第25話「名前ひとつで大騒ぎ」
――橘星莉奈視点――
朝。
カフェ『リアン』の厨房で、私はコーヒー豆の補充をしていた。
窓から差し込む日差しが、店内を柔らかく照らしている。
今日はお天気もいいし、気持ちのいい一日になりそう。
「ふふっ……」
思わず、笑みがこぼれた。
昨日のことを思い出す。
二人で歩いた街。
初めて訪れた、翼くんのお家。
仕事机に飾られていた、結衣の絵。
そして――。
『……星莉奈さん』
「…………っ」
ああ、もう。
思い出しただけで、顔が熱くなってしまう。
『……翼くん』
昨日まで、ずっと「朝倉さん」と呼んでいた人。
それが今は、名前で呼べる。
たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
「……ふふっ」
「星莉奈さん」
「ふふふっ……」
「……星莉奈さーん?」
「……ふふっ、え?」
顔を上げると、目の前に舞ちゃんが立っていた。
しかも、ものすごく怪しそうな顔で。
「……何?」
「いや、それはこっちの台詞なんですけど」
「え?」
「さっきから何回笑ってると思ってるんですか?」
「……えっ?」
舞ちゃんは腕を組んだ。
「コーヒー豆見ながら、ずーっとニコニコしてますよ」
「そ、そんなことないよ」
「ありますって!」
私は慌てて豆の袋を棚にしまった。
「き、今日はいいお天気だから……」
「天気でそんなに笑います?」
「笑うことだってあるでしょ?」
「じゃあ、なんで顔赤いんですか?」
「…………」
……鋭い。
舞ちゃんは、昔からこういうところが鋭い。
「……さては」
「な、何?」
「朝倉くんと、何かありましたね?」
「な、何もないよ!」
「まだ何があったか聞いてませんけど!?」
「…………っ!」
しまった。
舞ちゃんの口元が、ゆっくりと持ち上がる。
「へぇぇ……」
「……何?」
「いえ、別にぃ?」
その顔。
絶対に、何か企んでいる。
「……舞ちゃん、開店準備しよう?」
「はいはい。分かってますよー」
返事だけは素直だった。
けれど。
「……ふふっ」
今度は舞ちゃんが笑い始めた。
……もう。
朝から嫌な予感しかしない。
*
開店してからしばらくは、いつもどおりだった。
お客様が来て、注文を受けて。
コーヒーを淹れて、料理を運ぶ。
忙しくしていれば、余計なことを考えずに済む。
……そう思っていたのだけれど。
「星莉奈さん」
「何?」
「今、また笑ってましたよ」
「えっ?」
「お皿拭きながら」
「……気のせいじゃない?」
「気のせいじゃないです」
「……舞ちゃん、ちゃんと仕事してる?」
「してますよ! 星莉奈さんの観察も仕事のうちです!」
「それは仕事じゃないよ!」
思わず笑ってしまった。
すると舞ちゃんは、得意げに指を差してくる。
「あっ、また笑った!」
「もう!」
まったく。
この子には敵わない。
「舞ちゃん、二番テーブルにお水をお願いします」
「はーい!」
舞ちゃんが元気よく返事をして、厨房から出ていく。
私は小さく息をついた。
……よし。
落ち着こう。
いつもどおり。
いつもどおりにしていれば、何も問題はない。
そう自分に言い聞かせた、そのときだった。
カラン。
扉のベルが鳴った。
「こんにちは」
聞き慣れた声。
顔を上げる。
そこには、いつものように少し照れくさそうな笑顔を浮かべた彼が立っていた。
「……あっ!」
胸が、ぱっと明るくなる。
そして私は、何も考えずに口を開いた。
「いらっしゃいませ、翼くん!」
「こんにちは、星莉奈さん」
…………。
…………あ。
店内の空気が、一瞬だけ止まった気がした。
正確には。
お水を運ぼうとしていた舞ちゃんの動きが、ぴたりと止まった。
「…………はい?」
私は、ゆっくりと舞ちゃんのほうを見た。
舞ちゃんは、お盆を持ったまま固まっている。
「……舞ちゃん?」
「…………」
「……どうしたの?」
「……今」
「え?」
「今、なんて呼びました?」
「…………」
まずい。
非常にまずい。
「……えっと」
「翼くん?」
「…………」
「星莉奈さん?」
「…………」
舞ちゃんの目が、みるみる大きくなっていく。
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
「ま、舞ちゃん! 声!」
「名前! 名前で呼んでましたよね!?」
「そ、それは……」
「えっ!? いつからですか!? 何があったんですか!?」
「ま、舞ちゃん、落ち着いて!」
「落ち着けるわけないじゃないですか!」
舞ちゃんは私と翼くんを交互に見た。
そして。
にやぁ……。
とても楽しそうな笑顔を浮かべた。
「……へぇぇぇ?」
……ああ。
終わった。
「なるほどなるほど。そういうことですかぁ」
「ち、違うの!」
「何が違うんですか?」
「そ、それは……」
「まだ何も言ってませんけど?」
「…………っ!」
二回目。
今日、二回目の失敗だ。
すると、翼くんが困ったように笑った。
「あの、舞さん」
「はい?」
「いや、昨日、俺の家に星莉奈さんが来たんで。そのときに名前で呼ぼうって決めたんですよ」
「…………」
「…………」
……え?
ちょっと待って。
今、何て言ったの?
家に来たって、言っちゃった!?
私は慌てて翼くんを見る。
けれど、本人は何がおかしいのか分かっていない様子だった。
……翼くん!
それ、そんなに普通に言っちゃだめなやつ!
「…………へぇ?」
舞ちゃんの声が、一段低くなった。
「……朝倉くんのお家に?」
「はい」
「……星莉奈さんが?」
「はい」
「……昨日?」
「はい」
……全部答えちゃってる!!
舞ちゃんが、ゆっくり私を見る。
その顔には、今日一番の笑顔が浮かんでいた。
「……星莉奈さぁん?」
「な、何!?」
「昨日、朝倉くんのお家に行ったんですかぁ?」
「そ、それは……!」
「へぇぇぇ。そうだったんですねぇ」
「ち、違うの! 別に、変な意味じゃ……!」
「私、まだ変な意味なんて言ってませんよ?」
「…………っ!!」
……三回目。
もう嫌。
今日は何回、自分で墓穴を掘ればいいの?
すると、翼くんが不思議そうに首を傾げた。
「……あれ? 俺、何か変なこと言いました?」
「朝倉くん!」
舞ちゃんが勢いよく振り向く。
「はい!?」
「そういうことをサラッと言うから、星莉奈さんが真っ赤になるんですよ!」
「えっ?」
翼くんが私を見る。
「……あ、本当だ」
「つ、翼くん!」
「いや、可愛いなって思って」
「…………っ!!」
……もう。
本当に。
この人は!
「…………」
舞ちゃんが、静かにお盆をカウンターへ置いた。
「……星莉奈さん」
「……何?」
「私、今日の仕事、頑張れそうです」
「……どうして?」
「最高に面白いものが見られたので」
「舞ちゃん!!」
*
それからしばらくして。
カラン、とベルが鳴った。
「あら、こんにちは」
「鈴さん! いらっしゃいませ」
いつもの優しい笑顔。
私は、心の底からほっとした。
……よかった。
鈴さんが来てくれた。
これで舞ちゃんも、少しは落ち着いてくれるかもしれない。
「鈴さん!!」
……と思ったのも、束の間だった。
舞ちゃんがものすごい勢いで駆け寄っていく。
「まあ、舞ちゃん。どうしたの?」
「聞いてください!」
「ええ、何かしら?」
「星莉奈さんと朝倉くんが!」
「ま、舞ちゃん!」
「名前で呼び合ってるんです!!」
鈴さんが、ぱちりと瞬きをした。
そして、ゆっくり私を見る。
「……あら」
「…………」
「まあまあまあ」
その笑顔。
舞ちゃんとは違う種類の、逃げられない笑顔だった。
「そうなのねぇ」
「……はい」
私は、もう隠すことを諦めた。
鈴さんは嬉しそうに微笑む。
「ふふっ。素敵じゃない」
「そうなんですよ!」
舞ちゃんが勢いよく頷く。
「しかもですよ、鈴さん!」
「なあに?」
「星莉奈さん、朝からずーっとニコニコしてたんです!」
「まあ」
「鼻歌まで歌ってて!」
「まあまあ」
「ま、舞ちゃん! そこまで言わなくても!」
すると鈴さんが、私の顔をじっと見た。
「……星莉奈ちゃん」
「……はい」
「幸せそうねぇ」
「…………っ」
そんな優しい顔で言われたら。
何も言い返せない。
「……はい」
小さく頷くと、鈴さんは嬉しそうに笑った。
「それが一番よ」
……ずるい。
鈴さんは、こういうところがずるい。
舞ちゃんみたいにからかってくるかと思えば、急に優しいことを言うのだから。
「ところで」
鈴さんが、コーヒーカップを手に取りながら言った。
「どちらから名前で呼ぼうって言い出したの?」
「それです!!」
舞ちゃんが食いついた。
「私もそれ聞きたかったんです!」
「えっ、えっと……」
私は視線を泳がせた。
翼くんを見る。
彼は、なぜか楽しそうに笑っている。
……助けてくれないの?
「……私から、です」
「へぇぇぇぇ!!」
「舞ちゃん! 声が大きい!」
「だって星莉奈さんからですよ!?」
「わ、私からじゃおかしい?」
「おかしくないです! 最高です!」
……最高って何。
すると、翼くんが口を開いた。
「俺も嬉しかったですよ」
「……え?」
「星莉奈さんに、名前で呼んでもらえて」
「…………」
「朝倉くん」
舞ちゃんが、静かに言った。
「はい?」
「ちょっと黙っててもらっていいですか?」
「えっ、なんで!?」
「これ以上、星莉奈さんの顔を赤くしないでください!」
「いや、俺そんなつもりじゃ……」
「だから問題なんですよ!」
鈴さんが、とうとう声を出して笑い始めた。
「あははっ。朝倉くんも大変ねぇ」
「鈴さん、助けてくださいよ」
「ふふっ。若いっていいわねぇ」
……助ける気が、まったくない。
私は両手で顔を覆った。
もう、どうにでもなって。
*
その後も、舞ちゃんの追及は続いた。
もちろん、仕事の合間だけれど。
「星莉奈さん」
「……何?」
「もう一回、呼んでみてください」
「何を?」
「翼くんって」
「い、嫌だよ!」
「えー!」
「えー、じゃない!」
「じゃあ朝倉くんから!」
「俺ですか?」
「はい!」
「……星莉奈さん?」
「…………っ!」
舞ちゃんが胸を押さえた。
「……破壊力がすごい」
「舞さん、大丈夫ですか?」
「朝倉くんは、本当に自覚がないんですね……」
「何のですか?」
「もういいです!」
翼くんが困ったように首を傾げる。
私は、そんな彼を見て思わず笑ってしまった。
……ふふっ。
でも。
こうして名前を呼ばれるのは、やっぱり嬉しい。
昨日の朝、初めて呼んでもらったときのことを思い出す。
『……星莉奈さん』
あのときの声。
少し照れくさそうな顔。
それなのに、真っ直ぐ私を見てくれたこと。
「……ふふっ」
「……星莉奈さん」
「えっ?」
舞ちゃんが、じとっとした目でこちらを見ていた。
「今、何考えてました?」
「な、何も!」
「絶対、朝倉くんのこと考えてましたよね?」
「……っ!」
「分かりやすすぎますって!」
……もう。
どうして全部、分かっちゃうんだろう。
*
夕方。
お客様の波が落ち着いた頃。
私は保育園へ結衣を迎えに行き、リアンへ戻ってきた。
「ただいまー!」
元気な声が店内に響く。
「おかえり、結衣ちゃん!」
舞ちゃんが笑顔で迎えた。
「まいちゃん!」
結衣は嬉しそうに駆け寄る。
そして、店内をきょろきょろと見回した。
「あっ!」
その視線の先には、窓際の席に座っていた翼くん。
「つーくん!!」
「おっ、結衣ちゃん。おかえり!」
「ただいまー!」
結衣が勢いよく駆け寄る。
翼くんは笑いながら、その小さな身体を受け止めた。
「今日も元気だね」
「うん! きょうね、ほいくえんでね!」
「うんうん」
「おえかきした!」
「おお、何描いたの?」
「かば!」
「カバ! いいね!」
二人の楽しそうな声。
それを眺めていると、自然と頬が緩む。
……本当に、仲良しね。
すると。
「……あっ!」
舞ちゃんが、何かを思いついたように声を上げた。
……嫌な予感。
「結衣ちゃん!」
「なあに?」
「聞いて聞いて!」
「うん!」
「ママがね、つーくんのこと『翼くん』って呼ぶようになったんだよ!」
「ま、舞ちゃん!?」
結衣が、ぱちぱちと瞬きをした。
そして。
「……えー!」
驚いたように声を上げた。
「ママも?」
「……も?」
舞ちゃんが首を傾げる。
結衣は得意げに胸を張った。
「ゆいは、ずっとつーくんだよ!」
一瞬、静かになる。
そして。
「……確かに」
舞ちゃんが呟いた。
翼くんが、ぷっと吹き出す。
「ははっ! そうだね、結衣ちゃん」
「うん!」
結衣は、ますます得意げになった。
そして私を見上げる。
「ママ!」
「な、何?」
「ゆいのまねっこしたの?」
「……えっ?」
「つーくんってよぶの、ゆいがさきだもん!」
「ふふっ……!」
鈴さんが口元を押さえる。
舞ちゃんは、とうとうお腹を抱えて笑い始めた。
「あはははっ! 結衣ちゃん、最高!」
「えへへ!」
結衣は褒められたと思ったのか、嬉しそうに笑った。
……もう。
なんなの、この状況。
「結衣、ママはね……」
「うん?」
「……翼くんのこと、前は朝倉さんって呼んでたでしょ?」
「うん!」
「でも、今は……その……」
説明しようとして、言葉に詰まる。
すると結衣は、少し考えたあと。
ぱっと顔を輝かせた。
「わかった!」
「……え?」
「ママ、つーくんのこと、だいすきなんだね!」
「…………っ!!」
……終わった。
完全に、終わった。
「ぶっ……!」
翼くんが吹き出す。
舞ちゃんはカウンターに手をついて笑っている。
鈴さんも、目尻に涙を浮かべながら笑っていた。
「ふふっ……結衣ちゃん、よく分かったわねぇ」
「うん!」
結衣は元気よく頷く。
そして、今度は翼くんを見上げた。
「つーくん!」
「ん?」
「つーくんも、ママのことだいすき?」
「……えっ」
翼くんの動きが止まった。
……あ。
今度は、翼くんの番だ。
結衣は、きらきらした目で返事を待っている。
「……えっと」
翼くんが、少しだけ頬を赤くした。
そして、私を見る。
目が合った。
「……うん」
優しい声だった。
「大好きだよ」
「…………っ」
今度は、私が固まった。
結衣は嬉しそうに両手を上げる。
「やったー!」
「……何がやったーなの?」
思わず聞くと、結衣は満面の笑みで答えた。
「だって、ママもつーくんも、にこにこだもん!」
……ああ。
そういうこと。
結衣にとっては、難しい理由なんて必要ない。
大好きな人たちが笑っている。
それが、ただ嬉しいんだ。
「……ふふっ」
私は、結衣の頭をそっと撫でた。
「そうだね」
「うん!」
結衣が笑う。
翼くんも笑う。
それを見て、私も笑った。
……幸せだなぁ。
すると舞ちゃんが、にやにやしながら近づいてきた。
「……いやぁ、いいですねぇ」
「……舞ちゃん?」
「星莉奈さん、今日一日で何回赤くなりました?」
「数えてないよ!」
「私は途中で数えるのやめました!」
「最初から数えなくていいの!」
また、みんなで笑った。
*
閉店が近づいた頃。
鈴さんが席を立った。
「さて、そろそろ帰ろうかしら」
「鈴さん、今日もありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったわ」
鈴さんは、私と翼くんを交互に見た。
そして、にっこり微笑む。
「……二人とも、いい顔してるわねぇ」
「……え?」
「ふふっ。これからも仲良くね」
「……はい」
私が頷くと、翼くんも笑った。
「ありがとうございます、鈴さん」
「いいのよ。私は見ているだけで楽しいんだから」
そう言って、鈴さんは帰っていった。
……本当に。
今日はいろいろあった。
舞ちゃんには散々からかわれたし。
結衣には、思いがけないことを言われたし。
何度顔が赤くなったか分からない。
でも。
嫌じゃなかった。
むしろ、嬉しかった。
「……星莉奈さん」
ふと、隣から声がした。
顔を上げる。
翼くんが、少し照れくさそうに笑っていた。
「……今日、大変でしたね」
「……誰のせいだと思ってるんですか?」
「えっ、俺!?」
「ふふっ。冗談です」
私が笑うと、翼くんも笑った。
「……でも」
「はい?」
「名前で呼べるようになって、嬉しいです」
その言葉に、胸が温かくなる。
「……私もです」
小さく答える。
すると、少し離れたところから。
「……聞こえてますよー!」
舞ちゃんの声が飛んできた。
「ま、舞ちゃん!」
「いやぁ、今日も仲良しですねぇ!」
「もう! 片づけ終わったの?」
「終わってますよー!」
「じゃあ、そんなにからかわないで!」
「それは無理です!」
「どうして!?」
「だって、面白いんですもん!」
翼くんが、とうとう声を出して笑った。
私も、つられて笑ってしまう。
……まったく。
これから先、どれだけからかわれるんだろう。
でも。
隣にいる翼くんが、こんなふうに笑ってくれるなら。
それも、悪くないのかもしれない。
「……翼くん」
「はい、星莉奈さん」
名前を呼ぶ。
名前を呼んでもらう。
それだけで、嬉しくなる。
昨日までは知らなかった、小さな幸せ。
私は、そっと微笑んだ。
「……これからも、よろしくお願いしますね」
翼くんは、優しく笑ってくれた。
「こちらこそ」
その瞬間。
「はいはい! お二人とも、続きは閉店後にお願いします!」
舞ちゃんの声が響いた。
「舞ちゃん!!」
リアンに、また笑い声が広がる。
どうやら私たちの新しい日常は、思っていたよりもずっと賑やかになりそうだった。
**――第25話・完**




