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第23話「優しさを知っている人」

――鈴視点――


カラン、と扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ!」


今日もカフェ『リアン』には、明るい声が響いている。


「あら、鈴さん。こんにちは」


カウンターの向こうで、星莉奈ちゃんが微笑んだ。


「こんにちは、星莉奈ちゃん。今日もいつものをお願いね」


「はい。いつものブレンドですね」


「ふふっ。よく覚えてるわねぇ」


「鈴さん、いつも同じですから」


「あら、そうだったかしら」


そんな他愛のないやり取りをしながら、私はいつもの窓際の席に腰を下ろした。


このお店に通うようになって、もうずいぶん経つ。


初めて来た頃から、リアンは居心地のいい場所だった。


コーヒーの香り。


窓から差し込む柔らかな日差し。


そして、いつも一生懸命な若い店主さん。


最近は、そんな彼女の笑顔が以前よりもずっと増えた気がする。


その理由も、私はよく知っていた。


「橘さん、こんにちは」


ちょうどそのとき、聞き覚えのある声がした。


「あっ、朝倉さん!」


星莉奈ちゃんが顔を上げる。


その瞬間、表情がぱっと明るくなった。


……あらあら。


本当に分かりやすいこと。


「こんにちは、朝倉くん」


「あ、鈴さん。こんにちは」


朝倉翼くん。


少し小柄で、いつもどこか気取らない雰囲気の青年。


初めて見かけた頃は、こんなに星莉奈ちゃんと親しくなるなんて思っていなかった。


……いいえ。


もしかしたら、少しだけ予感していたのかもしれない。


私はコーヒーを待ちながら、二人のやり取りを眺めた。


「朝倉さん、腕の具合はどうですか?」


「もうだいぶいいですよ。心配しすぎですって」


「でも、まだ無理はしないでくださいね」


「はいはい。分かってます」


「……本当に分かってます?」


「信用ないなぁ、俺」


二人が笑う。


その様子を見ていると、自然と頬が緩んだ。


あの子たちが、まだ恋人になる前のこと。


私は、ふと昔を思い出していた。


*


初めて朝倉くんを見かけたのは、いつだったかしら。


たしか、まだ少し肌寒い頃だった。


その日も私は、いつもの席でコーヒーを飲んでいた。


朝倉くんは窓際の席に座り、ノートパソコンを開いて何やら難しそうな画面を眺めていた。


時々キーボードを打ち、時々コーヒーを飲む。


どこにでもいそうな、ごく普通の青年。


それが最初の印象だった。


ところが、その日の午後。


小さな子どもを連れたお母さんが、テーブルの飲み物をこぼしてしまった。


「あっ!」


ガシャン、と音が響く。


コップが倒れ、飲み物が床へ広がった。


子どもは驚いて泣き出し、お母さんは慌てていた。


「す、すみません!」


星莉奈ちゃんもすぐに駆け寄ろうとしたけれど、それより先に立ち上がった人がいた。


朝倉くんだった。


「大丈夫ですか?」


そう声をかけながら、テーブルにあった紙ナプキンを手に取る。


「お子さん、濡れてません? 熱くなかったですか?」


「だ、大丈夫です。すみません……」


「よかった。じゃあ、こっちは俺が拭きますね」


そう言って、床にしゃがみ込んだ。


「朝倉さん、私がやりますから!」


星莉奈ちゃんが慌てて声をかける。


「大丈夫ですよ。橘さん、タオルだけお願いできます?」


「は、はい!」


お母さんは何度も頭を下げていた。


けれど朝倉くんは、困ったように笑うだけだった。


「子どもって、びっくりすると泣いちゃいますよね。怪我がなくてよかったです」


その言葉を聞いて、お母さんも少し安心したようだった。


やがて片づけが終わると、朝倉くんは何事もなかったように席へ戻っていった。


そしてまた、パソコンに向かい始めた。


私は、その様子を眺めながら思った。


(……あら。いい子ねぇ)


誰かに頼まれたわけでもない。


褒められようとしたわけでもない。


ただ、困っている人がいたから手を貸した。


そんな、ごく当たり前のこと。


けれど、その当たり前が自然にできる人は、案外少ないものなのだ。


*


それからしばらく経った、ある雨の日のことだった。


私は商店街で買い物を済ませ、傘を差して歩いていた。


雨はそれほど強くなかったけれど、道はすっかり濡れていた。


そのとき、少し先で困ったような声が聞こえた。


「ああ、困ったなぁ……」


見ると、年配の男性が歩道にしゃがみ込んでいた。


どうやら買い物袋が破れてしまったらしい。


野菜や果物が、濡れた地面に転がっている。


男性は慌てて拾おうとしていたけれど、なかなかうまくいかない様子だった。


私も手伝おうかしら。


そう思って足を向けたときだった。


「大丈夫ですか?」


若い男性の声がした。


「あら……」


思わず立ち止まる。


そこにいたのは、朝倉くんだった。


傘を肩に挟むようにして、地面に散らばった野菜を拾い始める。


「袋、破れちゃったんですね」


「ああ、そうなんだよ。いやぁ、参ったな」


「ちょっと待ってくださいね」


朝倉くんは自分の荷物を確認すると、折りたたんであった袋を取り出した。


「これ、使ってください」


「えっ、いいのかい?」


「はい。予備なんで」


「いやぁ、助かるよ。ありがとう」


「いえいえ」


朝倉くんは笑いながら、最後のリンゴを拾い上げた。


そして、男性が立ち上がるまでそばにいた。


「足元、滑りやすいんで気をつけてくださいね」


「本当にありがとうねぇ」


男性が何度も頭を下げる。


朝倉くんは少し照れくさそうに笑って、歩き出した。


私には気づかなかったようだった。


その後ろ姿を見送りながら、私はふと、懐かしい人のことを思い出していた。


(……あの人も、そうだったわね)


私の主人も、困っている人を放っておけない人だった。


誰かが困っていると、すぐに声をかける。


自分が急いでいるときでも、つい足を止めてしまう。


そんな人だった。


(……少し、似ているのかもしれないわね)


私は小さく笑って、また歩き始めた。


*


それから、リアンで朝倉くんを見かける機会が増えた。


星莉奈ちゃんと話す姿も、少しずつ変わっていった。


最初の頃は、どこか遠慮がちだった二人。


けれど、いつの間にか自然に冗談を言い合うようになっていた。


「朝倉さん、今日もお仕事ですか?」


「はい。家だとちょっと集中できなくて」


「ふふっ。じゃあ、今日は集中できるように静かにしておきますね」


「いや、それは寂しいんで、普通に話しかけてください」


「えっ?」


「……あ、今のなしで」


「ふふっ。分かりました」


そんなやり取りを聞いていると、こちらまで楽しくなってくる。


特に星莉奈ちゃん。


朝倉くんが来ると、ほんの少しだけ声が明るくなる。


注文を取りに行く足取りまで軽く見えるのだから、不思議なものだ。


ある日、朝倉くんが帰ったあと。


星莉奈ちゃんが、しばらく扉のほうを眺めていたことがあった。


「……星莉奈ちゃん?」


「あっ、はい!」


「ふふっ。何を見ていたの?」


「えっ? い、いえ、別に……」


頬がほんのり赤くなる。


私は思わず笑ってしまった。


(……あらあら)


自分では、まだ気づいていないのかしら。


それとも、気づかないふりをしているのかしら。


どちらにしても、微笑ましいことだった。


私はあえて、それ以上何も聞かなかった。


若い二人には、若い二人の時間がある。


急がなくたっていい。


ゆっくり、自分たちの歩幅で進めばいいのだから。


*


けれど、そんな穏やかな日々の中で、思いがけない出来事が起きた。


朝倉くんが、動物園で結衣ちゃんを助けて怪我をしたのだ。


その話を聞いたとき、私は胸が締めつけられるようだった。


「……そんなことがあったのね」


星莉奈ちゃんは、ひどく心配そうな顔をしていた。


無理もない。


大切な娘を助けてもらったこと。


そして、そのために大切な人が傷ついてしまったこと。


どちらも、簡単に整理できる気持ちではないだろう。


私は何と言葉をかけたらいいのか、少し迷った。


けれど、星莉奈ちゃんの顔を見て、ただ静かに伝えた。


「……朝倉くんが、元気になって帰ってくるといいわね」


「……はい」


星莉奈ちゃんは、小さく頷いた。


私はその手を、そっと握った。


(……あの子なら、きっとそうしたでしょうね)


朝倉くんが結衣ちゃんを助けたと聞いても、不思議と驚きはなかった。


雨の日に見かけた、あの姿。


リアンで困っている親子に手を貸した、あの姿。


目の前に困っている人がいたら、考えるより先に身体が動いてしまう。


そういう青年なのだろう。


けれど。


だからといって、心配にならないわけではない。


誰かを助ける人にも、待っている人がいるのだから。


*


やがて、朝倉くんが退院した。


そして、再びリアンへ顔を出すようになった。


その頃には、二人の関係も変わっていた。


「……あら。そうだったのねぇ」


星莉奈ちゃんから、朝倉くんと恋人になったと聞いたとき。


私は思わず、そう声を漏らした。


「……はい」


星莉奈ちゃんは、恥ずかしそうに俯いている。


「ふふっ。おめでとう、星莉奈ちゃん」


「……ありがとうございます」


「よかったわねぇ」


本当に、そう思った。


あの二人なら、きっと大丈夫。


そう思える理由が、私にはいくつもあった。


*


「鈴さん?」


ふと声をかけられて、私は顔を上げた。


目の前には、星莉奈ちゃんが立っていた。


「コーヒーのおかわり、いかがですか?」


「あら、ありがとう。お願いしようかしら」


「はい」


星莉奈ちゃんが、カップを手に取る。


私はその横顔を眺めながら、ふと思いついたことを口にした。


「ねえ、星莉奈ちゃん」


「はい?」


「朝倉くんって、いい子ねぇ」


「……はい」


迷いのない返事だった。


私は思わず笑ってしまった。


「ふふっ。ずいぶん即答するのね」


「……あっ」


星莉奈ちゃんが、恥ずかしそうに頬を染める。


本当に、可愛らしいこと。


「私の主人もね、朝倉くんに少し似ていたのよ」


「……そうなんですか?」


「ええ。困っている人を見ると、放っておけない人だったわ」


私は懐かしい気持ちで笑った。


「自分のことには無頓着なのに、人のこととなると一生懸命でね。私もずいぶん心配したものよ」


「……朝倉さんも、そういうところがあります」


「ふふっ。でしょうねぇ」


星莉奈ちゃんは、少し考えるように視線を落とした。


「……でも、私」


「うん?」


「朝倉さんが誰かを助けようとする気持ちは、すごく素敵だと思うんです」


「……そう」


「もちろん、怪我をしてほしくはないです。でも……」


そこで言葉を探すように、星莉奈ちゃんが口を閉じる。


私は、その続きを急かさなかった。


やがて彼女は、小さく微笑んだ。


「……あの人の優しいところが、好きなので」


その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。


(……そうね)


私も、そうだった。


あの人の優しさが好きだった。


時には心配で、怒ったこともあったけれど。


それでも、そんなあの人だからこそ、好きになったのだ。


「……星莉奈ちゃん」


「はい?」


「私の主人もね、きっと怖くないわけじゃなかったと思うの」


「……怖くないわけじゃない?」


「ええ。誰かのために動くとき、自分だって不安になることはあったでしょうね」


星莉奈ちゃんは、静かに耳を傾けていた。


「でも、それでも放っておけなかったんでしょうねぇ」


私は小さく笑った。


「だからね、もし朝倉くんが誰かのために一歩踏み出すことがあったら……」


少しだけ言葉を区切る。


そして、星莉奈ちゃんを見つめた。


「……あの子が帰ってくることを、信じて待っていてあげてね」


「……信じて、待つ」


「ええ。帰ってきたら、心配したって怒ってもいいのよ。泣いたっていい。でも最後には、おかえりって迎えてあげて」


星莉奈ちゃんは、しばらく黙っていた。


その瞳には、いろいろな思いが浮かんでいるように見えた。


きっと、動物園でのことを思い出しているのだろう。


やがて彼女は、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


その声は、小さかったけれど。


しっかりとした響きがあった。


「私、朝倉さんを信じます」


私は、優しく微笑んだ。


「……それでいいのよ」


そして、もう一つだけ伝えた。


「それにね、星莉奈ちゃん」


「はい?」


「ああいう人は、派手な幸せを約束するのは苦手かもしれないけれど……」


私は、朝倉くんの笑顔を思い浮かべた。


「毎日の中で、ちゃんとあなたを幸せにしてくれるわよ」


星莉奈ちゃんは、少しだけ目を潤ませた。


けれど、すぐに柔らかく笑った。


「……はい。私も、そう思います」


その笑顔を見たとき。


私は、若い頃の自分を思い出していた。


好きな人の話をするとき、自然と頬が緩んでしまうこと。


何気ない優しさが、嬉しくてたまらないこと。


一緒に過ごす明日が、楽しみで仕方なかったこと。


(……ふふっ)


懐かしいわねぇ。


けれど、それは口には出さなかった。


今はただ、この子の幸せを見守っていたかった。


*


リアンを出る頃には、空が少しずつ夕暮れの色に染まり始めていた。


私はいつもの商店街へ向かい、夕飯の買い物を済ませた。


八百屋で野菜を買って、お肉屋さんにも寄って。


ついでに、明日の朝食用のパンも買ってしまった。


「……あら、ちょっと買いすぎたかしら」


両手に提げた袋が、思ったよりも重い。


私は持ち手を握り直して、ゆっくりと歩き始めた。


この道を歩くと、時々昔のことを思い出す。


あの人が、まだ隣にいた頃のこと。


若い頃は、よく二人で買い物に出かけたものだった。


私があれこれ買い込んでしまうと、あの人は決まって荷物を持とうとした。


『あなた、私だってそれくらい持てるわよ』


そう言うと、あの人は笑って答えるのだ。


『知ってるよ。でも、俺が持ちたいんだ』


まったく。


格好つけるのが下手なくせに、時々そんなことを言う人だった。


「……ふふっ」


思わず笑みがこぼれる。


あれから、ずいぶん長い時間が経った。


あの人と歩いた道を、今は一人で歩いている。


それでも、不思議と寂しいばかりではなかった。


一緒に過ごした日々は、今も私の中に残っている。


「……鈴さん?」


不意に、後ろから声がした。


振り返ると、見覚えのある青年が立っていた。


「あら、朝倉くん」


「こんにちは。買い物帰りですか?」


「ええ。ちょっと買いすぎちゃったみたいでねぇ」


私が笑ってみせると、朝倉くんは手元の袋に目を落とした。


「結構重そうですね」


「大丈夫よ。これくらい」


「俺、持ちますよ」


「えっ?」


あまりに自然に言うものだから、思わず聞き返してしまった。


「いいのよ、朝倉くん。あなた、まだ腕が本調子じゃないでしょう?」


「もうだいぶよくなりましたから。無理のないほうの手で、一つだけでも」


そう言って、朝倉くんは笑った。


「それに、俺が持ちたいんです」


「……鈴さん?」


「ああ、ごめんなさいね」


私は小さく笑って、軽いほうの袋を差し出した。


「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」


「はい。任せてください」


朝倉くんは嬉しそうに受け取った。


そして、私の歩く速さに合わせて、隣を歩き始める。


「そういえば、リアンには寄ってきたんですか?」


「ええ。星莉奈ちゃんと、少しお話ししてきたところよ」


「そうなんですね」


「朝倉くんのことも、ちょっとね」


「えっ、俺のことですか?」


「ふふっ。何を話したかは内緒」


「ええー、気になるじゃないですか」


困ったように笑う横顔を見て、私もつられて笑った。


本当に、不思議な青年だ。


きっとこの子は、私の主人のことなんて何も知らない。


今、自分がどれほど懐かしい気持ちにさせてくれているのかも。


「……朝倉くん」


「はい?」


「星莉奈ちゃんのこと、大切にしてあげてね」


朝倉くんは、少し驚いた顔をした。


それから、照れくさそうに笑う。


「……はい。もちろんです」


その返事には、迷いがなかった。


私は満足して、前を向いた。


(……あなた)


心の中で、懐かしい人に呼びかける。


(今日ね、あなたによく似た子に会ったの)


夕暮れの道を、青年と並んで歩く。


あの頃とは違う足音。


違う声。


違う時間。


けれど、誰かの優しさに包まれて歩く帰り道は、あの頃と同じように温かかった。


(……あの子たちも、きっと幸せになれるわね)


私はそう思いながら、隣を歩く朝倉くんに微笑んだ。


「ありがとうね、朝倉くん」


「いえいえ。これくらい、いつでも言ってください」


……ああ。


本当に。


よく似ている。

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