…………。
……なるほど。
そういうことか。
「……いいの?」
「いいよ!」
結衣ちゃんは、得意げに胸を張った。
「つーくん、よんでいいからね!」
「……ありがとう」
……。
**なんて太っ腹な五歳児なんだああああっ!!**
「ふふっ。結衣、翼くんのお部屋が気に入ったのね」
「うん!」
結衣ちゃんは元気よくうなずいた。
「ここ、ゆいもくる!」
「……うん。いつでも遊びにおいで」
「やったあ!」
……まあ。
仕事中は少しだけ静かにしてもらわないといけないけど。
こうして自分の部屋に結衣ちゃんの絵本が置かれるのも、なんだかうれしかった。
今までの俺の部屋には、俺のものしかなかった。
でも、これからは。
少しずつ、二人のものも増えていくんだろうな。
*
「あっ!」
結衣ちゃんが、突然声を上げた。
「……ん?」
「つーくん! あれ!」
結衣ちゃんが指差したのは、机の上。
正確には、まだ何も飾られていない、モニターの横のスペースだった。
「……ああ」
俺は、思わず笑った。
「……覚えてたんだね」
「うん!」
結衣ちゃんは、持ってきた小さな袋をごそごそと探り始めた。
そして。
「じゃーん!」
一枚の絵を取り出した。
以前、結衣ちゃんが俺に描いてくれた絵だ。
前の部屋でも、ずっと机に飾っていた。
「……これ、つーくんのたからもの!」
「……うん」
「ゆいが、かざる!」
「……お願いしてもいい?」
「まかせて!」
結衣ちゃんは、俺に手伝ってもらいながら、絵を机の端に飾った。
ちょうど、仕事をしているときに目に入る場所。
「……できた!」
「……うん。ありがとう、結衣ちゃん」
「えへへ!」
結衣ちゃんは、満足そうに絵を見つめた。
そして、ふと俺を見上げる。
「……ねえ、つーくん」
「……なあに?」
「これで、さみしくない?」
…………。
……あ。
俺は、机の上の絵を見つめた。
前の部屋で、一人で仕事をしていたとき。
ふと目を向けると、いつもそこにあった絵。
あの頃は、まだ。
こんな日が来るなんて、想像もしていなかった。
「……うん」
俺は、結衣ちゃんの頭をそっと撫でた。
「……全然、寂しくないよ」
「ほんと?」
「うん。本当」
結衣ちゃんは、にこっと笑った。
「よかった!」
……。
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
今度は、絵だけじゃない。
仕事部屋の扉を開ければ、結衣ちゃんがいる。
星莉奈さんもいる。
……俺はもう、一人じゃないんだ。
「……翼くん」
振り返ると、星莉奈さんが優しく微笑んでいた。
「……素敵な場所になりましたね」
「……はい」
俺も、自然と笑みがこぼれた。
「……俺も、そう思います」
*
夕方。
荷物の片づけがひと段落した頃には、俺たちはすっかり疲れていた。
「……ふぅ」
ソファに腰を下ろすと、思わず息が漏れる。
……引っ越しって、こんなに大変だったんだな。
いや、知ってたけど。
知ってたつもりだったけど。
それにしても。
「つーくん!」
「……ん?」
「おつかれさま!」
結衣ちゃんが、小さなコップを両手で持ってきてくれた。
「……あ、ありがとう」
「おちゃ!」
「うん。いただきます」
俺が受け取ると、結衣ちゃんは満足そうに笑った。
「ゆい、たいちょうだから!」
「……うん。今日は本当に助かったよ、結衣隊長」
「えへへへ!」
……。
かわいい。
**疲れが全部吹き飛ぶうううううっ!!**
……いや。
体力は戻ってないけど。
気持ちだけは、ものすごく元気になった。
「ふふっ。結衣、今日は頑張ったものね」
「うん!」
星莉奈さんも、隣に腰を下ろした。
「……翼くんも、お疲れさまでした」
「……星莉奈さんも。ありがとうございました」
「……ふふ。これからは、一緒に暮らすんですから」
星莉奈さんは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……お礼なんて、いりませんよ」
…………。
……。
**一緒に暮らすんですから、ですってえええええっ!?**
だめだ。
今日、何回この言葉にやられるんだろう。
*
夕飯は、星莉奈さんが作ってくれたカレーだった。
引っ越しで疲れた日だから、簡単なものにしましょう。
そう言ってくれたのだけど。
……いや。
十分すぎるほど、ごちそうです。
「いただきまーす!」
「いただきます」
「……いただきます」
三人で手を合わせる。
結衣ちゃんは、スプーンを握って元気よくカレーを食べ始めた。
「おいしー!」
「ふふっ。よかった」
俺も、一口食べる。
……うん。
おいしい。
野菜の甘みがあって、優しい味がする。
「……星莉奈さん、おいしいです」
「……本当ですか?」
「はい。すごく」
星莉奈さんは、うれしそうに微笑んだ。
「……よかったです」
……。
…………。
待って。
俺。
これから毎日、こんなふうにご飯を食べられるの?
星莉奈さんの手料理を食べながら。
結衣ちゃんとおしゃべりして。
同じテーブルを囲んで。
…………。
**幸せすぎて怖いんですけどおおおおおっ!?**
「つーくん!」
「……は、はい!」
「おかわりする?」
「……え?」
「ゆい、おかわりする!」
「あ、そういうことね」
結衣ちゃんは、空になりかけたお皿を持ち上げた。
「ママ! おかわり!」
「ふふっ。はいはい」
星莉奈さんが、結衣ちゃんのお皿に少しだけカレーを足す。
その様子を見ているだけで、自然と頬が緩んだ。
……いいなあ。
こういう時間。
すると、結衣ちゃんが俺を見上げた。
「……ねえ、つーくん」
「……なあに?」
「あしたも、いる?」
……。
俺は、少しだけ目を見開いた。
今までは。
遊びに来ても、帰る時間があった。
夜になれば、俺は自分の部屋に戻っていた。
だから、結衣ちゃんは。
まだ少しだけ、不思議なのかもしれない。
「……うん」
俺は、結衣ちゃんに笑いかけた。
「明日もいるよ」
「……あさも?」
「うん。朝も」
「……よるも?」
「夜もいるよ」
結衣ちゃんの目が、ぱっと輝いた。
「……じゃあ、あさっても?」
「うん。あさっても」
「……そのつぎも?」
「……うん」
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「……これから、ずっと一緒だよ」
「…………!」
結衣ちゃんは、スプーンを置いた。
そして、にぱっと笑った。
「やったああああっ!」
……。
その笑顔を見て。
俺は、少しだけ胸がいっぱいになった。
隣を見ると、星莉奈さんも優しく笑っていた。
……そうだ。
もう、帰る時間を気にしなくていい。
明日も。
あさっても。
その先も。
この家に、俺の居場所がある。
*
夕飯が終わり、お風呂も済ませた頃。
「つーくん……」
結衣ちゃんが、眠そうな顔で俺の服の裾を握った。
「……ん?」
「……あしたも、あそぼうね……」
「……うん。遊ぼうね」
「……おしごと、おわったら……」
「……うん」
結衣ちゃんは、クロブタロウをぎゅっと抱きしめた。
「……おやすみ……」
「……おやすみ、結衣ちゃん」
星莉奈さんに手を引かれながら、結衣ちゃんは寝室へ向かっていった。
その小さな背中を見送る。
……。
なんだろう。
今までは、ここで俺も帰る準備をしていた。
上着を着て。
荷物を持って。
玄関で「また来ます」と言って。
でも今日は。
……帰らなくていい。
ここが、帰る場所だから。
*
「……翼くん」
しばらくして、星莉奈さんがリビングに戻ってきた。
「……結衣、寝ました」
「……そうですか」
「……今日は、たくさん頑張りましたからね」
「……そうですね」
星莉奈さんは、俺の隣に腰を下ろした。
手には、二つのマグカップ。
「……コーヒー、飲みませんか?」
「……いただきます」
差し出されたカップを受け取る。
ふわりと、いい香りがした。
……ああ。
この時間、好きだな。
結衣ちゃんが眠ったあと。
星莉奈さんと、ゆっくり話す時間。
これまでは、帰る時間を気にしながら過ごしていた。
でも。
今日は違う。
「……翼くん」
「……はい?」
「……なんだか、不思議ですね」
星莉奈さんは、カップを両手で包みながら微笑んだ。
「……こうして一緒にいるのに、もう帰る時間を気にしなくていいなんて」
「……そうですね」
「……明日も、一緒に朝ご飯を食べられるんですよね」
「……はい」
「……明後日も」
「……はい」
星莉奈さんは、少しだけ頬を赤らめた。
「……毎日、おはようって言えるんですね」
…………。
……。
**毎朝あの笑顔でおはようって言ってもらえるんですかあああああっ!?**
だめだ。
想像しただけで、心臓がうるさい。
しかも。
この前の朝みたいに、寝起きの星莉奈さんを見てしまったら。
…………。
**俺、毎朝ちゃんと仕事できますかねえええええっ!?**
「……翼くん?」
「……は、はい!」
「……また、何か考えてました?」
「……い、いえ!」
「……ふふっ」
星莉奈さんは、いたずらっぽく笑った。
「……顔に出てますよ?」
…………。
**なんで分かるんですかああああっ!?**
……いや。
もしかして。
俺が分かりやすすぎるだけなのか?
「……でも」
星莉奈さんが、そっと俺の肩に寄りかかった。
「……私も、ちょっと緊張してます」
「……え?」
「……翼くんと一緒に暮らすの、ずっと楽しみだったので」
…………。
……あ。
星莉奈さんの髪が、俺の肩に触れている。
ふわっと、優しい香りがした。
……近い。
近いです、星莉奈さん。
**恋人が隣にいるって、こういうことなんですかああああっ!?**
……いや。
落ち着け。
今日から毎日一緒なんだ。
毎回こんなことになっていたら、俺の心臓がもたない。
……まあ。
たぶん、慣れないけど。
「……翼くん」
「……はい」
「……これから、よろしくお願いしますね」
星莉奈さんが、顔を上げた。
琥珀色の瞳が、まっすぐ俺を見つめる。
「……私も、結衣も……きっと、翼くんにたくさん甘えちゃうと思います」
「……はい」
「……だから、翼くんも……遠慮しないでくださいね」
……。
その言葉が、胸に染み込んでいく。
俺は今まで、一人でいることに慣れていた。
困ったことがあっても、自分で何とかする。
疲れていても、誰にも言わずに休む。
それが、普通だった。
でも。
これからは。
「……ありがとうございます」
俺は、星莉奈さんに微笑んだ。
「……俺も、二人に頼らせてもらいます」
「……はい」
星莉奈さんは、うれしそうにうなずいた。
そして。
「……おかえりなさい、翼くん」
…………。
……あ。
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
今まで、何度も聞いた言葉。
リアンで。
星莉奈さんの家で。
結衣ちゃんと一緒にいるときに。
でも、今日のそれは。
少しだけ、違って聞こえた。
もう、お客さんじゃない。
遊びに来たわけでもない。
ここは。
俺が帰ってきていい場所なんだ。
「……ただいま、星莉奈さん」
星莉奈さんは、ふわりと微笑んだ。
「……はい」
俺は、そっと彼女の手を握った。
星莉奈さんも、優しく握り返してくれる。
……。
言葉は、それだけで十分だった。
*
夜。
星莉奈さんにおやすみを告げて、俺は自分の部屋に入った。
新しく運び込んだ机。
本棚。
ベッド。
まだ片づけきれていない段ボール。
そして、机の上には。
結衣ちゃんが飾ってくれた、一枚の絵。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。
……本当に、引っ越してきたんだな。
俺は、ベッドに腰を下ろした。
少しだけ、部屋を見渡す。
今までと違う場所。
まだ慣れない匂い。
でも、不思議と落ち着いていた。
……ああ。
そうか。
扉の向こうには、星莉奈さんと結衣ちゃんがいる。
それだけで、こんなにも安心するんだ。
俺は、そっと目を閉じた。
……明日から。
また、新しい毎日が始まる。
きっと、騒がしくて。
きっと、予想外のことばかりで。
たぶん、俺の心臓は毎日大変なことになる。
……でも。
それが、楽しみだった。
*
……ちなみに。
そろそろ寝ようかと思った、そのとき。
こんこん。
部屋の扉が、小さくノックされた。
「……翼くん?」
…………。
……え?
この声。
星莉奈さん!?
「……は、はい!」
「……まだ、起きてますか?」
「……お、起きてます!」
扉が、少しだけ開いた。
星莉奈さんが、ひょこっと顔を覗かせる。
柔らかい部屋着姿。
灰白色の髪が、いつもより少しだけ無造作に揺れている。
…………。
**ね、寝る前の星莉奈さんんんんんっ!?**
「……あの」
「……は、はい?」
星莉奈さんは、少しだけ頬を赤らめた。
「……その……」
「……?」
「……おやすみ、もう一回言いたくなっちゃって」
…………。
………………。
**か、かわいすぎるうううううううっ!!**
「……お、おやすみなさい、星莉奈さん」
「……はい。おやすみなさい、翼くん」
星莉奈さんは、うれしそうに笑った。
そして、扉を閉めようとして。
ふと、動きを止めた。
「……あ」
「……?」
「……そうだ」
星莉奈さんは、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「……明日の朝も、ちゃんと起こしに来ますね」
…………。
……え?
「……おはようのキスも、忘れないようにしないと」
…………。
………………。
**明日の朝もおおおおおおっ!?**
「……お、おやすみなさいっ!」
俺が真っ赤になって答えると、星莉奈さんはくすくす笑いながら扉を閉めた。
……。
…………。
俺は、そのままベッドに倒れ込んだ。
……無理。
これは無理。
**こんな幸せな毎日、俺の心臓がもちませえええええんっ!!**
……でも。
天井を見上げながら、俺は小さく笑った。
……明日の朝が。
こんなに楽しみなのは、初めてかもしれない。




