第30話「いつも通り、のはずなのに」
――田中舞視点――
「……よしっ!」
鏡の前で、私はひとつ頷いた。
いつものポニーテール。
いつもの仕事着。
いつもの私。
うん。今日もばっちり。
……の、はずなんだけど。
「…………」
鏡に映った自分を、もう一度見る。
前髪を少し直してみる。
右に流して。
やっぱり戻して。
「……何やってんだろ、私」
思わず笑ってしまった。
別に、今日が特別な日ってわけじゃない。
デートでもないし、誰かと約束してるわけでもない。
ただ、いつも通り『リアン』で働くだけ。
それなのに。
「……悠人さん、今日も来るかな」
口に出した瞬間、顔が熱くなった。
「うわっ!」
私は慌てて両手で頬を押さえた。
何を一人で言ってるんだろう。
いや、だって。
あんなことがあったあとだし。
……仕方ないじゃん。
***
数日前。
あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
知らない男の人に腕をつかまれて。
怖くて、どうしたらいいかわからなくなって。
そこに、悠人さんが来てくれた。
普段は穏やかで、落ち着いていて。
誰に対しても余裕のある笑顔を見せる人。
そんな悠人さんが、あんなに怒るなんて。
本当に、びっくりした。
あのときの声。
あのときの表情。
思い出すと、今でも胸がどきっとする。
でも。
怖かったのは、あの男の人のほう。
悠人さんじゃない。
悠人さんが来てくれたとき、私は心からほっとした。
それから、車で保育園まで送ってもらって。
爽太を迎えに行って。
そのまま、うちで一緒に晩ごはんを食べた。
照り焼きチキン。
悠人さん、おいしいって言ってくれたっけ。
……あ。
そういえば。
「今日の悠人さん、かっこよかったですよ」
私、そんなことも言った。
あのとき、悠人さんの顔が少し赤くなって。
いつもは何を言っても余裕そうなのに、珍しく照れていた。
……ふふ。
ちょっと可愛かったな。
「……って、だから!」
私は一人で首を振った。
朝から何を思い出してるの、私!
仕事、仕事!
今日は忙しいんだから!
***
「おはようございまーす!」
『リアン』の扉を開けると、コーヒーのいい香りがした。
「おはよう、舞ちゃん」
カウンターの向こうで、星莉奈さんが微笑んでいる。
今日も綺麗だなあ。
白っぽい灰色の髪が、朝の光でふわっと輝いている。
「おはようございます、星莉奈さん!」
「ふふ。今日も元気ね」
「元気だけが取り柄ですから!」
「そんなことないと思うけど」
星莉奈さんは笑いながら、カップを並べていた。
私はエプロンをつけて、いつもの場所に立つ。
「今日は朝からお客さん多そうですね」
「そうね。お昼前に予約も入ってるし」
「了解です! 頑張りましょう!」
「よろしくね」
いつもの会話。
いつものお店。
いつもの朝。
……うん。
やっぱり、仕事してると落ち着く。
そう思った、そのときだった。
「そういえば、舞ちゃん」
「はい?」
「今日、髪の結び方ちょっと違う?」
「えっ」
私は思わずポニーテールに手を伸ばした。
「そ、そうですか?」
「いつもより少し高いかなって」
「あー……そうかもしれません!」
「似合ってるよ」
「ありがとうございます!」
星莉奈さんは、にこっと笑った。
「何かいいことあった?」
「えっ!?」
声が裏返った。
星莉奈さんが、ぱちぱちと瞬きをする。
「……舞ちゃん?」
「な、何でもないです!」
「まだ何も聞いてないけど」
「ですよね!」
あははは、と笑ってごまかした。
……危ない。
危なすぎる。
星莉奈さん、こういうところ鋭いんだから。
***
お昼を少し過ぎたころ。
店内の混雑が、ようやく落ち着いてきた。
私はテーブルを拭きながら、ほっと息をつく。
「ふう……」
「舞ちゃん、少し休憩していいよ」
星莉奈さんが声をかけてくれた。
「ありがとうございます! じゃあ、これだけ片づけたら――」
カラン。
入り口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
反射的に顔を上げる。
そして。
「あ」
扉の向こうにいたのは。
「こんにちは」
一ノ瀬悠人さんだった。
今日も、きちんとした服装。
さらっと整えた髪。
いつも通りの、穏やかな笑顔。
……なのに。
「……あ、悠人さん!」
なんでだろう。
声が、ちょっと大きくなった。
「こんにちは、舞ちゃん」
「こ、こんにちは!」
……二回言った。
私、今、二回こんにちはって言った。
悠人さんが、少しだけ目を丸くする。
「……元気だね」
「はい! 元気です!」
元気です、じゃない!
普通に返事して、私!
「ふふ。いつもの席、空いてますよ」
星莉奈さんが助け舟を出してくれた。
「ありがとうございます、橘さん」
悠人さんは軽く会釈して、カウンター席へ向かう。
私は、その背中を目で追ってしまった。
……あ。
見てた。
今、完全に見てた。
「舞ちゃん?」
「はいっ!」
「お水、お願いしてもいい?」
「もちろんです!」
私は慌ててグラスを手に取った。
***
「どうぞ!」
「ありがとう」
悠人さんの前に、水を置く。
「今日はお仕事、お休みですか?」
「いや。近くで打ち合わせがあってね。少し時間ができたから」
「そうなんですね」
「舞ちゃんは、忙しかった?」
「もう、すっごく! お昼なんて大変だったんですよ!」
「そっか。お疲れさま」
「ありがとうございます!」
……あれ?
普通に話せてる。
さっきまで、あんなに変だったのに。
悠人さんと話していると、やっぱり楽しい。
仕事の話を聞いたり。
爽太の最近のいたずらを話したり。
いつもと同じ。
「そういえば、爽太くんは元気?」
「元気すぎるくらいですよ! この前なんて、お風呂で恐竜ごっこ始めちゃって」
「はは。想像できるな」
「湯船から出てくるときに『きょうりゅう、じょうりく!』って叫ぶんですよ」
「それは賑やかだ」
「しかも、私が『早くパジャマ着なさい!』って言ったら、『きょうりゅうはふくきない!』ですって」
悠人さんが、声を出して笑った。
「あははっ。それは手強いね」
「でしょ!?」
その笑顔を見て、私もつられて笑った。
……うん。
やっぱり、いつもの悠人さんだ。
そう思った、そのとき。
「それで、舞ちゃん」
「はい?」
悠人さんが、ふっとこちらに顔を向けた。
真っすぐに、私を見る。
その目を見た瞬間。
――『……その手、離せよ』
頭の中に、あの日の声が響いた。
「…………っ」
息が、止まった。
腕をつかまれて、動けなかった私。
そこに現れた悠人さん。
普段の穏やかな笑顔なんて、どこにもなくて。
男の人を鋭く睨みつけていた。
低い声。
怒った表情。
あんな悠人さん、初めて見た。
……かっこよかった。
「……舞ちゃん?」
「……えっ!?」
はっと我に返る。
目の前には、いつもの悠人さん。
少し心配そうに、私を見ていた。
「大丈夫? 急に黙ったから」
「だ、大丈夫です!」
「そう?」
「はい!」
……うわあ。
何、今の。
何で、急に思い出しちゃったの!?
私は慌てて視線を落とした。
頬が熱い。
絶対、赤くなってる。
「……舞ちゃん?」
「な、何でもないですから!」
悠人さんが、少しだけ首をかしげる。
……もう。
そんな優しい顔しないでくださいよ。
さっきまで、あんな怖い顔を思い出してたのに。
今は、こんなに穏やかで。
……ずるい。
本当に、ずるい人だ。
***
「そうだ、舞ちゃん」
悠人さんが、ふと私の髪を見た。
「今日、髪留め違う?」
「えっ?」
私はポニーテールに手を伸ばした。
「あ、はい。ちょっと新しいのにしてみたんです」
「そうなんだ」
悠人さんは、少しだけ微笑んだ。
「似合ってるね」
「…………」
……え?
今。
何て?
「……舞ちゃん?」
「……あっ!」
私は、はっとした。
「あ、ありがとうございます!」
声が、また大きくなった。
悠人さんが、ちょっと驚いた顔をする。
「あ、ごめん。急に変なこと言った?」
「い、いえ! 全然!」
むしろ。
むしろ、もっと言ってほしいくらいです!
……なんて。
言えるわけない。
「……その」
悠人さんが、珍しく言葉を探すように視線を落とした。
「いつもと雰囲気が違ったから」
「……そうですか?」
「うん」
それだけ言って、コーヒーに口をつける。
……あれ?
今、悠人さん。
ちょっと照れてる?
気のせいかな。
いつもだったら、もっとさらっと褒めてくれるのに。
私は、なんとなく嬉しくなった。
「……ありがとうございます」
今度は、小さな声で言った。
悠人さんが、こちらを見る。
「……うん」
目が合った。
一秒。
二秒。
……あ。
なんか、恥ずかしい。
私は慌てて、空になったお皿を手に取った。
「じゃ、じゃあ! お仕事戻りますね!」
「うん。頑張って」
「はい!」
私は、そそくさとカウンターの奥へ戻った。
……心臓、うるさい。
***
「舞ちゃん」
「はいっ!」
星莉奈さんが、私の顔を覗き込んでいた。
「……顔、赤いよ?」
「えっ!?」
私は両手で頬を押さえた。
あつい。
確かに、あつい。
「そ、そうですか?」
「うん」
星莉奈さんは、にっこり笑った。
「熱でもある?」
「ないです! 元気です!」
「そう?」
「はい!」
……絶対、何か気づいてる。
星莉奈さん、笑い方がいつもと違うもん。
「ふふ。じゃあ、無理しないでね」
「は、はい……」
私は、小さく息を吐いた。
……もう。
好きな人がいるって、こんなに大変だったっけ。
***
夕方。
お店の片づけが、ひと段落したころ。
悠人さんが、まだカウンターに座っていた。
途中で仕事の電話をしていたけれど、今はノートパソコンを閉じている。
私は時計を見た。
そろそろ、爽太のお迎えに行く時間。
「星莉奈さん、じゃあ私、そろそろ……」
「うん。お疲れさま、舞ちゃん」
「お疲れさまでした!」
エプロンを外して、バッグを持つ。
すると。
「舞ちゃん」
悠人さんが、声をかけてきた。
「はい?」
「そういえばさ」
「はい」
「ハンバーグ、今度の休みはどう?」
「あっ!」
私は、ぱっと顔を上げた。
「いいですね!」
悠人さんが、少し笑う。
「予定、大丈夫そう?」
「はい! 爽太も絶対喜びますよ!」
「じゃあ、決まりだね」
「はい!」
……嬉しい。
すっごく、嬉しい。
爽太と悠人さんと、三人でお出かけ。
前から楽しみにしていたけれど。
こうして日にちが決まると、なんだか急に実感が湧いてきた。
「……あの」
「ん?」
「悠人さん」
「うん?」
私は、ちょっとだけ首をかしげた。
「……なんか、今日、ちょっと変じゃないですか?」
「えっ」
悠人さんが、珍しく固まった。
……あ。
やっぱり。
「いつもより、なんていうか……」
何だろう。
うまく言えない。
優しいのは、いつも通り。
笑ってくれるのも、いつも通り。
でも。
「……ちょっと、落ち着かない感じ?」
悠人さんが、目を瞬かせた。
「……そう?」
「ふふ。気のせいですかね?」
私は笑った。
悠人さんも、少し遅れて笑う。
「……かもしれないね」
……あ。
その笑顔。
なんだか、いつもより少し可愛い。
私は、また胸がきゅっとなった。
「じゃあ、私、行きますね!」
「うん。気をつけて」
「ありがとうございます!」
私は、手を振ってお店を出た。
外に出ると、夕方の風が頬をなでた。
……ふう。
思わず、息を吐く。
今日は、何だか変な一日だった。
でも。
悪くない。
むしろ。
……すごく、いい日。
私は、バッグの持ち手をぎゅっと握った。
今度の休み。
三人で、ハンバーグ。
……楽しみだな。
***
その夜。
爽太を寝かしつけたあと。
私は、ソファに座ってスマホを開いた。
悠人さんから、メッセージが届いていた。
『今日はお疲れさま。ハンバーグのお店、いくつか候補を見つけたよ』
「……ふふ」
思わず、笑ってしまう。
仕事が早いなあ。
『ありがとうございます! 爽太、もう楽しみにしてます(笑)』
送信。
すぐに返事が来た。
『俺も楽しみ』
……。
……え。
私は、画面をじっと見た。
たった、それだけ。
たった五文字なのに。
どうして、こんなに嬉しいんだろう。
私は、スマホを胸に抱きしめた。
「……もう」
小さく、笑う。
「……ずるいなあ」
悠人さん。
あなたは、きっと知らない。
私が、どれだけあなたのことを考えているか。
今日、あなたに会えるかもしれないって思って。
朝から髪を何度も直したことも。
髪留めを褒めてもらって、あんなに嬉しかったことも。
そして。
あのときの、少し怖いくらい真剣な表情を思い出して。
何度も、胸がどきどきしていることも。
……知らないんだろうな。
私は、もう一度スマホを見た。
『俺も楽しみ』
その文字を、何度も読み返す。
そして。
『私もです! おやすみなさい』
そう送って、スマホを置いた。
窓の外には、夜の空。
明日も、きっと忙しい。
爽太は、また朝から大騒ぎするだろうし。
お店だって、きっと賑やかだ。
いつも通りの毎日。
だけど。
……少しだけ。
何かが、変わり始めている気がする。
それが何なのかは、まだわからない。
でも。
私は、その変化が。
ちょっとだけ、楽しみだった。




