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第35話 さんにんのおうち!


 引っ越し。


 それは、今まで暮らしていた場所を離れて、新しい場所で生活を始めること。


 ……うん。


 意味は分かる。


 もちろん分かっている。


 だけど。


「つーくん! これ、もってっていい!?」


「……え?」


「これ!」


 結衣ちゃんが両手で持ち上げていたのは、俺のパソコンのキーボードだった。


「ま、待って結衣ちゃん! それは大事なやつだから!」


「だいじ?」


「うん! すっごく大事!」


「たからもの?」


「……まあ、仕事道具という意味では……」


「じゃあ、ゆいがはこぶ!」


「ありがとう! でも、それは俺が運ぶね!」


「えーっ!」


 ……。


 …………。


 引っ越しって。


 こんなに心臓に悪いものだったっけ?


 *


 今日は火曜日。


 リアンの定休日だ。


 星莉奈さんと結衣ちゃんが、俺の部屋の荷造りを手伝いに来てくれていた。


 先日の結衣ちゃんの誕生日。


 あの日、星莉奈さんから一緒に暮らさないかと誘われた。


 そして翌朝、結衣ちゃんも大賛成してくれた。


 そこからは、少しずつ準備を進めている。


 今の部屋の退去手続きもあるし、仕事道具の置き場所も考えなきゃいけない。


 星莉奈さんの家だって、俺が一人増えることで生活の仕方が変わる。


 だから今日は、まず必要なものを整理して、荷造りを進めることにした。


 星莉奈さんがこの部屋に来るのは、初めてじゃない。


 けれど、結衣ちゃんにとっては初めての場所だ。


 だからなのか、さっきから何を見つけても目を輝かせている。


「つーくん! これなあに!?」


「それはマウスだよ」


「ねずみ!?」


「……あ、いや、動物じゃなくて……」


「ちゅーちゅー!」


 結衣ちゃんはマウスを手に持って、楽しそうに鳴きまねを始めた。


 ……かわいい。


 いや、かわいいけど!


 それも仕事道具だから!


「結衣、つーくんのお仕事のものは、勝手に持っちゃだめよ?」


「はーい!」


 星莉奈さんに言われて、結衣ちゃんは素直にマウスを戻した。


 星莉奈さんはそんな俺たちを見て、くすっと笑う。


「ふふっ。翼くん、結衣がいると荷造りも大変ですね」


「……そうですね。でも、楽しいです」


「……ふふ。私もです」


 そう言って、星莉奈さんは手元の段ボールに目を戻した。


「……あ、翼くん。この本は持っていきますか?」


「はい。それはお願いします」


「分かりました」


 星莉奈さんは慣れた手つきで本を重ね、段ボールに収めていく。


 その様子を見ながら、俺は少しだけ不思議な気持ちになった。


 今までは、何もかも一人でやってきた。


 でも今日は、星莉奈さんが隣にいて。


 結衣ちゃんが元気いっぱいに部屋を歩き回っている。


 ……なんだか。


 もう、一緒に暮らしているみたいだ。


 そんなことを考えながら、俺も荷造りを再開した。


 *


「つーくん! みて!」


「……ん?」


「おうち!」


 空の段ボールを横に倒し、その中にすっぽり収まっていた。


「……結衣ちゃん、それは?」


「ゆいのおうち!」


「……なるほど」


「つーくんも、はいる?」


「……俺は入れないかなあ」


「えーっ!」


 ……。


 残念ながら、俺は五歳児サイズではない。


「結衣、段ボールがつぶれちゃうから、そろそろ出ておいで?」


「はーい!」


 結衣ちゃんはもぞもぞと這い出すと、今度は別の段ボールを指差した。


「じゃあ、こっちはクロブタロウのおうち!」


「ふふっ。それなら入れそうね」


「うん!」


 結衣ちゃんは、自分の小さなバッグからクロブタロウを取り出した。


 そして、段ボールの中にちょこんと座らせる。


「クロブタロウ、ここでまっててね!」


 ……。


 かわいい。


 いや、本当にかわいい。


 それにしても。


 クロブタロウまで引っ越しの手伝いに来てくれたのか。


「……結衣ちゃん、クロブタロウは何のお仕事をしてるの?」


「かんとく!」


「……監督!?」


「うん! ちゃんとできてるか、みてるの!」


 ……。


 なるほど。


 現場監督だった。


「……クロブタロウ監督、今日もよろしくお願いします」


 俺が軽く頭を下げると、結衣ちゃんはクロブタロウを持ち上げて、ぺこりとお辞儀させた。


「よろしくおねがいしまーす!」


「ふふふっ」


 星莉奈さんが、口元を押さえて笑っていた。


 ……平和だ。


 実に平和な引っ越し準備だ。


 このまま何事もなく終わってくれたらいいな。


 そう思っていた。


 ……そう。


 あの瞬間までは。


 *


「……翼くん?」


「はい?」


「……これ、なんですか?」


 星莉奈さんの声がした。


 俺は、漫画を段ボールに詰めながら振り返る。


「……え?」


 星莉奈さんが、一冊の本を持っていた。


 少し古びた表紙。


 派手な文字。


 そして。


 表紙を飾る、やたらと露出の多い女性。


 …………。


 ……あ。


 ………………。


 **あああああああああああっ!?**


 それは。


 それだけは。


 **見つかっちゃダメなやつうううううっ!!**


 いや、待て。


 なんで!?


 なんでそんなものがここに!?


 ……あ。


 思い出した。


 ずっと前に買って、本棚の奥に押し込んだまま忘れていた一冊だ。


 存在そのものを、完全に忘れていた。


 よりによって。


 よりによって今!?


「……あ、いや、それは……!」


「……ふぅん」


 星莉奈さんは表紙をちらっと見て、それから俺を見る。


「……翼くんって、こういうのが好きなんですね」


「ち、違っ……いや、違わないというか……!」


 何を言ってるんだ俺えええええっ!!


 違わないって何!?


 そこは違うって言い切るところじゃないの!?


 いや、でも実際に持ってたわけだし!?


 どうする!?


 どうすればいい!?


「……私とは、全然違う感じの女の子ですね」


 星莉奈さんが、ぷくっと頬を膨らませた。


 …………。


 ……え?


 もしかして。


 これは。


 **や、焼きもちですかあああああっ!?**


「……せ、星莉奈さん! あの、それ、ずっと前に買ったやつで……!」


「……そうなんですね」


「ほ、本当に忘れてたんです! どこにあるかも覚えてなくて!」


「……ふぅん」


 星莉奈さんは、ぷいっと顔をそらした。


「……別に、怒ってませんよ?」


 …………。


 **絶対怒ってるうううううっ!!**


 いや、待て。


 落ち着け、俺。


 これは説明すれば分かってもらえるはずだ。


 だって、本当に昔のものなんだから。


 今の俺が好きなのは――。


「……星莉奈さん」


「……なんですか?」


「……俺が好きなのは、星莉奈さんです」


「…………」


 星莉奈さんの耳が、ぴくっと動いた。


「……本当ですか?」


「……はい」


「……一番?」


「……もちろんです」


 星莉奈さんは、しばらく俺を見つめていた。


 やがて、小さく息をつく。


「……じゃあ、許してあげます」


「……あ、ありがとうございます……」


「……でも」


「……はい?」


「……そういうの、私に見つからないところにしてくださいね」


 …………。


 今後も持ってていいんですかああああっ!?


 ……いや。


 そういう問題じゃない。


 俺、今すぐこの本を処分したい。


 星莉奈さんは、その本を俺に差し出した。


 俺は受け取ると、すぐさま処分するものを入れた袋へ押し込んだ。


 ……よし。


 これで証拠隠滅。


 いや、違う。


 何もなかったことにしたい。


「……ちなみに、翼くん」


「……はい?」


 星莉奈さんは、まだ少しだけ頬を膨らませていた。


「……私の、どこが好きなんですか?」


「……え?」


「……さっき、一番好きって言ってくれましたよね?」


「……は、はい」


「……じゃあ、教えてください」


 星莉奈さんは、少しだけ得意げに微笑んだ。


 ……なるほど。


 星莉奈さんの好きなところ、か。


 ……。


 …………。


 どこから話そう。


 まずは笑顔?


 いや、優しさ?


 それとも、あの綺麗な琥珀色の瞳?


 ……うーん。


 俺は腕を組んで、そっと目を閉じた。


 頭の中に、星莉奈さんの姿が浮かぶ。


 リアンで笑っている星莉奈さん。


 結衣ちゃんの頭を撫でている星莉奈さん。


 俺の名前を呼んでくれる星莉奈さん。


 ……ああ。


 やっぱり、どれも好きだ。


「……まず、笑顔ですね」


「……え?」


「星莉奈さんって、笑うと目元が少し柔らかくなるじゃないですか。あれ、すごく好きなんです。あと、普段は落ち着いてるのに、不意打ちで褒めると耳まで赤くなるところとか」


「……あ、あの、翼くん?」


「それから、結衣ちゃんと話すときの声ですね。普段より少し優しくなるんですけど、甘やかすだけじゃなくて、ちゃんとお母さんとして叱れるところも尊敬してます」


「……えっと……」


「あと、リアンで働いてるときも好きです。お客さんのことをよく見てるし、常連さんの好みも覚えてるじゃないですか。忙しいときでも笑顔を忘れないところが本当にすごいなって」


 ……そうだ。


 まだある。


 俺は目を閉じたまま、次々と思い浮かぶ彼女の姿を言葉にしていった。


「それと、髪ですね。あの灰白色の髪、朝日に当たると少し透き通って見えるんですよ。あの朝もそうでしたけど、あれは本当に反則だと思います」


「……つ、翼くん……?」


「あと、琥珀色の瞳も綺麗ですし、ちょっといたずらっぽく笑うところもかわいいです。なのに、自分がからかわれる側になると途端に弱くなるじゃないですか。あのギャップがまた……」


 ……うん。


 改めて考えると、本当にすごい人だと思う。


 俺は目を閉じたまま、腕を組んでうなずいた。


「というか、星莉奈さんって、芸能人とかモデルにいても全然おかしくないと思うんですよね」


「……えっ?」


「いや、むしろアイドルグループにいたら、絶対センターかエースだと思います。うん、間違いないです」


「……あ、あの……」


「正直、星莉奈さんと出会ってから、テレビとかに出てる人も含めて、星莉奈さんよりかわいい人を見たことがないんですよ。女優さんとかアイドルとか、もちろん綺麗な人はたくさんいるんですけど、俺の中では星莉奈さんが圧倒的に一番というか」


「…………っ」


「それでいて、かわいいだけじゃないんですよね。お店ではしっかりしてるし、結衣ちゃんのお母さんとしても本当に素敵だし。でも、たまにちょっと抜けてるところがあって、そこもかわいいんです。ああ、あと、笑うときに少し首を傾けることがあるじゃないですか。あれ、ずるいと思います」


「……つ、翼くん、もう……」


 ……あ。


 そうだ、まだある。


「それに、星莉奈さんって、俺が緊張してるとすぐ気づいてくれるんですよ。無理に聞き出そうとしないで、自然に話しやすい空気を作ってくれるんです。そういう優しさって、簡単にできることじゃないと思うんですよね」


「…………」


「あと、コーヒーを飲むときの仕草も好きです。カップを両手で持つことがあるんですけど、あれがまたかわいくて。結衣ちゃんに見せる笑顔と俺に見せる笑顔って、ちょっと違うんですよね。どっちも好きなんですけど、俺に向けてくれる笑顔は、なんというか……」


 俺は少し考えた。


「……特別に感じるんです」


「……も、もう……っ」


「それに、名前を呼んでくれる声も好きです。ちょっと照れながら『翼くん』って呼ばれると、それだけで一日頑張れるというか……それから、朝起きたときの顔もすごくかわいくて、あの朝なんて本当に天使かと思ったくらいで――」


「翼くんっ!!」


「……はいっ!?」


 びくっと肩が跳ねた。


 そこでようやく、俺は目を開けた。


 隣を見る。


 …………。


 ……え?


 星莉奈さんが、両手で顔を覆っていた。


 指の隙間から見える頬は、真っ赤。


 耳まで、見事に赤く染まっている。


「……せ、星莉奈さん?」


「……も、もう……!」


 星莉奈さんは顔を隠したまま、小さく首を振った。


「……もう、十分です……!」


「……え?」


「……そんなに……そんなにいっぱい……好きなところ、言わないでください……!」


 …………。


 ……あれ?


 ………………。


 **ああああああああっ!?**


 そうだった!!


 俺、本人の目の前でしゃべってたんだったあああああっ!!


 **脳内の星莉奈さんを語ることに夢中になりすぎたあああああっ!!**


「す、すみません!! つい……!」


「……謝らないでください……」


「……えっ?」


「……うれしい、ですから……」


 …………。


 **か、かわいすぎるうううううううっ!!**


 星莉奈さんは、指の隙間からちらっと俺を見た。


「……翼くん……」


「……は、はい」


「……そんなに、私のこと……見ててくれたんですか……?」


 俺は、少しだけ照れくさくなった。


「……はい。好きなので」


「…………っ!」


 星莉奈さんは、再び両手で顔を覆った。


「……も、もうっ……!」


 ……。


 …………。


 **あれ!? 俺、また何かやっちゃいました!?**


 *


「つーくん! おにもつ、できたよー!」


「……っ!?」


 突然、結衣ちゃんの元気な声が響いた。


 振り返ると、結衣ちゃんが空の段ボールを一つ抱えて立っていた。


「……あれ?」


 結衣ちゃんは、俺と星莉奈さんを交互に見た。


「ママ、どうしたの?」


「……な、なんでもないわよ?」


「おかお、まっか!」


「……ちょ、ちょっと暑くて……」


「つーくんも、あかい!」


「そ、そうかな!?」


「……ふたりで、なにしてたの?」


 …………。


 **五歳児の純粋な質問が一番怖いいいいいっ!!**


 どうしよう。


 なんて答えればいいんだ。


 すると、星莉奈さんが俺をちらっと見て、小さく笑った。


「……翼くんに、いっぱい褒めてもらってたの」


「えーっ!」


 結衣ちゃんの目が、きらきらと輝く。


「いいなー!」


「……え?」


「ゆいも! ゆいもほめてー!」


 結衣ちゃんは両手を広げて、俺に駆け寄ってきた。


 ……。


 …………。


 かわいい。


 これは褒めるしかない。


「結衣ちゃんはね、元気で、優しくて、お手伝いもできて、それから笑顔がすごくかわいくて――」


「えへへへ!」


「あと、お店屋さんごっこが上手だし、絵も上手だし、クロブタロウのことも大事にしてるし――」


「えへへへへっ!」


 結衣ちゃんは、うれしそうに体を揺らした。


 すると、隣から小さな笑い声が聞こえる。


「ふふっ。翼くん、また始まっちゃいましたね」


「……え?」


 星莉奈さんが、くすくす笑っていた。


 ……。


 …………。


 **俺、褒めるのに夢中になりすぎる癖があるんですかああああっ!?**


「つーくん! もっと!」


「えっ!?」


「もっと、ほめて!」


「……えっと……結衣ちゃんは、世界一かわいい五歳児だと思うよ」


「やったあああっ!」


 結衣ちゃんは両手を上げて喜んだ。


 星莉奈さんも、とうとう声を出して笑い始めた。


 ……。


 まあ。


 喜んでくれるなら、いいか。


 *


 それからしばらくして。


「……あっ!」


 机のほうから、結衣ちゃんの声が聞こえた。


「つーくん! これ、ゆいのえ!」


 振り返ると、結衣ちゃんが机の前に立っていた。


 小さな指が差しているのは、机の端に飾ってある一枚の絵。


「ああ、そうだよ。結衣ちゃんが描いてくれた絵だね」


「まだ、あったの!?」


「もちろん」


 結衣ちゃんは、絵と俺の顔を交互に見た。


「なんで、ここにあるの?」


「大事な絵だから、いつでも見られるところに飾ってたんだ」


「……だいじ?」


「うん。俺の宝物だよ」


「…………!」


 結衣ちゃんの琥珀色の瞳が、ぱっと輝いた。


「たからもの!?」


「そうだよ」


「ゆいのえが!?」


「うん」


 すると結衣ちゃんは、うれしそうにその場でぴょんっと跳ねた。


「えへへっ! ママ! きいて!」


「ふふっ。聞いてたわよ」


「ゆいのえ、つーくんのたからものなんだって!」


「そうね。よかったわね、結衣」


「うんっ!」


 結衣ちゃんはもう一度、絵を見上げた。


「……ねえ、つーくん」


「なあに?」


「あたらしいおうちにも、もってく?」


「もちろん。飾るつもりだよ」


「じゃあね、じゃあね!」


 結衣ちゃんは俺の手を握った。


「ゆいが、かざってあげる!」


「本当? ありがとう」


「つーくんが、いつでもみれるところ!」


 ……。


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「……うん。楽しみにしてる」


 隣で、星莉奈さんが優しく微笑んでいた。


「……翼くん」


「はい?」


「……新しいおうちでも、宝物が増えそうですね」


 俺は、結衣ちゃんの笑顔を見つめた。


「……そうですね」


 きっと、これからも。


 この子と、星莉奈さんと一緒に。


 大切なものが、少しずつ増えていくんだと思う。


 *


「……さて、と」


 俺は、積み上がった段ボールを見渡した。


 服や本は、だいたい片づいた。


 あとは仕事道具と、普段使っているものが中心だ。


「……翼くん、お仕事の机はどうしましょうか?」


 星莉奈さんが尋ねてきた。


「そうですね……モニターも二台ありますし、結構場所を取るんですよね」


「でも、翼くんがお仕事できる場所は、ちゃんと作りたいです」


「……ありがとうございます」


 星莉奈さんの家には、今はあまり使っていない部屋がある。


 そこを片づけて、俺の仕事スペースにできないかと話していた。


 ただ、机の大きさや配線のこともある。


 実際に置いてみないと分からないことも多そうだ。


「……無理に全部持っていかなくても大丈夫ですからね」


「はい。必要なものから少しずつ運ぼうと思います」


「……ふふっ。なんだか、本当に始まるんですね」


 星莉奈さんは、うれしそうに笑った。


 ……。


 そうだな。


 本当に、始まるんだ。


「つーくん!」


「……ん?」


「ゆいのおみせのとなりで、おしごとしていいよ!」


「……えっ?」


 結衣ちゃんが、得意げに胸を張っていた。


「ゆいがおみせやさんして、つーくんがおしごと!」


「……なるほど」


「そしたら、いつでもあそべる!」


「……うん。お仕事が終わったら、いっぱい遊ぼうね」


「うんっ!」


 結衣ちゃんは満足そうにうなずいた。


 ……と思ったら。


「あっ! でもね!」


「……なあに?」


「おきゃくさんになったら、おかねはらってね!」


 …………。


 **仕事中でも五百円取られるんですかああああっ!?**


「ふふふっ!」


 星莉奈さんが、口元を押さえて笑っていた。


「……翼くん、大変ですね」


「……そうですね。お仕事、頑張らないと……」


「つーくん! いっぱいかせいでね!」


「……は、はい!」


 ……。


 …………。


 五歳児からのプレッシャーがすごい。


 *


 夕方。


 窓から差し込む光が、少しずつ柔らかくなっていた。


 部屋の隅には、いくつもの段ボールが積み上がっている。


 本棚は、だいぶすっきりした。


 机の上も、いつもより物が少ない。


 ……なんだか。


 不思議な感じだ。


 この部屋に住み始めた頃のことを、少し思い出した。


 一人で家具を運び込んで。


 一人で机を組み立てて。


 ここで仕事をして、ご飯を食べて、眠って。


 気づけば、それが当たり前になっていた。


 嫌いな部屋じゃない。


 むしろ、落ち着く場所だった。


 誰にも気を遣わず、自分のペースで過ごせる。


 そんな暮らしが、俺には合っていると思っていた。


 ……でも。


「……翼くん?」


 隣から、優しい声がした。


「……寂しいですか?」


 星莉奈さんが、俺の顔を覗き込んでいた。


「……あ」


 俺は、少しだけ考えた。


「……そうですね。少しだけ」


「……そうですよね」


「ずっと住んでた部屋ですから」


「……はい」


 星莉奈さんは、何も急かさずに聞いてくれていた。


 俺は、積み上がった段ボールを見つめる。


「……でも」


「……?」


「楽しみのほうが、ずっと大きいです」


 星莉奈さんの琥珀色の瞳が、ゆっくりと細められた。


「……私もです」


 その笑顔を見たら、なんだか胸の奥が温かくなった。


 ……本当に。


 この人と出会えて、よかった。


「つーくん! ママ!」


 結衣ちゃんが、ぱたぱたと駆け寄ってきた。


「……ん? どうしたの?」


「おにもつ、おわった?」


「うん。今日はこのくらいかな」


「じゃあ、かえろ!」


 結衣ちゃんは、俺の右手を握った。


 そして、左手で星莉奈さんの手を握る。


「……帰ろう?」


「うん!」


 結衣ちゃんは、元気いっぱいにうなずいた。


「ゆいとママのおうち!」


 ……。


 そうだな。


 今日は、星莉奈さんたちの家で夕飯をごちそうになる予定だ。


 まだ引っ越しが終わったわけじゃない。


 だから、今は――。


「あっ!」


 結衣ちゃんが、突然声を上げた。


「……どうしたの?」


「ちがう!」


「……え?」


 結衣ちゃんは、俺と星莉奈さんを交互に見上げた。


 そして。


 にぱっと、満面の笑みを浮かべる。


「さんにんのおうち!」


 …………。


 ……あ。


 胸の奥が、きゅっとなった。


 まだ、俺の荷物はここにある。


 退去の手続きだって終わっていない。


 引っ越しは、これからだ。


 それなのに。


 結衣ちゃんは、もう。


 あの場所を、三人の家だと思ってくれている。


「……そうだね」


 俺は、結衣ちゃんの小さな手を握り返した。


「……三人のおうちだね」


「うんっ!」


 隣を見ると、星莉奈さんが微笑んでいた。


 少しだけ潤んだようにも見える、優しい琥珀色の瞳。


「……帰りましょうか、翼くん」


「……はい」


 俺は、もう一度だけ部屋を振り返った。


 今まで、ありがとう。


 まだ完全にお別れするわけじゃないけれど。


 ここで過ごした時間も、きっと忘れない。


 そして。


 これからは。


「つーくん! はやくー!」


「……うん。今行くよ」


 俺は二人と一緒に、玄関へ向かった。


 一人で帰る場所じゃなくて。


 三人で帰る場所へ。


 ……ああ。


 きっと、これが。


 俺の、新しい居場所なんだ。


 *


 ちなみに。


 帰り道、結衣ちゃんが突然こんなことを言い出した。


「つーくん!」


「なあに?」


「あしたも、おにもつする?」


「……うーん。明日はお仕事かな」


「そっかあ」


 結衣ちゃんは少し考えてから、にこっと笑った。


「じゃあ、ゆいがぜんぶやっとく!」


「……えっ!?」


「つーくんのおにもつ、ぜーんぶ!」


 …………。


 いや。


 待って。


 それは。


 **俺のパソコンだけは勘弁してくださああああいっ!!**


 隣で、星莉奈さんが楽しそうに笑っていた。


 ……。


 これからの生活。


 どうやら、毎日がにぎやかになりそうです。

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