↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/50

第33話 これからも、三人で


 五歳の誕生日。


 俺が五歳になった日のことは、正直ほとんど覚えていない。


 どんなプレゼントをもらったのかも、誰と何を食べたのかも、記憶は曖昧だ。


 ただ、誕生日というものが、子どもにとって一年で一番楽しみな日の一つだということくらいは分かる。


 そして今日。


 俺は、その楽しみな日を迎えた女の子の家へ向かっていた。


 手には、ケーキ屋で買った小さな焼き菓子の袋。


 結衣ちゃんへのプレゼントは、もう星莉奈さんの家に隠してある。


 先日の買い物で、星莉奈さんと一緒に選んだお店屋さんセットだ。


 あの日は玄関先で星莉奈さんに預けただけだから、結衣ちゃんに見つかる心配はなかった。


 ……喜んでくれるだろうか。


 あれだけ悩んで選んだのに、いざ渡す日になると、また少し不安になる。


 いや、大丈夫。


 星莉奈さんも、きっと喜ぶって言ってくれた。


 結衣ちゃんは最近、お店屋さんごっこに夢中だし。


 ……うん。


 大丈夫。


 たぶん。


「……俺、どんだけ緊張してるんだ」


 思わず独り言が漏れた。


 今日は結衣ちゃんの誕生日なのに。


 なぜか俺まで、試験を受ける前みたいな気分になっている。


 俺は一度深呼吸をして、インターホンを押した。


*


 ピンポーン。


 その音が鳴ってから、まだ数秒も経っていない。


「つーくーーん!!」


 扉の向こうから、元気な声が聞こえた。


 ……早い。


 足音が近づいてくる。


 そして、星莉奈さんの声。


「結衣、待って。一緒に開けようね」


「はーい!」


 扉が開いた。


「こんにちは、翼くん」


「こんにちは、星莉奈さん」


 星莉奈さんが、やわらかく笑う。


 その隣には、今にも飛び出してきそうな結衣ちゃん。


「つーくん!」


「うわっ」


 結衣ちゃんが勢いよく抱きついてきた。


 慌ててしゃがんで受け止める。


「お、お誕生日おめでとう、結衣ちゃん」


「ありがとー!」


 結衣ちゃんは満面の笑みで、片手を広げた。


「ごさい!」


「うん。五歳だね」


「ごさいになった!」


「おめでとう」


「えへへへ!」


 ……かわいい。


 もう、玄関に入る前からかわいい。


「翼くん、どうぞ上がってください」


「あ、はい。お邪魔します」


 靴を脱いで、玄関に上がる。


 その瞬間、ふと気づいた。


 ……あれ?


 俺、ここに上がるの、初めてじゃないか?


 いや、もちろん家の前までは何度も来ている。結衣ちゃんを送ったこともあるし、先日は誕生日プレゼントを星莉奈さんに預けた。


 でも、こうして家の中に入るのは初めてだ。


 ……待て待て。


 つまり、ここは。


 星莉奈さんの家。


 星莉奈さんが毎日暮らしている場所。


 ……。


 なんか急に緊張してきたんですけど!?


「つーくん、はやくー!」


「あ、うん!」


 結衣ちゃんに手を引かれ、慌てて廊下を進む。


 そして、リビングに足を踏み入れた。


「……おお」


 思わず声が漏れた。


 明るい色のカーテンに、木目の家具。


 窓際には小さな観葉植物が置かれていて、ソファには柔らかそうなクッションが並んでいる。


 棚の一角には、結衣ちゃんの絵本やおもちゃ。


 壁には、結衣ちゃんが描いたらしい絵が飾られていた。


 ……なんだろう。


 すごく、星莉奈さんらしい。


 おしゃれだけど、気取りすぎていなくて。


 あちこちに結衣ちゃんのものがあって、ちゃんと二人が暮らしている感じがする。


「……素敵なお部屋ですね」


 思わずそう言うと、星莉奈さんが少し照れたように笑った。


「ふふっ。ありがとうございます。でも、結衣のおもちゃばっかりですよ?」


「いえ。それも含めて、なんか……いいなって」


「……そうですか?」


「はい。落ち着きます」


 星莉奈さんは、うれしそうに目を細めた。


「……よかった」


 そして、少しだけいたずらっぽく笑う。


「翼くん、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ?」


「……えっ」


「ふふっ。さっきから、きょろきょろしてます」


「い、いや! 別に変なところを見てたわけじゃ……!」


「分かってますよ」


 星莉奈さんが、くすくす笑う。


 ……しまった。


 完全に見抜かれている。


「つーくん!」


 そこへ、結衣ちゃんが割り込んできた。


「これ、ゆいのおうち!」


「うん。素敵なおうちだね」


「こっち、ゆいのおもちゃ!」


「おお、いっぱいあるね」


「こっちはね、クロブタロウのおうち!」


 結衣ちゃんが指さしたのは、ソファの端。


 そこには、小さな毛布が畳んで置かれていた。


「……クロブタロウ、専用の場所があるんだ」


「うん!」


「……いい待遇だね」


 結衣ちゃんは得意げに笑った。


 その様子を見て、星莉奈さんも笑っている。


 ……ああ。


 いいな。


 この家。


 星莉奈さんと結衣ちゃんが、毎日帰ってくる場所。


 その中に、今日だけは俺もいる。


 なんだか少し、不思議な気分だった。


「つーくん! こっち!」


「あ、はい!」


 結衣ちゃんに手を引かれ、俺はリビングの真ん中へ向かった。


 ……感慨に浸るのは、もう少しあとになりそうだ。


 どうやら今日は、結衣店長からさっそく仕事を任されるらしい。


*


 リビングには、まだ飾りつけの途中らしい風船がいくつか置かれていた。


 壁には『HAPPY BIRTHDAY』の文字。


 テーブルの上には、まだ使っていない紙皿やナプキン。


「翼くん、すみません。飾りつけ、少し手伝ってもらってもいいですか?」


「もちろんです」


「よかった。結衣が、翼くんと一緒にやりたいって言ってたので」


「……そうなんですか?」


「はい」


 星莉奈さんが笑う。


「朝から『つーくんまだ?』って、何回も聞かれました」


「……それは、急いで来てよかったです」


「ふふっ」


 すると結衣ちゃんが、俺の手を引いた。


「つーくん! これ!」


 渡されたのは、黄色い風船。


「これ、ここ!」


「……ここ?」


「ちがう! もっと、うえ!」


「あ、上ね」


「もっと!」


「……このへん?」


「うん!」


 俺は言われるがまま、風船を壁に飾った。


 すると、今度はピンクの風船が差し出される。


「つぎ、これ!」


「はい!」


「こっち!」


「はい!」


「もっと、みぎ!」


「はい!」


 ……。


 …………。


 俺、今、完全に部下だな。


 しかも、なかなか厳しい上司の。


「……翼くん」


 キッチンから、星莉奈さんが声をかけてきた。


「はい?」


「ふふっ。頑張ってくださいね」


「……星莉奈さん、助けてください」


「結衣店長の指示は絶対ですから」


「……店長だったんですか」


「うん!」


 結衣ちゃんが胸を張る。


「ゆい、てんちょう!」


 ……そうか。


 じゃあ、仕方ない。


 俺は今日一日、結衣店長の部下として働くことにした。


*


 飾りつけが終わる頃には、部屋がすっかり誕生日らしくなっていた。


 壁の真ん中には『HAPPY BIRTHDAY』の文字。


 その周りに、色とりどりの風船。


 結衣ちゃんは少し離れた場所から、それを眺めている。


「……うん!」


 そして、満足そうにうなずいた。


「できた!」


「……よかった」


 俺は思わず息をついた。


 星莉奈さんが隣に来て、小声で言う。


「お疲れさまでした」


「……なかなか大変でした」


「ふふっ。でも、楽しそうでしたよ?」


「……それは、まあ」


 楽しかった。


 結衣ちゃんが喜んでくれるなら、風船くらい何個でも飾れる。


 ……たぶん。


「つーくん!」


「はい!」


「ありがと!」


 結衣ちゃんが、にこっと笑った。


 ……うん。


 何個でも飾れるな。


*


 夕食の時間になると、テーブルには星莉奈さんの料理がずらりと並んだ。


 ハンバーグ。


 ポテト。


 星形に切られたにんじん。


 彩りのきれいなサラダ。


 どれもおいしそうだ。


「……すごいですね」


「ふふっ。今日は結衣の誕生日ですから」


「でも、これ全部作るの、大変だったんじゃ……」


「大丈夫ですよ。こういうの、好きなので」


 星莉奈さんは、少し照れたように笑った。


 ……本当にすごい人だと思う。


 カフェを切り盛りしながら、結衣ちゃんを育てて。


 こういう特別な日には、こんなにたくさんの料理まで用意して。


 俺なんて、風船を飾っただけで一仕事終えた気になっているのに。


「つーくん!」


「ん?」


「はやく、すわって!」


「あ、はい」


 ……感心している暇はなかった。


 結衣店長から、着席の指示が出た。


 三人で席に着き、手を合わせる。


「いただきまーす!」


 結衣ちゃんは、真っ先にハンバーグを口へ運んだ。


「んんーっ!」


 目を細めて、両足をぱたぱたさせる。


「おいしー!」


「ふふっ。よかった」


 星莉奈さんが笑う。


 俺もハンバーグを一口食べた。


「……おいしい」


「本当ですか?」


「はい。すごく」


「……よかった」


 星莉奈さんが、うれしそうに笑った。


 その顔を見て、俺も自然と笑ってしまう。


 すると結衣ちゃんが、得意げに言った。


「ママのハンバーグ、すごいでしょ!」


「うん。すごいね」


「ゆい、だいすき!」


「俺も好きだよ」


「えへへ!」


 ……ん?


 今の、ハンバーグの話だよな?


 星莉奈さんが、ちらりと俺を見た。


 そして、なぜか少しだけ頬を赤くした。


 ……。


 …………。


 いや。


 俺が好きなのは、もちろんハンバーグもだけど。


 ……この話は、今はやめておこう。


「ゆいね!」


 結衣ちゃんが、フォークを持ったまま宣言した。


「ごさいだから、なんでもできる!」


「おお、すごいね」


「うん!」


 俺は、ふと思いついて聞いてみた。


「じゃあ、ピーマンも食べられる?」


「……」


 結衣ちゃんの動きが止まった。


 星莉奈さんも、こちらを見る。


「……つーくん」


「うん?」


「ピーマンはね」


「うん」


「……ろくさいになってから!」


「……一年延期!?」


 星莉奈さんが吹き出した。


「ふふっ……結衣、六歳になったら本当に食べられる?」


「うん!」


 結衣ちゃんは、迷いなくうなずいた。


 ……。


 …………。


 たぶん来年、また延期するな。


*


 夕食が終わると、いよいよケーキの時間になった。


「ママ! ケーキ!」


「はいはい。ちょっと待っててね」


 星莉奈さんが冷蔵庫へ向かう。


 結衣ちゃんは、椅子の上でそわそわしていた。


「つーくん!」


「うん?」


「ケーキ、いちごあるかな?」


「どうだろうね」


「いっぱいあるかな?」


「……あるといいね」


「ゆい、ぜんぶたべる!」


「……全部?」


「うん!」


 ……俺の分は、ないらしい。


 星莉奈さんが、ケーキを持って戻ってきた。


 白いクリームの上には、真っ赤ないちご。


 真ん中には、チョコレートのプレート。


『ゆいちゃん 5さい おめでとう』


「わあああっ!」


 結衣ちゃんの目が輝いた。


「ゆいのケーキ!」


「そうだよ」


「いちご!」


「ふふっ。ちゃんとあるよ」


 俺は、ろうそくを五本並べるのを手伝った。


 部屋の明かりを少し落として、火をつける。


 小さな炎が、五つ並んだ。


「じゃあ、歌おうか」


「うん!」


 星莉奈さんと目を合わせる。


 そして、二人で歌い始めた。


「ハッピーバースデー、トゥーユー……」


 結衣ちゃんは、ろうそくをじっと見つめていた。


 歌が進むにつれて、口元がどんどん緩んでいく。


 最後の一節を歌い終えると、俺たちは拍手した。


「結衣ちゃん、お誕生日おめでとう!」


「おめでとう、結衣!」


「ありがとー!」


「さ、ろうそく消していいよ」


「うん!」


 結衣ちゃんは、大きく息を吸い込んだ。


「ふうううっ!」


 ……一本だけ消えた。


「……あれ?」


 結衣ちゃんが首をかしげる。


「あと四本だね」


「もっかい!」


「うん、頑張って」


「ふううううっ!」


 今度は二本。


「あと、にほん!」


「そうだね」


「ふうっ!」


 最後の二本も消えた。


「やったあああ!」


 結衣ちゃんが両手を上げる。


 俺と星莉奈さんは、もう一度大きな拍手をした。


「すごいね、結衣!」


「全部消せたね」


「うん!」


 結衣ちゃんは、誇らしげに笑っていた。


 ……よかったな。


 五歳の誕生日。


 こんなにうれしそうな顔を見られるなんて。


 俺まで、幸せな気持ちになってしまう。


*


 ケーキを食べ終えたところで、星莉奈さんと目が合った。


 ……そろそろ、だな。


 星莉奈さんが、小さくうなずく。


 俺は立ち上がった。


「結衣ちゃん」


「なあに?」


「実は、もう一つあるんだけど」


「……もうひとつ?」


「うん。ちょっと待っててね」


 俺は、隣の部屋へ向かった。


 クローゼットの奥に隠してあった、大きな包み。


 先日、星莉奈さんと一緒に選んだプレゼント。


 ……よし。


 俺はそれを抱えて、リビングへ戻った。


「……えっ」


 結衣ちゃんが、目を丸くする。


「結衣ちゃん。お誕生日おめでとう」


 俺は包みを差し出した。


「俺と星莉奈さんからの、プレゼントだよ」


「……ぷれぜんと?」


「うん」


「……ゆいに?」


「もちろん」


 結衣ちゃんの顔が、ぱあっと明るくなった。


「やったああああ!」


 小さな手が、包装紙を一生懸命はがしていく。


 テープがうまく取れなくて、俺が少し手伝って。


 ようやく箱が見えた瞬間。


「……あっ!」


 結衣ちゃんの動きが止まった。


「……おみせやさん!」


「うん」


「レジ! ある!」


「あるね」


「おかねも! ある!」


「うん」


「……これ、ゆいの!?」


 俺は、にっこり笑った。


「結衣ちゃんのだよ」


 次の瞬間。


「やったあああああ!」


 結衣ちゃんが、箱を抱きしめた。


 そして、勢いよく俺に飛びついてきた。


「つーくん! ありがとー!」


「うわっ……!」


 慌てて受け止める。


「どういたしまして。喜んでもらえてよかった」


「ママも! ありがとー!」


 結衣ちゃんは、星莉奈さんにも抱きついた。


 星莉奈さんが、うれしそうに笑っている。


 ……よかった。


 本当に、よかった。


 あんなに悩んだプレゼント。


 結衣ちゃんが、こんなに喜んでくれた。


 その笑顔を見た瞬間、悩んでいた時間まで全部、楽しい思い出に変わった気がした。


*


「いらっしゃいませー!」


 それから、まだ三十分も経っていない。


 なのに、リビングにはもう、新しいお店が開店していた。


 店長は、もちろん結衣ちゃん。


 レジの前に立ち、得意げに胸を張っている。


「つーくん! おきゃくさん!」


「……はい」


 俺は、小さな買い物かごを持った。


「すみません。りんごを一つください」


「はい!」


 結衣ちゃんが、りんごのおもちゃを手に取る。


 ピッ。


 レジから、軽快な音が鳴った。


「ごひゃくえんです!」


「……五百円?」


「はい!」


「りんご一個で?」


「うん!」


 ……高い。


 いや、最近は果物も高いけど。


 それにしたって高い。


 俺は星莉奈さんを見た。


「……星莉奈さん、ちょっと高くないですか?」


「ふふっ。高級りんごなんですよ、きっと」


「……なるほど」


 俺は納得したふりをして、おもちゃのお金を渡した。


「はい、五百円」


「ありがとーございまーす!」


 結衣ちゃんは、お金をレジにしまう。


 そして、今度は星莉奈さんを指さした。


「つぎ、ママ!」


「えっ、私も?」


「うん!」


 星莉奈さんは笑いながら、俺の隣にしゃがんだ。


「じゃあ、パンをください」


「はい!」


 ピッ。


「ひゃくえんです!」


「……あら、お安い」


「ママだから!」


「ふふっ。ありがとう」


 ……待て。


「結衣ちゃん」


「なあに?」


「俺のりんご、五百円だったよね?」


「うん!」


「ママのパンは、百円?」


「うん!」


「……なんで?」


 結衣ちゃんは、少し考えた。


 そして、にっこり笑った。


「つーくんは、とくべつ!」


「……特別料金!?」


 星莉奈さんが、声を上げて笑った。


「ふふふっ……翼くん、特別なんですって!」


「……うれしいような、うれしくないような」


 俺も笑ってしまう。


 すると結衣ちゃんが、ソファへ走っていった。


「つぎはね、クロブタロウ!」


 黒い豚のぬいぐるみを連れてきて、レジの前に座らせる。


「いらっしゃいませー!」


 もちろん、クロブタロウは何も答えない。


 結衣ちゃんは、パンとりんごを並べた。


「ぜんぶで、せんえんです!」


「……クロブタロウのほうが高い」


 俺がぽつりと言うと、星莉奈さんが笑った。


「ふふっ。翼くん、よかったですね」


「……何がですか?」


「特別料金でも、まだお安いほうみたいですよ」


「……そうですね」


 俺たちは、また笑った。


 結衣ちゃんも、何がおかしいのか分からないまま、一緒になって笑っている。


 ……ああ。


 こういう時間、いいな。


 何か特別なことをしているわけじゃない。


 ただ、三人で笑っているだけ。


 それなのに、胸の奥がじんわり温かくなる。


*


 楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。


 お風呂に入って、パジャマに着替えて。


 それでも結衣ちゃんは、まだお店屋さんセットで遊びたそうにしていた。


「ママ、あといっかい!」


「もうおしまいだよ。今日はたくさん遊んだでしょ?」


「……ちょっとだけ」


「また明日遊ぼうね」


「……うー」


 結衣ちゃんは、名残惜しそうにレジを見つめている。


 俺はしゃがんで、声をかけた。


「結衣ちゃん」


「……なあに?」


「明日もお店、開いてる?」


「……うん」


「じゃあ、また買い物に来てもいい?」


 結衣ちゃんの顔が、ぱっと明るくなった。


「いいよ!」


「よかった。楽しみにしてるね」


「うん!」


 ……よし。


 なんとか納得してくれたらしい。


 星莉奈さんが、隣で小さく笑っていた。


「ありがとうございます、翼くん」


「いえ。……明日も高級りんごを買うことになりそうですけど」


「ふふっ。頑張ってください」


 ……財布が持つだろうか。


 もちろん、おもちゃのお金だけど。


 結衣ちゃんはクロブタロウを抱えて、寝室へ向かった。


 今日は俺も泊まっていくことになっている。


 結衣ちゃんにそのことを伝えたときは、ものすごく喜んでくれた。


『つーくん、かえらないの!?』


『うん。今日は泊まっていくよ』


『やったあ!』


 ……あの反応は、正直かなりうれしかった。


「つーくん!」


 寝室へ向かう途中、結衣ちゃんが振り返った。


「おやすみ!」


「おやすみ、結衣ちゃん」


「またあしたね!」


「うん。また明日」


 結衣ちゃんは満足そうに笑って、星莉奈さんと寝室へ入っていった。


 俺は、その背中を見送った。


*


 リビングには、今日の名残がたくさん残っていた。


 壁の飾り。


 風船。


 結衣ちゃんのお店屋さんセット。


 テーブルの端には、ケーキの箱。


 ……にぎやかな一日だったな。


 俺は、使い終わった食器を片づけ始めた。


 星莉奈さんは、今日はずっと動きっぱなしだった。


 料理を作って、結衣ちゃんの相手をして、誕生日会の準備をして。


 せめて、片づけくらいは俺がやっておきたい。


 食器を洗い終えた頃、星莉奈さんが寝室から戻ってきた。


「あっ、翼くん」


「お疲れさまです」


「……えっ、洗い物、終わったんですか?」


「はい」


「すみません。私がやろうと思ってたのに」


「いえ。今日は星莉奈さん、ずっと頑張ってましたから」


「……そんなこと」


「ありますよ」


 俺がそう言うと、星莉奈さんは少し驚いた顔をした。


 それから、ふっと笑う。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


 星莉奈さんは、リビングを見渡した。


「……結衣、すごく楽しそうでしたね」


「はい」


「プレゼントも、あんなに喜んでくれて」


「……よかったです」


 俺は、部屋の隅に置かれたお店屋さんセットを見た。


 レジの中には、おもちゃのお金がぎっしり入っている。


 ……結衣店長、なかなかの商売上手だ。


「翼くん」


「はい?」


「コーヒー、飲みませんか?」


「……いいですね」


「ふふっ。じゃあ、淹れてきますね」


 星莉奈さんがキッチンへ向かう。


 俺はソファに腰を下ろした。


 しばらくすると、コーヒーのいい香りが漂ってきた。


 ……落ち着くな。


 さっきまで結衣ちゃんの声でいっぱいだった部屋が、今はすっかり静かになっている。


 時計の針の音が、かすかに聞こえた。


「お待たせしました」


 星莉奈さんが、カップを二つ持って戻ってきた。


「ありがとうございます」


「ふふっ。どうぞ」


 俺の隣に腰を下ろす星莉奈さん。


 俺はコーヒーを一口飲んだ。


「……おいしい」


「よかった」


 星莉奈さんも、ゆっくりとカップを口に運ぶ。


 しばらく、二人で静かにコーヒーを飲んだ。


 ……こういう時間も、好きだ。


 結衣ちゃんと三人で笑っている時間とは、また違う。


 星莉奈さんと二人で、何でもない話をする時間。


 今日あったことを振り返ったり、結衣ちゃんの面白かった言葉を思い出したり。


 それだけで、十分楽しい。


「……翼くん」


「はい?」


「今日は、本当にありがとうございました」


「……またですか?」


「え?」


「今日、何回も言ってますよ」


 俺が笑うと、星莉奈さんもくすっと笑った。


「……だって、うれしかったんです」


「……」


「結衣があんなに喜んでくれて。翼くんも、楽しそうで」


 星莉奈さんは、カップを両手で包んだ。


「……私まで、すごく幸せになっちゃいました」


 ……。


 …………。


 いや。


 そういうことを、そんな顔で言うのは反則だと思う。


「……俺も、幸せでした」


「……ほんとですか?」


「はい。結衣ちゃんの誕生日、一緒にお祝いできて」


 俺は、少し照れくさくなりながら続けた。


「……来年も、楽しみですね」


 星莉奈さんが、少し目を見開いた。


 それから、やわらかく笑った。


「……はい」


 その笑顔を見て、俺も自然と笑ってしまう。


 すると。


 こてん。


「……っ」


 星莉奈さんが、俺の肩に頭を預けてきた。


 ……。


 …………。


 ち、近い。


 いや、付き合ってるんだから、これくらい普通だ。


 普通、なんだけど。


 ……やっぱり、まだ慣れない。


「……翼くん」


「は、はい」


「……こういう時間、いいですね」


「……そうですね」


「結衣が寝てから、こうしてコーヒーを飲んで……」


「はい」


「今日あったことを話したり、何でもないことで笑ったり」


 星莉奈さんの声は、いつもより少し小さかった。


「……こんな時間が、毎日あったらいいのにな」


 ……毎日。


 その言葉が、妙に心に残った。


 俺も、そう思う。


 星莉奈さんと結衣ちゃんに会える日は、いつも楽しみだ。


 でも、帰る時間になると、少しだけ寂しくなる。


 もっと一緒にいられたら。


 そんなことを、考えたことは何度もあった。


「……俺も、そう思います」


 素直に答えると、星莉奈さんが少しだけ顔を上げた。


「……ほんとですか?」


「はい」


「……そっか」


 星莉奈さんは、うれしそうに笑った。


 そして、少しだけ黙った。


 ……ん?


 何か、言いたそうだ。


「……星莉奈さん?」


「……あの、翼くん」


「はい?」


 星莉奈さんが、俺の袖をきゅっとつまんだ。


 ……え。


 何その仕草。


「……その」


「……はい」


「……これからも、ずっと一緒にいられたらなって……」


「……はい」


「……結衣と、私と……三人で……」


 星莉奈さんは、ちらりと俺を見上げた。


 頬が赤い。


 耳まで赤い。


 いつもの落ち着いた笑顔は、どこにもない。


「……一緒に、住んだり……」


 そこで一度、言葉を止める。


 そして、俺の袖をつまむ指に、ほんの少し力がこもった。


「……だ、だめ……ですか?」


 …………。


 ………………。


 **か、かわいすぎるうううううううっ!!**


 なんだ今の!?


 何その上目遣い!?


 何その控えめなお願いの仕方!?


 いや、待て。


 落ち着け、俺。


 今、ものすごく大事なことを言われている。


 ここで変な反応をしたら、一生後悔するぞ。


「……つ、翼くん?」


 心配そうに覗き込んでくる星莉奈さん。


 **追撃やめてください!!**


 ……いや、違う。


 やめなくていい。


 むしろ、ずっと見ていたい。


 って、何考えてるんだ俺は!


「……だめ、でしょうか……?」


 **二回目えええええっ!?**


 無理だ。


 こんなの、断れるわけがない。


 というか。


 **俺のほうからお願いしたいくらいなんですけど!?**


「……俺も、一緒に暮らしたいです」


「……ほ、ほんとですか?」


「はい。星莉奈さんと、結衣ちゃんと」


 俺は、まっすぐに答えた。


「……二人と、もっと一緒にいたいです」


 すると、星莉奈さんは、ぱあっと表情を明るくした。


「……よかったぁ」


 そう言って、俺の肩にこてんと頭を預けてくる。


 …………。


 **ああああああああっ!!**


 もう、だめだ。


 俺、この人のこと、一生好きなんじゃないだろうか。


「……翼くん」


「……はい?」


「……うれしいです」


「……俺もです」


 星莉奈さんが、そっと俺の手を握った。


 俺も、その手を握り返す。


 ……温かい。


 少しだけ、どきどきしている。


 でも、それ以上に。


 すごく、うれしかった。


「……これから、いろいろ考えないとですね」


 星莉奈さんが、小さく笑った。


「……そうですね」


「結衣のことも、生活のことも」


「はい」


 俺は、星莉奈さんの手をもう一度握り直した。


「……一緒に考えましょう」


「……はい」


 星莉奈さんが、うれしそうに笑う。


 その笑顔を見て、俺も笑った。


 今すぐ何もかも決めなくていい。


 結衣ちゃんの気持ちも、ちゃんと聞いて。


 三人にとって、いちばんいい形を探していけばいい。


 ……それにしても。


 俺が、星莉奈さんと結衣ちゃんと一緒に暮らす。


 朝起きたら、二人がいて。


 結衣ちゃんが元気に「おはよう!」って言って。


 夜になったら、今日みたいにソファに並んでコーヒーを飲む。


 ……そんな毎日。


 想像しただけで、頬が緩む。


「……翼くん?」


「……はい?」


「……何か、うれしそうですね」


「……えっ」


 星莉奈さんが、くすくす笑う。


「ふふっ。顔に出てますよ」


「……そんなにですか?」


「はい」


 ……まずい。


 完全に顔に出ていたらしい。


「……星莉奈さんだって、うれしそうですよ」


「……え?」


「……顔に出てます」


 俺がそう言うと、星莉奈さんは少し驚いた顔をした。


 それから、照れたように笑った。


「……だって、うれしいですもん」


 …………。


 **か、かわいい……!**


 ……もう、何回目だろう。


 今日だけで、何回好きになったんだろう。


 俺は、もう数えるのをやめた。


「……翼くん」


「はい?」


「……今日は、もう少しこうしててもいいですか?」


 星莉奈さんが、俺の肩に頭を預けたまま聞いてくる。


 ……もちろん。


 むしろ、こちらからお願いしたい。


「……はい。もちろんです」


「……ふふっ」


 星莉奈さんが、小さく笑った。


 俺たちは、そのまましばらくソファに座っていた。


 テーブルの上では、二人分のコーヒーが少しずつ冷めていく。


 壁には、今日飾った誕生日の飾り。


 部屋の隅には、結衣ちゃんのお店屋さんセット。


 寝室からは、何も聞こえない。


 きっと、結衣ちゃんはぐっすり眠っている。


 五歳の誕生日。


 あの子にとって、楽しい一日になっただろうか。


 ……きっと、なったと思う。


 そして俺にとっても。


 今日という日は、忘れられない一日になった。


 星莉奈さんが、そっと俺の手を握り直す。


 俺も、その手を握り返した。


 ……これから、三人で。


 そんな毎日が始まるのかもしれない。


 そう思うと、胸の奥が温かくなった。


 ……でも。


 今は、もう少しだけ。


 この人の隣で、こうしていたい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。