第28話「知らなかった自分」
――一ノ瀬悠人視点――
「……終わった」
パソコンの画面に表示された送信完了の文字を確認して、俺は椅子の背もたれに身体を預けた。
時計を見ると、午後四時を少し回ったところだった。
ここ数日かかりきりだった案件が、ようやく片づいた。
「一ノ瀬さん、お疲れさまです」
隣の席の後輩が声をかけてくる。
「お疲れ。そっちの資料は?」
「無事に通りました。ありがとうございます」
「ならよかった」
「一ノ瀬さんって、ほんと余裕ありますよね。今回、結構きつかったじゃないですか」
「余裕なんてないよ。顔に出さないだけ」
そう答えると、後輩は笑った。
「それができるのがすごいんですよ」
……そういうものだろうか。
昔から、感情を表に出すことはあまりなかった。
焦っても仕事が早く終わるわけじゃないし、怒ったところで問題が解決するわけでもない。
だったら落ち着いて、一つずつ片づけたほうがいい。
それだけの話だ。
「今日は早く帰るんですか?」
「そうだな。久しぶりに寄りたいところもあるし」
「お、デートですか?」
「残念。コーヒーを飲みに行くだけ」
「なんだぁ」
後輩が大げさに肩を落とす。
俺は笑いながら、パソコンを閉じた。
寄りたい場所。
頭に浮かんでいたのは、カフェ『リアン』だった。
あの店には、もうずいぶん前から通っている。
落ち着いた雰囲気も、橘さんの淹れるコーヒーも気に入っていた。
それに最近は、店に行くとつい、ある人の姿を探してしまう。
ふと、栗色のポニーテールが頭をよぎった。
『悠人さん、また来てくださいね!』
いつも元気に笑う、あの人。
……いや。
別に、深い意味はない。
そう自分に言い聞かせながら、俺は会社を出た。
*
リアンに着いたのは、午後四時半を少し過ぎた頃だった。
扉を開けると、いつものベルが軽やかに鳴る。
「いらっしゃいませ!」
聞き慣れた声。
カウンターの向こうから顔を上げた舞ちゃんが、俺に気づいて笑った。
「あっ、悠人さん!」
「やあ、舞ちゃん」
「今日は早いんですね」
「仕事が一段落したからね」
「お疲れさまです! いつものですか?」
「うん、お願い」
自然と会話が弾む。
舞ちゃんがコーヒーを用意してくれている間、俺はいつもの席に腰を下ろした。
しばらくすると、彼女がカップを運んできた。
「そういえば、運動会のときの写真、星莉奈さんに見せてもらいました?」
「写真?」
「朝倉くんと結衣ちゃんが、同じほっぺにご飯粒つけてるやつです」
「ああ、見た見た」
思い出して、つい笑ってしまう。
「あれ、すごかったよね。狙ってもできないでしょ」
「ですよね! 星莉奈さん、見つけたときすっごく笑ってて」
「翼は恥ずかしそうにしてたな」
「ふふっ、朝倉くんらしいです」
そんな他愛もない話をしていると、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
舞ちゃんが振り返る。
入ってきたのは、二十代後半くらいの男だった。
俺の知らない顔だ。
男は店内を見回すと、舞ちゃんを見つけて口元を緩めた。
「あ、いたいた」
「……いらっしゃいませ」
舞ちゃんの声が、ほんの少し変わった。
俺はコーヒーカップを持ち上げかけた手を止めた。
「ねえ、さっきの話なんだけどさ」
男がカウンターへ近づく。
「……申し訳ありません。そういうのは、ちょっと」
「えー、なんで? 連絡先くらいいいじゃん」
「すみません。お仕事中ですので」
「じゃあ仕事終わってからならいいの?」
舞ちゃんは困ったように笑った。
普段の、見ているこちらまで明るくなる笑顔とは違う。
相手を刺激しないように、無理に作っている笑顔だった。
「……本当に、すみません」
「彼氏いるの?」
「そういうことではなくて……」
「じゃあ別によくない?」
男は軽い調子で笑っていた。
だが、舞ちゃんは笑っていなかった。
俺は席を立とうとした。
そのとき、奥から橘さんが出てきた。
「お客様、何かご注文でしょうか?」
「あー……いや、いいです」
男は気まずそうに視線を逸らした。
「また来るわ」
そう言って、店を出ていく。
ベルが鳴り、扉が閉まった。
「……舞ちゃん、大丈夫?」
橘さんが心配そうに尋ねる。
「はい! 大丈夫です。すみません、星莉奈さん」
「舞ちゃんが謝ることじゃないよ」
「ありがとうございます」
舞ちゃんはいつもの笑顔に戻った。
……少なくとも、そう見えた。
「……舞ちゃん」
俺が声をかけると、舞ちゃんはこちらを向いた。
「はい?」
「さっきの男、大丈夫? 知り合い?」
「いえ、全然。今日初めて来たお客さんです」
「……そうなんだ」
「最初は普通に注文してくれたんですけど、急に連絡先を聞かれて……断っても、なかなか諦めてくれなくて」
「……怖くなかった?」
「大丈夫ですよ! こういうの、たまにありますから」
舞ちゃんは明るく笑った。
でも、その笑顔が少し無理をしているように見えた。
「……そっか」
俺は店の扉に目を向けた。
あの男は、もういない。
そう思っていた。
「悠人さん?」
舞ちゃんがこちらを見る。
「コーヒー、冷めちゃいますよ?」
「ああ、そうだね」
俺はカップを口に運んだ。
いつもと同じ、美味しいコーヒーだった。
なのに、少しも味が分からなかった。
*
午後五時を過ぎた頃。
「悠人さん、今日はありがとうございました!」
舞ちゃんがカウンターの中から声をかけてきた。
「こちらこそ。ごちそうさま」
「また来てくださいね!」
「うん。また来るよ」
舞ちゃんも、そろそろ仕事を上がる時間らしい。
エプロンを外しながら橘さんと何か話していた。
会計を済ませ、俺は店を出た。
外は夕暮れが近づいていた。
涼しい風が通りを抜ける。
……さて、帰るか。
そう思って歩き出したところで、スマートフォンが震えた。
会社の後輩からだった。
『すみません、さっきの資料の件で一つだけ確認させてください』
俺は立ち止まり、返信を打つ。
簡単な確認だったので、すぐに終わった。
スマートフォンをポケットにしまおうとした、そのとき。
「……やめてください」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げる。
リアンから少し離れた、建物の脇。
そこに、舞ちゃんがいた。
そして――さっきの男も。
「だからさ、ちょっとだけでいいって」
「すみません。子どものお迎えがありますので……」
「え、子どもいるの? 全然見えないじゃん」
男が笑う。
「じゃあ迎えの前に少し話そうよ」
「急いでいるので、失礼します」
舞ちゃんが頭を下げ、横を通り抜けようとした。
その瞬間。
男が、舞ちゃんの腕をつかんだ。
「待ってって」
「……っ!」
舞ちゃんの身体が引き戻される。
「やめてください……! 離してください!」
その声を聞いた瞬間。
頭の中が、真っ白になった。
気づけば、俺は走り出していた。
男のそばまで駆け寄り、舞ちゃんの腕をつかんでいる手首を握りしめる。
「……その手、離せよ」
自分の口から出た声が、ひどく低かった。
「は? 誰だよ、お前」
男が眉をひそめる。
その手は、まだ舞ちゃんを離さない。
「離せっつってんだろ!!」
握る手に力を込める。
「いってえな! 何すんだよ!」
男が顔をしかめ、ようやく舞ちゃんの腕を離した。
「……黙れよ」
考えるより先に、言葉が出ていた。
男が何か言い返している。
けれど、耳に入らなかった。
ふと、舞ちゃんが視界に入った。
彼女はつかまれていた腕を胸元に引き寄せ、小さく震えていた。
いつも明るく笑っている舞ちゃんが。
誰にでも気さくに話しかける、あの舞ちゃんが。
今は、怯えた顔をしている。
彼女の腕は、もう離されている。
それでも、震えている彼女の姿を見ると、男への怒りは収まらなかった。
男の手首を握る指に、さらに力が入る。
「おい! 離せって!」
「……二度と近づくな」
「は……?」
「二度とこの子に近づくなって言ってんだよ!!」
自分でも、聞いたことのない声だった。
男の顔が引きつる。
「……悠人さん!」
舞ちゃんの声がした。
「もう、大丈夫ですから……!」
その声が、ようやく俺の耳に届いた。
「……っ」
我に返る。
目の前には、顔をしかめた男。
その手首を、俺が強く握りしめている。
俺はゆっくりと指をほどいた。
男は手首を押さえながら、数歩後ずさった。
「……なんだよ、こいつ。頭おかしいんじゃねえの」
吐き捨てるように言い、足早に去っていく。
俺はその背中を見つめていた。
追いかけるつもりなんてない。
それなのに、まだ身体が熱かった。
心臓が、うるさいほど鳴っている。
「……悠人さん」
振り返る。
舞ちゃんが、こちらを見上げていた。
「……舞ちゃん。大丈夫?」
「……はい」
「腕、痛くない?」
「大丈夫です」
そう答えたものの、彼女の指先はまだ少し震えていた。
俺は言葉を失った。
……もっと早く気づいていれば。
あの男が店を出たとき、嫌な予感はしていた。
なのに、何もしなかった。
「……ごめん」
気づけば、そう口にしていた。
舞ちゃんが目を丸くする。
「え?」
「怖い思い、させた」
「……悠人さんが謝ることじゃないですよ」
舞ちゃんは首を横に振った。
それから、少しだけ息を整えて。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
そう言って、笑った。
まだ少しぎこちない。
でも、確かに俺に向けられた笑顔だった。
「……うん」
俺はそれだけ返した。
それ以上、うまく言葉が出てこなかった。
*
「保育園、間に合いそう?」
少し落ち着いた頃、俺は尋ねた。
「あっ……!」
舞ちゃんが慌てて時計を見る。
「やばっ、もうこんな時間!」
その反応があまりにいつもどおりで、俺は少しだけ安心した。
「送るよ」
「えっ、でも悠人さん、お帰りになるところじゃ……」
「車、すぐ近くに停めてあるから」
「でも……」
「お願い。今日は送らせて」
舞ちゃんは俺を見つめた。
それから、小さく頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃいます」
「うん」
二人で駐車場へ向かう。
さっきまでの出来事が嘘のように、通りは穏やかだった。
夕日が建物の隙間から差し込んでいる。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、舞ちゃんだった。
「……悠人さんって」
「ん?」
「怒ること、あるんですね」
「……俺もびっくりした」
正直に答えると、舞ちゃんが小さく笑った。
「いつも優しいし、落ち着いてるから」
「そう見える?」
「はい。何があっても、さらっと何とかしちゃう感じです」
「……今日は全然、さらっとしてなかったけどね」
「あはは……確かに」
舞ちゃんが笑う。
その声を聞いて、肩の力が少し抜けた。
「……怖くなかった?」
俺が尋ねると、舞ちゃんは首を傾げた。
「さっきの人ですか?」
「いや……俺のこと」
舞ちゃんは少し驚いた顔をした。
そして。
「……びっくりはしました」
「だよね」
「でも、悠人さんのことを怖いとは思わなかったですよ」
「……そっか」
「はい」
短い返事だった。
でも、その一言に救われた気がした。
*
保育園の近くに車を停めた。
「悠人さん、本当にありがとうございました」
「うん。お迎え、行っておいで」
「はい! じゃあ、ここで……」
「待ってるよ」
「……え?」
舞ちゃんが目を丸くする。
「爽太くんを迎えたら、家まで送る」
「えっ、そこまでしてもらうのは悪いですよ!」
「今さら遠慮しないでよ。どうせ今日はもう仕事も終わってるし」
「でも……」
「それに、さっきの男がまた現れないとも限らないでしょ」
そう言うと、舞ちゃんは少しだけ表情を曇らせた。
「……そう、ですよね」
「だから、今日は俺に任せて」
舞ちゃんはしばらく俺を見つめていた。
やがて、小さく笑う。
「……ありがとうございます。じゃあ、ちょっとだけ待っててくださいね!」
「うん。ゆっくりでいいよ」
舞ちゃんが保育園へ向かっていく。
その背中を見送ってから、俺はシートに身体を預けた。
……無事でよかった。
本当に、それだけはよかった。
なのに、さっきの光景が頭から離れない。
男の手。
舞ちゃんの震える声。
そして、あのときの自分の怒鳴り声。
「……」
ハンドルに置いた右手を見る。
あんなに強く、誰かの手首を握ったのは初めてかもしれない。
男が舞ちゃんを離したあとも、俺は手を緩められなかった。
……どうして、あそこまで。
考えかけたところで、保育園の門が開いた。
「ゆうとおじちゃーん!」
聞き慣れた元気な声。
爽太くんが、舞ちゃんと手をつないで走ってくる。
「やあ、爽太くん」
「きょう、くるってしらなかった!」
「俺も、さっき決まったんだ」
「じゃあ、びっくりだね!」
「ああ。びっくりだ」
舞ちゃんが後ろから笑う。
「爽太、車ではちゃんと座るんだよ?」
「はーい!」
二人が車に乗り込むと、すぐに爽太くんのおしゃべりが始まった。
今日、保育園で何をしたのか。
お友達と何をして遊んだのか。
話したいことが山ほどあるらしい。
舞ちゃんはその一つひとつに相槌を打っていた。
さっきまでの怯えた顔は、もう見えない。
俺はバックミラー越しに二人を見て、少しだけ息をついた。
*
舞ちゃんの家に着く頃には、空がすっかり茜色に染まっていた。
「悠人さん、今日は本当にありがとうございました!」
「うん。じゃあ、またね」
そう言って帰ろうとしたときだった。
「あっ、悠人さん!」
「ん?」
「今日、晩ご飯食べていきませんか?」
「え?」
「その……助けてもらったお礼もしたいですし! ちょうど材料もあるので!」
「いや、でも疲れてるでしょ? 今日はゆっくり休んだほうが……」
「大丈夫です! 料理するの好きですし!」
舞ちゃんは笑った。
「それに……」
「それに?」
「……もうちょっと、一緒にいてくれたら嬉しいなって」
一瞬、言葉が出なかった。
いつもの明るい声より、少しだけ小さな声。
舞ちゃんは照れたように笑う。
「……なんて! 迷惑だったら全然断ってくださいね!」
「……迷惑なわけないでしょ」
気づけば、そう答えていた。
舞ちゃんがぱっと顔を上げる。
「じゃあ……!」
「うん。ごちそうになろうかな」
「やった!」
「やったー!」
隣で爽太くんまで両手を上げた。
「ゆうとおじちゃん、いっしょにごはん!」
「そうだね。お邪魔します」
「ぼく、おにくがいい!」
「爽太、今日はもうメニュー決まってるから!」
「えー!」
二人のやり取りに、思わず笑ってしまった。
*
「すみません、ちょっと待っててくださいね!」
エプロンをつけた舞ちゃんが、キッチンから顔を出した。
「手伝おうか?」
「大丈夫です! 悠人さんは座っててください!」
「でも……」
「今日はお礼なんですから!」
そう言われてしまうと、これ以上は何も言えない。
俺は素直に椅子へ座った。
リビングでは、爽太くんが小さな車のおもちゃを並べている。
「ゆうとおじちゃん、これみて!」
「お、かっこいいね」
「これ、しょうぼうしゃ!」
「消防車か。速そうだな」
「すっごくはやいんだよ!」
そう言って、爽太くんは車を走らせた。
テーブルの端で急カーブ。
勢い余って、車が床へ落ちる。
「あっ!」
「おっと」
拾い上げて渡すと、爽太くんはにっこり笑った。
「ありがと!」
「どういたしまして」
キッチンから、包丁の音が聞こえる。
鍋の蓋が小さく鳴り、温かな匂いが漂ってきた。
何でもない、夕方の風景。
それなのに。
さっきまでの緊張が、少しずつほどけていく気がした。
「お待たせしましたー!」
しばらくして、舞ちゃんが料理を運んできた。
食卓に並んだのは、照り焼きチキンと野菜の小鉢、それに湯気の立つ味噌汁だった。
「すごいね。美味しそう」
「ほんとですか? よかった!」
「ママのごはん、おいしいよ!」
爽太くんが胸を張る。
「それは楽しみだ」
三人で手を合わせた。
「いただきます!」
一口食べると、甘辛い味が口いっぱいに広がった。
「……美味しい」
「ほんとですか?」
「うん。すごく」
舞ちゃんが嬉しそうに笑う。
「よかったぁ。悠人さんのお口に合うか、ちょっと心配だったんです」
「そんな心配、いらなかったのに」
「だって、せっかく食べてもらうんですから!」
その言葉に、自然と笑みがこぼれた。
「ゆうとおじちゃん!」
「ん?」
「ぼくのも、おいしいよ!」
爽太くんが自分のお皿を指さす。
「うん、同じ料理だもんね」
「そうだった!」
舞ちゃんが吹き出した。
俺もつられて笑った。
*
食事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
爽太くんは満足そうにお腹をさすっている。
「おなかいっぱい!」
「ちゃんとごちそうさま、した?」
「ごちそうさまでした!」
「はい、よくできました」
舞ちゃんが笑う。
俺も手を合わせた。
「ごちそうさま。本当に美味しかったよ」
「ありがとうございます!」
食器を運ぼうとすると、舞ちゃんが慌てて立ち上がった。
「あっ、私がやります!」
「これくらい手伝わせてよ」
「えー、今日はお客さんなのに」
「美味しいご飯をごちそうになったんだから、これくらいはね」
「……じゃあ、お皿だけお願いします」
「了解」
二人でキッチンへ向かう。
舞ちゃんが洗った皿を、俺が布巾で拭いていく。
リビングからは、爽太くんがおもちゃで遊ぶ音が聞こえていた。
「……悠人さん」
「ん?」
「今日の悠人さん、かっこよかったですよ」
「……え?」
思わず、手が止まった。
舞ちゃんは皿を洗いながら、こちらを見ずに続けた。
「いつもの悠人さんもかっこいいですけど……今日は、もっと」
「……あんなに怒鳴ってたのに?」
「はい」
舞ちゃんは迷わず頷いた。
「私、あのとき本当に怖くて……どうしようって思ってたんです」
水道の音が、静かなキッチンに響く。
「でも、悠人さんが来てくれたとき、すごく安心しました」
「……そっか」
「だから……かっこよかったです」
そう言って、舞ちゃんがこちらを向いた。
いつものように、まっすぐな笑顔だった。
「……ありがとう」
なんとか、それだけ返す。
かっこいい。
そう言われること自体は、珍しくない。
顔立ちや服装を褒められることは、昔から何度もあった。
けれど。
自分でも驚くほど感情的になった、あのときの行動を。
かっこよかったと言われるなんて、思ってもいなかった。
しかも、それを言ったのが舞ちゃんで。
「……悠人さん?」
「ん?」
「顔、ちょっと赤くないですか?」
「……気のせいじゃない?」
「えー? 本当ですか?」
舞ちゃんが少し身を乗り出してくる。
俺は慌てて手元の皿に視線を戻した。
「ほら、次のお皿」
「ふふっ、はーい!」
楽しそうな声が返ってくる。
……参ったな。
こんなことで照れるなんて。
自分でも、少し意外だった。
*
帰る頃には、爽太くんが眠そうに目をこすっていた。
「ゆうとおじちゃん、またきてね」
「うん。また来るよ」
「こんどはハンバーグ!」
「覚えてたんだ」
「やくそくだもん!」
「そうだったね」
俺が笑うと、爽太くんも嬉しそうに笑った。
玄関まで見送りに来た舞ちゃんが、靴を履く俺に声をかけた。
「悠人さん」
「ん?」
「……今日は、ゆっくり休んでくださいね」
「舞ちゃんこそ」
「はい!」
「腕、まだ痛むようならちゃんと冷やしてね」
「分かりました」
「それと、あの男がまた来たら、一人で対応しないで。橘さんにも相談して」
舞ちゃんは真剣な顔で頷いた。
「……はい」
それから、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「じゃあ、おやすみなさい!」
「うん。おやすみ」
扉が閉まる。
俺は少しの間、その場に立っていた。
家の中から、爽太くんの元気な声が聞こえる。
『ママー! おふろー!』
『はいはい、今行くよー!』
思わず笑ってしまった。
……本当に、賑やかな親子だ。
俺は車へ向かった。
*
家に帰ってからも、なかなか落ち着かなかった。
シャワーを浴び、ソファに腰を下ろす。
舞ちゃんの作ってくれた夕食は美味しかった。
爽太くんとの時間も楽しかった。
二人とも、帰る頃にはいつもどおり笑っていた。
それなのに。
頭から離れないのは、あの光景だった。
舞ちゃんの腕をつかんでいた男の手。
怯えた表情。
震える声。
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
「……なんで、あんなに怒ったんだろうな」
もちろん、あの男が許せなかった。
嫌がっている相手に無理やり触れるなんて、最低だと思う。
でも、それだけじゃ説明がつかない。
舞ちゃんが解放されたあとも、俺は男の手首を離せなかった。
あの男が、舞ちゃんに触れたことが。
彼女を怖がらせたことが。
どうしようもなく、許せなかった。
「……」
ふと、胸の奥に浮かんだ言葉に、息が止まった。
**奪われたくない。**
誰にも。
あの笑顔も、隣にいられる時間も。
舞ちゃん自身も。
「……ああ、そうか」
ようやく分かった。
俺は、舞ちゃんをただの友人だと思っていたわけじゃない。
いつの間にか、誰よりも大切な存在になっていた。
思い返せば、心当たりはいくつもあった。
リアンの扉を開けるたび、無意識に彼女を探していたこと。
仕事中に面白い出来事があると、今度話してみようと思っていたこと。
爽太くんと笑い合う姿を見ると、自然と頬が緩んでいたこと。
どれも、特別なことだとは思っていなかった。
でも。
今日、あの男が舞ちゃんの腕をつかんだ瞬間。
俺は初めて、その気持ちの大きさを知った。
「……好きなんだな、俺」
誰もいない部屋で、ぽつりと呟いた。
口にしてみると、不思議なくらいしっくりきた。
助けたから、好きになったわけじゃない。
あの男に腹が立ったから、好きだと勘違いしたわけでもない。
きっと、もっと前から。
少しずつ、少しずつ。
彼女の笑顔が、俺の日常に入り込んでいた。
「……参ったな」
俺は片手で顔を覆った。
自分のことは、わりと分かっているつもりだった。
何が得意で、何が苦手で。
どんなときに怒って、どんなときに笑うのか。
でも今日、初めて知った。
大切な人が傷つけられそうになると、こんなにも冷静でいられなくなること。
そして。
その人が無事に笑っているだけで、こんなにも安心すること。
テーブルに置いたスマートフォンが震えた。
舞ちゃんからだった。
『悠人さん、今日は本当にありがとうございました! 爽太もすごく喜んでました!』
続けて、もう一通。
『またご飯食べに来てくださいね!』
俺は思わず笑った。
『こちらこそ、ごちそうさま。すごく美味しかったよ』
少し考えてから、もう一言付け加える。
『また誘ってくれたら嬉しい』
送信。
すぐに既読がついた。
『もちろんです!!』
画面いっぱいに、嬉しそうなスタンプが表示される。
「……ふっ」
思わず笑みがこぼれた。
次に会ったとき、俺は今までどおりに話せるだろうか。
……いや。
きっと、少し難しい。
今までは何とも思わずに見ていた笑顔に、妙に緊張してしまうかもしれない。
何気ない言葉に、期待してしまうかもしれない。
それでも。
この気持ちを、なかったことにはしたくなかった。
「……さて」
スマートフォンを伏せ、ソファに深く腰を下ろす。
どうやって伝えるかなんて、まだ考えられない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺はこれからも、舞ちゃんの笑顔を見ていたい。
そして今度は、怖い思いをした日だけじゃなく。
何でもない、普通の日にも。
彼女の隣にいたい。
そんなことを考えながら、俺は静かに目を閉じた。
――第28話・完




