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第32話 五歳になる君へ


 五歳。


 それは、どれくらい大きな数字なんだろう。


 俺が五歳だった頃のことなんて、正直ほとんど覚えていない。


 覚えているのは、誕生日のケーキに刺さったろうそくを、なかなか一息で消せなかったことくらいだ。


 それなのに、今の俺はその数字を前にして、朝から頭を悩ませていた。


「……五歳か」


 スマートフォンの画面には、子ども向けのおもちゃがずらりと並んでいる。


 人形、ぬいぐるみ、ブロック、お絵描きセット。


 どれも楽しそうに見える。


 問題は、俺が楽しいかどうかじゃない。


 結衣ちゃんが喜んでくれるかどうかだ。


「……分からん」


 思わず独り言が漏れた。


 今日は星莉奈さんと買い物に行く約束をしている。


 もうすぐ五歳になる結衣ちゃんへの、誕生日プレゼントを探すためだ。


 結衣ちゃんは保育園。


 星莉奈さんのお店『リアン』も、今日は定休日。


 つまり、二人きりで出かけられる貴重な日でもある。


 ……なのに。


「デートの前に、おもちゃの勉強してる男ってどうなんだ……?」


 我ながら少しおかしい。


 でも、仕方ない。


 結衣ちゃんの誕生日なのだから。


 俺はスマートフォンをポケットにしまい、家を出た。


     ◇


「翼くん!」


 待ち合わせ場所に着くと、聞き慣れた声がした。


 振り向いた先で、星莉奈さんが小さく手を振っている。


 淡い色のブラウスに、落ち着いた雰囲気のロングスカート。


 いつもカフェで見るエプロン姿とは違う、休日の星莉奈さん。


 ……何度見ても、慣れない。


「おはようございます、星莉奈さん」


「おはようございます。ふふっ、今日は早いですね」


「……ちょっと、楽しみだったので」


「結衣のプレゼント選びが?」


「それも、ですけど」


「……?」


 星莉奈さんが首をかしげる。


 俺は一度だけ視線をそらしてから、言った。


「星莉奈さんと出かけられるのも、楽しみでした」


「……っ」


 星莉奈さんの頬が、みるみる赤くなる。


「……翼くん」


「はい」


「そういうこと、最近さらっと言いますよね」


「えっ。いや、そんなつもりじゃ……」


「……もう」


 そう言いながら、星莉奈さんは俺の隣に並んだ。


 そして、そっと俺の手に触れる。


「……行きましょうか」


「……はい」


 指を絡める。


 それだけで、今日が少しいい日になる気がした。


     ◇


 ショッピングモールのおもちゃ売り場は、想像以上に広かった。


「……すごいですね」


「ふふっ。翼くん、初めて来ました?」


「こんなに真剣に見たのは初めてです」


 棚には色とりどりのおもちゃが並んでいる。


 最近のおもちゃは、光るし、しゃべるし、歌う。


 俺が子どもの頃に遊んでいたものとは、ずいぶん違う。


「結衣ちゃん、今は何が好きなんですか?」


「うーん。ぬいぐるみも好きですし、お絵描きもしますし……最近はおままごとが多いですね」


「おままごと……」


「保育園でも、お友達とお店屋さんごっこをしているみたいです」


「なるほど」


 俺は真剣にうなずいた。


「……翼くん?」


「はい」


「なんだか、お仕事の打ち合わせみたいな顔してますよ」


「えっ」


「ふふっ。そんなに難しく考えなくても大丈夫です」


「いや、でも……せっかくの誕生日ですし」


 適当に選びたくはなかった。


 結衣ちゃんは、いつも全力で笑う。


 楽しいときは、全身で楽しいと伝えてくれる。


 だからこそ、あの子が箱を開けた瞬間に、どんな顔をするのか。


 それを想像すると、どうしても慎重になる。


「……翼くんらしいですね」


 星莉奈さんが、やわらかく笑った。


「でも、今日は一緒に選びましょう?」


「……はい」


 俺たちは並んで売り場を歩き始めた。


 まず目に入ったのは、かわいらしい人形のコーナーだった。


「これ、結衣ちゃん好きそうじゃないですか?」


「かわいいですね。でも結衣、お人形は何体か持ってるんですよ」


「そうなんですか」


「はい。たまにクロブタロウが、お人形たちのお父さん役になってます」


「……クロブタロウが?」


「そうなんです」


 俺は思わず、その光景を想像した。


 黒い豚のぬいぐるみが、人形たちのお父さん。


 ……なかなか個性的な家庭だ。


「ちなみに、クロブタロウはちゃんとお父さんできてるんですか?」


「この前は、結衣に『おしごといって!』って怒られてました」


「厳しい……」


「ふふっ」


 そんな話をしながら、次の棚へ移動する。


 お絵描きセット。


 子ども向けのキーボード。


 組み立てるタイプのおもちゃ。


 どれも悪くない。


 でも、何か決め手が足りなかった。


「……うーん」


「翼くん、眉間にしわが寄ってます」


「……すみません」


「謝らなくてもいいですけど」


 星莉奈さんが、くすくす笑う。


「ちょっと、向こうの雑貨も見てきていいですか?」


「あ、はい。俺はもう少しここを見てます」


「分かりました。すぐ戻りますね」


 そう言って、星莉奈さんは隣の売り場へ向かった。


 俺は改めて、おもちゃの棚を眺める。


 ……何がいいんだろう。


 結衣ちゃんが遊んでいるところを思い浮かべてみる。


 クロブタロウを抱えて走ってきたり。


 俺に突然、おままごとの料理を差し出してきたり。


 この前なんて、積み木をいくつも並べて、俺にこう言っていた。


『つーくん、ここでおかいものして!』


 俺が積み木を一つ手に取ると、


『はい、ひゃくえんでーす!』


 と、得意げに手を差し出してきた。


 ……あれ?


 そこで、ふと足が止まった。


 目の前にあったのは、カラフルなお店屋さんセットだった。


 小さなレジ。


 商品を入れるかご。


 野菜や果物、パンのおもちゃ。


 バーコードを読み取るような機械までついている。


「……これ」


 俺は箱を手に取った。


 パッケージには、楽しそうにお店屋さんごっこをする子どもの写真が載っている。


 レジのボタンを押すと音が鳴るらしい。


 おもちゃのお金もついている。


「……結衣ちゃん、好きそうだな」


 そうつぶやいたところで、背後から声がした。


「何か見つかりました?」


「あ、星莉奈さん」


 戻ってきた星莉奈さんに、箱を見せる。


「これ、どうですか?」


「……あっ」


 星莉奈さんが、目を丸くした。


「お店屋さんセットですね」


「はい。前に結衣ちゃんと積み木でお買い物ごっこをしたのを思い出して」


「……覚えてたんですね」


「え?」


「結衣、あの日すごく楽しそうでしたもんね」


 星莉奈さんは箱を覗き込んだ。


「最近、家でもよくお店屋さんを開いてるんですよ。これなら、きっと喜ぶと思います」


「……本当ですか?」


「はい」


 その返事に、胸の奥が少し軽くなる。


「じゃあ、これに……」


 言いかけて、隣の棚が目に入った。


 そこにも、別のお店屋さんセットが並んでいる。


 こちらはレジが少し大きい。


 しかも、マイクがついていた。


「……待ってください」


「え?」


「こっちは店内放送ができるみたいです」


「……店内放送?」


「『本日はご来店ありがとうございます』って言えるらしくて」


「ふふっ。楽しそうですね」


「でも、さっきのほうが商品が多いんですよね……」


「……翼くん?」


「こっちはレジが光るし……いや、でも結衣ちゃん、商品を並べるほうが好きかな……」


「翼くん」


「はい?」


 振り向くと、星莉奈さんが笑いをこらえていた。


「……まだ悩むんですか?」


「……すみません」


 結局、俺たちはそのあと十五分ほど悩んだ。


     ◇


 昼食は、モールの中にある洋食屋で取ることにした。


 プレゼントは無事に購入できた。


 選んだのは、最初に見つけたお店屋さんセット。


 レジと商品が一通りそろっていて、結衣ちゃんが好きなようにお店を開けそうだった。


 大きな袋は、今は俺の足元に置いてある。


「……よかったですね、決まって」


「はい。正直、もう少し時間がかかるかと思いました」


「十分かかってましたよ?」


「……ですよね」


 星莉奈さんが笑う。


 俺もつられて笑った。


 料理が運ばれてくるまでの間、星莉奈さんは水を一口飲んでから、ふと思い出したように言った。


「そういえば、最近の結衣なんですけど」


「はい」


「朝になると、よく聞くんですよ」


「何をですか?」


「『きょう、つーくんくる?』って」


「……え」


 思わず顔を上げた。


「俺のこと、ですか?」


「ほかに『つーくん』がいたら困りますね」


「……それは、そうですけど」


「ふふっ」


 星莉奈さんは楽しそうに笑った。


「来るって言うと、すごく喜ぶんです。来ないって言うと、『そっかぁ』って、ちょっと残念そうにして」


「……そうなんですね」


 胸の奥が、じんわり温かくなる。


 結衣ちゃんと過ごす時間は、俺にとっても楽しい。


 でも、あの子も同じように思ってくれているなら。


 ……それは、かなりうれしい。


「……俺も、結衣ちゃんに会える日は楽しみです」


「そう言ってもらえるとうれしいです」


 星莉奈さんは、少しだけ視線を落とした。


「……私も」


「え?」


「……翼くんが来ない日は、ちょっと寂しかったりします」


 小さな声だった。


 でも、ちゃんと聞こえた。


「……星莉奈さん」


「……なんですか?」


「俺もです」


「……っ」


 星莉奈さんが顔を上げる。


「……そういうところですよ、翼くん」


「えっ。何がですか?」


「……なんでもありません」


 そう言いながら、口元は笑っていた。


 やがて料理が運ばれてきて、俺たちは食事を始めた。


 結衣ちゃんの好きな食べ物の話。


 保育園であった面白い出来事。


 最近、星莉奈さんが試作しているカフェの新メニュー。


 話題は次々に変わった。


 気づけば、俺たちは結衣ちゃんの話ばかりしていた。


 ……いや、正確には。


 星莉奈さんと結衣ちゃんの話をするのが、楽しかった。


 食後のコーヒーが運ばれてきた頃、星莉奈さんがふっと笑った。


「……なんだか、今日って不思議ですね」


「不思議?」


「結衣のプレゼントを買いに来たのに、こうして翼くんとデートもできて」


「……そうですね」


「一日で二つ、楽しいことがあるみたいです」


 星莉奈さんが、うれしそうにカップを持ち上げる。


 俺は少し考えてから、言った。


「……俺は、三つです」


「え?」


「結衣ちゃんのプレゼントを選べたことと、星莉奈さんとデートできたことと……」


「……あと一つは?」


「誕生日に結衣ちゃんが喜ぶところを、これから見られることです」


 星莉奈さんは、一瞬きょとんとした。


 それから、声を立てて笑った。


「ふふっ……それ、まだ先のことですよ?」


「……あ、確かに」


「もう楽しみにしてるんですね」


「……はい」


 少し恥ずかしくなって、コーヒーを口に運ぶ。


 星莉奈さんは、そんな俺をしばらく見つめていた。


「……翼くん」


「はい?」


「ありがとうございます」


「……何がですか?」


「結衣のこと、こんなに大切に思ってくれて」


 その言葉に、俺はカップを置いた。


「……俺が、そうしたいだけですから」


「……はい」


 星莉奈さんは、やさしく微笑んだ。


「それが、うれしいんです」


 ……困った。


 そんな顔をされると、何を返せばいいのか分からなくなる。


 俺はごまかすように、もう一口コーヒーを飲んだ。


     ◇


 夕方。


 俺たちは結衣ちゃんの保育園へ向かった。


 プレゼントの袋は、結衣ちゃんに見つからないように、いったん星莉奈さんの家へ置いてきた。


 玄関先で星莉奈さんが、


『見つからないところに隠しておきますね』


 と言っていたけれど。


 あの大きさの箱を、いったいどこに隠したんだろう。


 ……少し気になる。


「ママー!」


 保育園の門をくぐると、元気な声が飛んできた。


 結衣ちゃんが、こちらへ駆け寄ってくる。


「つーくん!」


「こんにちは、結衣ちゃん」


「きょうね! もえちゃんと、さきちゃんとね!」


 挨拶もそこそこに、結衣ちゃんの報告が始まった。


「おみせやさんしたの!」


「おお、そうなんだ」


「ゆい、てんちょうさんだった!」


「店長さん?」


「うん! いらっしゃいませー! って!」


 結衣ちゃんは、その場で両手を広げた。


「もえちゃんがね、おきゃくさんで、さきちゃんがおかねくれたの!」


「へえ。何を売ったの?」


「ケーキ!」


「ケーキ屋さんだったんだ」


「うん! でもね、もえちゃんがぜんぶかっちゃった!」


「……全部?」


「うん!」


 結衣ちゃんは、なぜか得意げだった。


 俺は星莉奈さんと顔を見合わせる。


 ……今日買ったプレゼント。


 思った以上に、ぴったりだったかもしれない。


「それでね、つーくん!」


「うん?」


「ゆい、もうすぐごさい!」


「知ってるよ」


「ごさいになったらね、もっとおっきくなるんだよ!」


「そうだね」


「そしたら、つーくんよりおっきくなる?」


「……それは、どうだろう」


「なるよ!」


 即答だった。


 星莉奈さんが吹き出す。


「ふふっ。結衣、五歳になっただけじゃ、そんなに急には大きくならないよ?」


「えー!」


 結衣ちゃんは不満そうに頬を膨らませた。


「じゃあ、ろくさい!」


「……六歳でも、まだ俺のほうが大きいかな」


「じゃあ、ななさい!」


「……うーん」


「はっさい!」


 結衣ちゃんの勢いは止まらない。


 俺が困っていると、星莉奈さんが笑いながら助け舟を出してくれた。


「結衣。大きくなるのもいいけど、まずは五歳のお誕生日を楽しみにしようね」


「……うん!」


 結衣ちゃんはすぐに笑顔になった。


「ねえ、ママ!」


「なあに?」


「おたんじょうび、つーくんもくる?」


 星莉奈さんが、俺を見る。


 俺は結衣ちゃんの目線に合わせて、少しかがんだ。


「もちろん。俺も一緒にお祝いしていい?」


「いいよ!」


 結衣ちゃんは満面の笑みで答えた。


「つーくん、ケーキたべていいよ!」


「……ありがとう」


「でもね!」


「うん?」


「いちごは、ゆいの!」


「……全部?」


「ぜんぶ!」


 ……なるほど。


 五歳の誕生日会には、厳しいルールがあるらしい。


 俺がうなずくと、結衣ちゃんは満足そうに笑った。


「じゃあ、かえろ!」


 **右手を俺に。左手を星莉奈さんに。**


 いつものように、結衣ちゃんが両手を差し出す。


 俺たちは、その小さな手を握った。


     ◇


 帰り道。


 結衣ちゃんは、保育園であったことをずっと話していた。


 もえちゃんがケーキを買いすぎた話。


 さきちゃんがお金を数えていた話。


 爽太くんが恐竜になって走っていた話。


 その一つ一つに、星莉奈さんが相づちを打つ。


 俺も、ときどき質問をする。


 すると結衣ちゃんは、ますます楽しそうに話し始める。


「……ねえ、つーくん」


「うん?」


「ゆいのおたんじょうび、たのしみ?」


「うん。すごく楽しみだよ」


「ゆいも!」


 結衣ちゃんは、つないだ手をぶんぶん振った。


「はやく、ごさいになりたーい!」


「ふふっ。あと少しだよ」


 星莉奈さんが笑う。


 俺も、つられて笑った。


 五歳になることが、こんなにも楽しみだった時期が、俺にもあったんだろうか。


 きっと、あったんだと思う。


 でも今は、自分の誕生日よりも。


 この小さな女の子が、五歳になる日のほうが楽しみだった。


「……翼くん」


 不意に、星莉奈さんが俺を呼んだ。


「はい?」


「今日は、ありがとうございました」


「……こちらこそ。楽しかったです」


「……私もです」


 結衣ちゃんには聞こえないくらいの声で、星莉奈さんが続ける。


「……誕生日、楽しみですね」


「……はい」


 俺たちは、小さく笑い合った。


 その間にも、結衣ちゃんは元気よく歩いている。


「ママ! つーくん!」


「なあに?」


「ごさいになったら、ゆい、もっとすごくなるからね!」


「……もっと?」


「うん!」


 結衣ちゃんは胸を張った。


「すっごい、おねえさんになる!」


 俺と星莉奈さんは、顔を見合わせた。


 そして、同時に笑った。


 ……そうだね。


 きっと、もっとすごくなる。


 でも、今はまだ。


 四歳の結衣ちゃんと、こうして手をつないで歩いていたい。


 五歳の誕生日まで、あと少し。


 俺たちの秘密のプレゼントが、あの子の笑顔につながりますように。


 そんなことを思いながら、俺は結衣ちゃんの小さな手を、そっと握り返した。


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