第34話 朝起きたら
……つん。
……つん、つん。
……ん……?
頬に、何かが触れている。
柔らかくて、少しくすぐったい。
……つん。
「……ふふっ」
小さな笑い声が聞こえた。
なんだろう。
誰かが、俺を呼んでいるような気がする。
……でも、まだ眠い。
もう少しだけ寝ていたい。
そう思っていると、また頬をつつかれた。
……つん、つん。
「……起きませんねぇ」
すぐ近くで、女の子の声がした。
どこか楽しそうで、優しくて。
耳に心地いい声だった。
……誰だろう。
重たいまぶたを、ゆっくりと持ち上げる。
ぼんやりとした視界に、朝の光が差し込んだ。
そして。
目の前に、一人の美少女がいた。
透き通るような白い肌。
朝日に照らされた灰白色の髪は、枕の上でふわりと広がっている。
少しだけ乱れた前髪の隙間から、長いまつ毛が覗いていた。
大きな琥珀色の瞳。
その瞳が、すぐ近くから俺をじっと見つめている。
形のいい唇には、いたずらっぽい微笑み。
頬に触れていたのは、細くて綺麗な人差し指だった。
彼女は俺と同じように横になっていて、枕に頬を預けたままこちらを向いていた。
目が合う。
すると、彼女の笑みが少しだけ深くなった。
「……おはようございます」
柔らかな声。
朝の光。
すぐ目の前にある、信じられないくらい綺麗な顔。
……。
…………。
「……て、てんし……?」
「……えっ?」
美少女が、きょとんとした。
琥珀色の瞳が、ぱちぱちと瞬きをする。
そして、次の瞬間。
白い頬が、みるみる赤く染まっていった。
「……て、天使……?」
小さく繰り返した声は、さっきよりずっと弱々しい。
俺の頬をつついていた指が、ぴたりと止まった。
「……も、もう。翼くん……」
彼女は困ったように眉を下げ、口元を隠した。
「……朝から、そんなこと言わないでください……」
……翼くん?
……あれ?
この声。
この髪。
この、琥珀色の瞳。
…………。
星莉奈さん!?
そうだ。
昨日は結衣ちゃんの誕生日で。
三人でお祝いして。
夜、星莉奈さんとコーヒーを飲んで。
それから、一緒に暮らそうって話をしたんだった。
記憶が一気に戻ってきた。
そして同時に、自分が何を口走ったのかも思い出した。
…………。
寝起き一発目から何言ってんだ俺えええええっ!!
「……あ、いや、その……!」
「……ふふっ」
星莉奈さんは、まだ赤い顔のまま、小さく笑った。
「……びっくりしました」
「……す、すみません」
「……謝らなくてもいいですけど……」
星莉奈さんは、少しだけ視線をそらす。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「……うれしかった、です」
…………。
か、かわいすぎるうううううううっ!!
何その反応!?
さっきまで楽しそうに俺のほっぺをつんつんしてたじゃないですか!?
なんで今、そんなに照れてるんですか!?
いや、照れさせたの俺だけど!!
「……翼くん」
「……は、はい」
「……あんまり見ないでください」
「……えっ」
「……顔、赤いので……」
そう言いながら、星莉奈さんは枕に半分顔を埋めた。
……。
…………。
そんなことされたら、余計に見ちゃうんですけど!?
俺が何も言えずにいると、星莉奈さんが枕からそっと目だけを覗かせた。
「……でも」
「……はい?」
「……おはようございます、翼くん」
まだ少し赤い頬で、はにかむように笑う。
「……お、おはようございます」
俺も、なんとか挨拶を返した。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ただ、すぐ近くで目が合うたびに、どちらからともなく笑ってしまう。
「……結衣、まだ寝てるんです」
星莉奈さんが、小さな声で言った。
「……そうなんですか?」
「はい。昨日、いっぱい遊びましたから」
「……そうですね」
昨日の結衣ちゃんの笑顔を思い出す。
誕生日ケーキに、プレゼントに、お店屋さんごっこ。
きっと、楽しい夢でも見ているんだろう。
すると、星莉奈さんがそっと俺の手に触れた。
「……あの、翼くん」
「……はい?」
星莉奈さんは、何かを言いかけて。
けれど、言葉にはしなかった。
代わりに、俺の手をきゅっと握る。
そして。
……すっ。
ゆっくりと、目を閉じた。
…………。
………………。
え?
……ええっ!?
ちょ、ちょっと待って。
これって。
もしかして。
……いや、もしかしなくても。
キ、キスしてほしいってことですかあああああっ!?
星莉奈さんは、目を閉じたまま動かない。
長いまつ毛。
ほんのり赤い頬。
少しだけ緊張したように結ばれた唇。
……。
…………。
か、かわいすぎるうううううううっ!!
何なんですか、この朝は!?
起きたら天使がいて!
その天使が照れて!
今度は目を閉じて待ってるんですけど!?
……落ち着け。
俺。
ここで慌ててどうする。
星莉奈さんが、勇気を出してくれたんだ。
だったら、俺も。
「……星莉奈さん」
「……ん」
小さな返事。
俺は、そっと顔を近づけた。
そして。
……ちゅっ。
唇が、優しく重なった。
ほんの短いキス。
けれど、離れたあとも、胸の鼓動はちっとも落ち着かなかった。
星莉奈さんが、ゆっくりと目を開ける。
琥珀色の瞳が、すぐ近くで俺を見つめた。
「……えへへ」
……。
…………。
えへへ!?
今、えへへって言いました!?
そんな幸せそうな顔で!?
俺の心臓、もう限界なんですけどおおおおっ!!
「……翼くん」
「……は、はい」
「……おはようの、キスですね」
星莉奈さんは、照れくさそうに笑った。
「……そ、そうですね」
「……ふふっ」
そして、俺の手をもう一度握り直す。
「……毎朝、できたらいいですね」
…………。
毎朝あああああっ!?
いや。
したい。
めちゃくちゃしたい。
でも、そんなことが毎朝続いたら。
……俺、仕事に集中できなくなるんじゃないか?
「……俺も、そうしたいです」
なんとかそう答えると、星莉奈さんはうれしそうに微笑んだ。
「……よかった」
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
結衣ちゃんは、まだ夢の中。
俺たちは手をつないだまま、もう少しだけ布団の中にいた。
……こんな朝が、これから何度も訪れるのかもしれない。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
*
「……そろそろ起きましょうか」
星莉奈さんが、名残惜しそうに手を離した。
「そうですね。朝ごはん、俺も手伝います」
「ありがとうございます。じゃあ、お皿をお願いしてもいいですか?」
「もちろんです」
そう言って起き上がったものの。
……なんだろう。
さっきから、星莉奈さんの顔をまともに見られない。
いや、見たい。
ものすごく見たい。
でも、見るとさっきのキスを思い出す。
そして星莉奈さんも、俺と目が合うたびに少し頬を赤くする。
……。
何この幸せな気まずさ。
昨日まで、朝の支度なんて一人で済ませるものだった。
起きて、顔を洗って、適当に朝食を食べて。
仕事を始める。
それが俺の日常だった。
なのに今は、洗面所から戻ると、キッチンに星莉奈さんがいる。
髪を整えて、エプロンをつけて。
フライパンの前に立っている。
「翼くん、パンとご飯、どっちがいいですか?」
「……あ、じゃあ、パンで」
「ふふっ。私もです」
たったそれだけの会話なのに、なんだかうれしい。
俺は食器棚からお皿を取り出し、テーブルに並べた。
三枚。
大きいお皿が二枚と、少し小さいお皿が一枚。
……三枚、か。
「……翼くん?」
「あっ、はい!」
「どうかしました?」
「いえ……三人分のお皿を並べるのって、いいなと思って」
口にしてから、ちょっと恥ずかしくなった。
星莉奈さんは一瞬驚いた顔をして、それから優しく笑った。
「……私も、そう思います」
……。
また顔が熱くなる。
この家、暖房ついてましたっけ?
そんなことを考えていると。
「……ままぁ……」
廊下のほうから、小さな声が聞こえた。
振り返る。
そこには、パジャマ姿の結衣ちゃんが立っていた。
寝癖のついたミルクティーブラウンの髪。
まだ半分閉じている琥珀色の瞳。
そして、胸には黒いブタのぬいぐるみ。
クロブタロウが、ぎゅっと抱きしめられていた。
「おはよう、結衣」
「……おはよぉ……」
結衣ちゃんは、ふらふらと星莉奈さんのほうへ歩いていく。
……と思ったら。
途中で、俺を見つけた。
「……つーくん……」
「おはよう、結衣ちゃん」
「……ん……」
とことこと近づいてきた結衣ちゃんが、俺の足にぺたりとくっついた。
片手にはクロブタロウ。
もう片方の手で、俺の服をぎゅっと握っている。
「……まだ、ねむい……」
「ふふっ。昨日、いっぱい遊んだもんね」
「……うん……」
俺がしゃがむと、結衣ちゃんはそのまま肩にこてんと頭を預けてきた。
……。
かわいい。
こっちはこっちで、朝からかわいすぎる。
星莉奈さんが、キッチンから微笑ましそうに見ている。
「結衣、顔を洗っておいで?」
「……あとでぇ……」
「朝ごはん、できちゃうよ?」
「……んー……」
結衣ちゃんはクロブタロウを抱き直し、俺にぴったりくっついた。
……これは、もう少しこのままかな。
そう思った、そのとき。
「……あれ?」
結衣ちゃんが、ぱちっと目を開けた。
そして、俺の顔をじっと見つめる。
「……つーくん?」
「うん?」
「……つーくん!?」
「う、うん。そうだよ?」
「つーくん、いるーっ!!」
突然、結衣ちゃんが飛びついてきた。
「うわっ!」
「ママ! つーくんがいるよ!!」
「ふふっ。いるねぇ」
「なんで!? なんでいるの!?」
「昨日、お泊まりしたでしょ?」
「あっ!!」
結衣ちゃんは大きく口を開けた。
「そうだったー!!」
……。
さっきまで俺にくっついて寝ぼけてたよね!?
どうやら、ようやく完全に目が覚めたらしい。
「つーくん! おはよー!!」
「うん。おはよう、結衣ちゃん」
「クロブタロウも、おはよーだって!」
結衣ちゃんが、クロブタロウの顔を俺に向けてくる。
「おはよう、クロブタロウ」
俺が挨拶すると、結衣ちゃんは満足そうに笑った。
「えへへ!」
星莉奈さんも、楽しそうに笑っていた。
*
「いただきまーす!」
三人でテーブルを囲む。
焼きたてのトーストに、スクランブルエッグ。
ウインナーと、小さく切ったトマト。
結衣ちゃんのコップには牛乳が入っている。
クロブタロウは、結衣ちゃんの隣の椅子に座らされていた。
「クロブタロウも、あさごはん!」
「クロブタロウは何を食べるの?」
「……くうき!」
「空気!?」
「うん! ぶたさんだから!」
……ブタって空気食べるんだっけ?
いや、違うよね?
星莉奈さんが笑いを堪えながら、結衣ちゃんの口元を拭いた。
「結衣、ちゃんと食べてからお話ししようね」
「はーい!」
結衣ちゃんはトーストをひと口かじり、もぐもぐと食べる。
そして、飲み込んだあと。
「ねえ、つーくん!」
「ん?」
「きょうも、おとまりする?」
……おっと。
来た。
「今日は帰るよ。仕事もあるしね」
「ええええーっ!?」
結衣ちゃんが、思いきり頬を膨らませた。
「なんでー!?」
「なんでって……」
「きのう、おとまりしたじゃん!」
「う、うん」
「じゃあ、きょうもすればいいじゃん!」
……ものすごく正しいような、正しくないような。
星莉奈さんが、くすくす笑っている。
「結衣、翼くんにもおうちがあるのよ?」
「しってるよ!」
「だから、帰らないといけない日もあるの」
「……むぅ」
結衣ちゃんは少し考えた。
そして、何かをひらめいたように顔を上げた。
「じゃあさ!」
「うん?」
「つーくん、ずっとここにすめばいいじゃん!」
…………。
俺の手が止まった。
星莉奈さんも、コーヒーカップを持ったまま動きを止める。
……。
…………。
昨日の夜、二人であんなに緊張しながら話したことを。
五歳になったばかりの結衣ちゃんが。
たった一言で。
言っちゃったあああああっ!!
「……ふふっ」
先に笑ったのは、星莉奈さんだった。
俺のほうを見て、少しだけ照れくさそうに微笑む。
……あ。
この顔。
昨日の夜と、同じだ。
「……結衣」
「なあに?」
「翼くんが、毎日ここにいたらうれしい?」
「うんっ!!」
即答だった。
あまりにも迷いのない返事に、俺まで笑ってしまう。
「どうして?」
「だって!」
結衣ちゃんは、両手を大きく広げた。
「まいにち、おみせやさんできるもん!!」
…………。
お店屋さんんんんっ!?
いや、うれしいよ!?
昨日のプレゼント、気に入ってくれたんだもんね!?
「それにね!」
「うん?」
「つーくん、いっぱいあそんでくれるし!」
「うん」
「クロブタロウのおはなしも、きいてくれるし!」
「うん」
「あと、たかいところのもの、とってくれる!」
……。
それは、まあ。
俺もそこまで背は高くないけど、結衣ちゃんよりは高いからね。
星莉奈さんが、とうとう声を出して笑った。
「ふふっ。翼くん、大人気ですね」
「……ありがたい限りです」
結衣ちゃんは得意そうに胸を張った。
「だから、すめばいいの!」
……なんという説得力。
だけど。
俺と星莉奈さんは、もう一度顔を見合わせた。
昨日、二人で話したこと。
まだ決めなきゃいけないことは、たくさんある。
俺の仕事のこと。
荷物のこと。
部屋の使い方。
生活のこと。
そして何より、結衣ちゃんの気持ち。
俺たち二人が一緒にいたいからって、それだけで決めていいことじゃない。
だからこそ、ちゃんと聞きたかった。
「……結衣ちゃん」
「ん?」
「ちょっと、お話してもいい?」
「いいよ!」
結衣ちゃんはトーストをお皿に置いた。
俺は、できるだけゆっくりと言葉を選んだ。
「……俺ね。星莉奈さんと結衣ちゃんと、一緒に暮らしたいなって思ってるんだ」
結衣ちゃんが、ぱちぱちと瞬きをする。
「……いっしょに?」
「うん」
「……ずっと?」
「……うん。毎日、一緒のおうちで過ごせたらいいなって」
結衣ちゃんは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、隣に座る星莉奈さんを見る。
「……ママも?」
「うん。ママも、翼くんと一緒に暮らせたらうれしいなって思ってるよ」
「……ほんと?」
「ほんとよ」
結衣ちゃんは、小さく口を開けた。
それから。
「……じゃあ」
いつもより、少しだけ小さな声で聞いてきた。
「……つーくん、かえっちゃわない?」
……。
その一言に、胸がきゅっとなった。
さっきまで、あんなに元気に笑っていたのに。
今の結衣ちゃんは、どこか心配そうだった。
きっと、この子なりに考えているんだ。
一緒に暮らすって、どういうことなのか。
朝起きたとき、俺がいること。
夜になっても、俺がいること。
それが本当に、毎日続くのかどうか。
俺は椅子から降りて、結衣ちゃんの隣にしゃがんだ。
「……結衣ちゃん」
「……うん」
「お仕事とか、お買い物とかで出かけることはあるよ。でも、一緒に暮らすことになったら、ここが俺の帰ってくるおうちにもなるんだ」
「……つーくんの、おうち?」
「うん」
「……ゆいの、おうちが?」
「そうだよ」
結衣ちゃんは、ゆっくりと俺の言葉を確かめるように繰り返した。
「……じゃあ、つーくんも、ただいまっていう?」
「……うん。言うよ」
「……ゆいが、おかえりっていうの?」
「……言ってくれたら、うれしいな」
結衣ちゃんの顔が、ぱあっと明るくなった。
「いう!!」
そして、勢いよく俺に抱きついてきた。
「ゆい、まいにちおかえりっていうーっ!!」
「わっ……!」
俺は慌てて結衣ちゃんを受け止めた。
「つーくん、おかえりー!!」
「……まだ帰ってきてないけどね?」
「れんしゅう!!」
「そ、そっか。練習か」
「もういっかい!」
「えっ?」
「つーくん、おかえりー!!」
「……ただいま、結衣ちゃん」
「えへへへっ!」
結衣ちゃんは、満面の笑みを浮かべた。
……。
なんだろう。
たった二文字と四文字のやり取りなのに。
胸の奥が、じんわり温かい。
ふと顔を上げると、星莉奈さんがこちらを見ていた。
優しい笑顔だった。
でも、その琥珀色の瞳は、少しだけ潤んでいるようにも見えた。
目が合うと、彼女は小さく頷いた。
俺も、頷き返した。
……うん。
きっと、これでいいんだ。
焦らずに。
三人で、少しずつ。
*
「じゃあ、きめた!」
朝食を食べ終えた結衣ちゃんが、突然立ち上がった。
「……何を?」
「つーくんのおへや!」
「……俺の部屋?」
「うん!」
結衣ちゃんは、クロブタロウを抱えてリビングの隅へ走っていった。
そこには、絵本やおもちゃが置かれた小さなスペースがある。
クロブタロウの、いつもの居場所だ。
「ここ!」
「……ここ?」
「うん! クロブタロウのとなり!」
…………。
「……俺、クロブタロウの隣!?」
「そう!」
結衣ちゃんは、得意げに頷いた。
「つーくん、とくべつだから!」
「……と、特別?」
「うん!」
結衣ちゃんはクロブタロウをぎゅっと抱きしめる。
「クロブタロウも、つーくんも、ゆいのだいじだもん!」
……。
…………。
ああ。
そういうことか。
結衣ちゃんにとって、クロブタロウはただのぬいぐるみじゃない。
眠るときも。
遊ぶときも。
ちょっと寂しいときも。
いつもそばにいる、大切な友達。
そんなクロブタロウと同じ場所に、俺を迎えようとしてくれている。
……なんだか。
すごく、うれしいな。
「……ありがとう、結衣ちゃん」
「えへへ!」
俺が笑うと、結衣ちゃんも笑った。
すると、星莉奈さんが口元に手を当てた。
「……ふふっ」
「……星莉奈さん?」
「いえ……なんだか、二人って似てるなぁと思って」
「……え?」
星莉奈さんは、結衣ちゃんに抱かれたクロブタロウと、俺の顔を交互に見た。
「……どこがですか?」
「ふふっ。どこでしょう?」
……えっ。
ちょっと待って。
今、俺とクロブタロウを見比べましたよね?
「……星莉奈さん?」
「ふふふっ」
「……まさか、俺ってクロブタロウに似てます?」
「……そんなこと、言ってませんよ?」
言ってないけど!!
絶対、ちょっと思ってますよね!?
すると結衣ちゃんまで、俺とクロブタロウを見比べ始めた。
「……あ!」
「……な、何?」
「にてる!」
「結衣ちゃんまで!?」
「つーくんと、クロブタロウ!」
結衣ちゃんは、クロブタロウの丸い鼻を指でつついた。
それから、俺の鼻にも手を伸ばしてくる。
「……ここ!」
「……鼻!?」
「えへへ!」
星莉奈さんは、とうとう声を上げて笑った。
「ふふっ! ご、ごめんなさい、翼くん……!」
「……いえ、楽しそうで何よりです……」
……。
俺、もしかして。
この家では、クロブタロウと同じ立ち位置なのか?
いや。
でも。
結衣ちゃんが、クロブタロウを大切そうに抱きしめている。
そして、その隣で俺の服の裾を握っている。
その小さな手を見ていたら。
……それも、悪くないな。
そう思った。
「つーくん!」
「ん?」
「クロブタロウ、つーくんがくるの、うれしいって!」
「……そっか」
俺はクロブタロウの頭を、そっと撫でた。
「……俺も、うれしいよ」
結衣ちゃんは、にっこり笑った。
そして、クロブタロウを俺の隣にちょこんと座らせる。
「はい! なかよし!」
「……うん。仲良くしような、クロブタロウ」
黒いブタのぬいぐるみは、もちろん何も答えない。
だけど、なんとなく。
俺の隣で、笑っているように見えた。
*
朝食の片づけが終わると、結衣ちゃんはさっそく昨日もらったお店屋さんセットを広げ始めた。
「つーくん! おみせ、あいたよ!」
「もう開店したの!?」
「うん! きょうは、あさからやってます!」
「……働き者だねぇ」
結衣ちゃんはレジの前に立ち、胸を張った。
「いらっしゃいませー!」
「……じゃあ、リンゴを一つください」
「はい! ごひゃくえんです!」
「……今日も五百円!?」
「つーくんは、とくべつ!」
……。
特別価格。
昨日から据え置きらしい。
星莉奈さんが、隣で楽しそうに笑っている。
俺はおもちゃのお金を差し出しながら、ふと思った。
この家に初めて入った昨日。
俺は、何もかもが新鮮で。
どこに座ればいいのかさえ、少し緊張していた。
それなのに、今は。
結衣ちゃんのお店でリンゴを買って。
星莉奈さんと笑い合って。
朝食の食器を一緒に片づけている。
昨日まで知らなかった、この家の朝。
これから少しずつ、知っていくんだろう。
結衣ちゃんの寝癖のつき方も。
星莉奈さんが朝、どんなふうにコーヒーを淹れるのかも。
クロブタロウが、いつもどこに座っているのかも。
きっと、まだまだ知らないことがある。
でも。
それを知っていけるのが、楽しみだった。
「つーくん!」
「ん?」
「リンゴ、どうぞ!」
「ありがとう、結衣ちゃん」
「またきてね!」
「……うん」
俺は笑って答えた。
「……また来るよ」
すると、結衣ちゃんが首を傾げた。
「……ちがうよ?」
「……え?」
「つーくん、ここにすむんでしょ?」
「……あ」
結衣ちゃんは、にこにこと笑った。
「だから、またくるじゃなくて……」
少し考えてから、元気いっぱいに言った。
「……また、あそぼうね!」
……。
…………。
「……うん。そうだね」
俺も、笑った。
「また遊ぼう、結衣ちゃん」
隣で、星莉奈さんが微笑んでいる。
足元には、ちょこんと座ったクロブタロウ。
そして目の前には、五歳になったばかりの結衣ちゃん。
昨日の夜、星莉奈さんと交わした約束。
今朝、結衣ちゃんと交わした約束。
まだ、何も準備はできていない。
引っ越しだって、これからだ。
だけど。
俺たち三人の気持ちは、同じところを向いている。
……いつか。
仕事を終えて、この家に帰ってきたら。
結衣ちゃんが「おかえり!」と笑って。
星莉奈さんが「お疲れさまです」と迎えてくれる。
そんな毎日が、本当に始まるのかもしれない。
「……翼くん」
星莉奈さんが、そっと俺を呼んだ。
「……はい?」
「……楽しみですね」
その笑顔を見て、俺も頷いた。
「……はい。すごく」
すると結衣ちゃんが、俺と星莉奈さんの間に割り込んできた。
「ゆいもー!」
「ふふっ。そうね、結衣もね」
「クロブタロウもー!」
「……うん。クロブタロウも」
結衣ちゃんは、俺の手を握った。
もう片方の手で、星莉奈さんの手を握る。
そして、満面の笑みで言った。
「みんな、いっしょ!」
……。
ああ。
そうだね。
まだ、始まったばかりだけど。
俺は、この手を大切にしていきたい。




