第22話「人の恋なら、よく見える」
――田中舞視点――
朝のカフェ『リアン』。
店の扉を開けると、いつものコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
「おはようございまーす!」
「あ、舞ちゃん。おはよう」
カウンターの奥から、星莉奈さんが顔を出す。
いつもどおりの優しい声。
いつもどおりの柔らかな笑顔。
……の、はずなんだけど。
「…………」
「……舞ちゃん?」
「星莉奈さん」
「うん?」
「今日、なんかいいことありました?」
「えっ!?」
あ。
分かりやすい。
「いや、なんとなくですけど。いつもより機嫌よさそうだなーって」
「そ、そうかな?」
星莉奈さんは自分の頬に手を当てた。
そして、何かを思い出したみたいに、ふっと笑う。
……ほら。
絶対なんかあった。
「もしかして、朝倉くんですか?」
「っ!」
はい、確定。
私は思わず笑ってしまった。
「星莉奈さん、分かりやすすぎですって!」
「ち、違うの! その……」
「違うんですか?」
「……違わない、けど」
小さな声でそう答える星莉奈さん。
……可愛いな、この人。
私より二つ年上なのに、恋愛の話になると途端に年下みたいになるんだから。
「で? 何があったんですか?」
「昨日ね、朝倉さんと結衣と、三人で出かけたの」
「えっ、デートじゃないですか!」
「……うん」
星莉奈さんが、はにかむように笑った。
「すごく、楽しかった」
その顔を見ただけで、こっちまで嬉しくなる。
「いいですねぇ。どこ行ったんです?」
「ショッピングモールに行って、お買い物したり、ご飯を食べたり……」
「へえ! 結衣ちゃん、喜んだでしょう?」
「うん。ずっと楽しそうだった」
そこまでは、普通の会話だった。
……そこまでは。
「それでね、朝倉さんが結衣の歩く速さに合わせてくれて」
「へえ、優しいですね」
「そうなの。それに、結衣が気になるお店を見つけるたびに、ちゃんと立ち止まってくれて」
「うんうん」
「結衣が何か話すと、いつも目線を合わせて聞いてくれるの」
「ほうほう」
「昨日もね、結衣が眠っちゃったとき、おんぶしてくれて……。そのときの顔が、すごく優しくて」
「…………」
「まだ怪我も治りきってないのに、私たちのことばっかり気にしてくれるから、ちょっと心配になっちゃったんだけど……」
「…………」
「でも、結衣も安心しきっててね。朝倉さんの背中で、すごく幸せそうに眠ってたの」
……あ。
また始まった。
私は心の中で小さくため息をつく。
いや、いいんですよ?
いいんですけどね?
「星莉奈さん」
「ん?」
「私、昨日のデート楽しかったか聞いただけですよ?」
「……え?」
「いつの間に朝倉くんの好きなところ発表会になったんですか?」
「ええっ!?」
星莉奈さんの顔が、みるみる赤くなった。
「ち、違うの! そういうつもりじゃ……!」
「はいはい、ごちそうさまでーす!」
「もう、舞ちゃん!」
私は笑いながら、エプロンを身につけた。
……でも。
少し前までの星莉奈さんを思い出す。
結衣ちゃんのこと、お店のこと。
いつも周りの人のことを一番に考えて、自分のことは後回し。
そんな星莉奈さんが、今はこうして、自分の幸せを嬉しそうに話している。
それが、なんだか嬉しかった。
(……朝倉くん、やるじゃん)
本人が聞いたら、きっと照れるだろうけど。
私は心の中で、こっそり褒めておいた。
*
午前十時を少し過ぎた頃。
店内には、いつもの穏やかな時間が流れていた。
窓際の席には新聞を読むお客さん。
カウンターには、常連の鈴さん。
「星莉奈ちゃん、今日のコーヒーも美味しいわねぇ」
「ありがとうございます、鈴さん」
「それにしても……」
鈴さんが、星莉奈さんの顔をじっと見つめる。
「今日はずいぶん幸せそうねぇ」
私は思わず吹き出しそうになった。
さすが鈴さん。
目のつけどころが違う。
「そ、そうですか?」
「ええ。何かいいことでもあったの?」
「それがですね、鈴さん!」
私は待ってましたとばかりに口を開く。
「星莉奈さん、昨日デートだったんですよ!」
「ま、舞ちゃん!?」
「あらまあ!」
鈴さんの目が、ぱっと輝いた。
「朝倉くんと?」
「はい!」
「まあまあまあ!」
鈴さんは嬉しそうに両手を合わせた。
「それは素敵じゃない! 結衣ちゃんも一緒?」
「……はい。三人で出かけました」
星莉奈さんが、観念したように答える。
「いいわねぇ。三人でデートなんて」
「そうなんですよ。しかも星莉奈さん、朝からずーっと朝倉くんの話してるんです!」
「舞ちゃんっ!」
「ふふふ。あら、そうなの?」
鈴さんは楽しそうに笑った。
「朝倉くん、優しいものねぇ」
「……はい」
星莉奈さんが、素直に頷く。
その返事があまりにも早かったものだから、私はまた笑ってしまった。
「ほら! こういうところですよ、鈴さん!」
「あらあら。星莉奈ちゃん、すっかり恋する乙女ねぇ」
「も、もう……!」
星莉奈さんは真っ赤になりながら、カウンターの奥へ逃げていった。
鈴さんと顔を見合わせる。
そして、二人でくすくす笑った。
「……よかったわねぇ」
ふと、鈴さんが呟く。
その声は、さっきまでのからかうようなものとは違っていた。
「星莉奈ちゃん、最近本当にいい顔するようになったもの」
「……そうですね」
私も、自然と頷いていた。
「前から笑ってましたけど……なんていうか、今はもっと楽しそうです」
「ええ。あの子、ずっと頑張ってきたからねぇ」
鈴さんはコーヒーを一口飲んで、優しく微笑んだ。
「幸せになってほしいわね」
「……はい」
それは、私も同じ気持ちだった。
*
お昼の忙しい時間が過ぎて、店内が少し落ち着いた頃。
カラン、と扉のベルが鳴った。
「いらっしゃいませー!」
顔を上げると、そこには見慣れた長身の男性が立っていた。
「あ、悠人さん!」
「こんにちは、舞ちゃん」
一ノ瀬悠人さん。
朝倉くんの友達で、星莉奈さんの知り合い。
そして、ついこの前、私と爽太と一緒に焼肉を食べに行った人だ。
「今日はお休みですか?」
「うん。ちょっと近くまで来たから、寄ってみた」
「ありがとうございます! お好きな席どうぞ!」
悠人さんはカウンター席に腰を下ろした。
「いつものコーヒーでいいですか?」
「うん、お願い」
「はーい!」
私は注文を伝えて、カウンター越しに声をかける。
「そういえば悠人さん、この前はありがとうございました!」
「ん? 焼肉のこと?」
「そうです! 爽太、めちゃくちゃ喜んでましたよ」
「それならよかった」
悠人さんが、穏やかに笑う。
「でも、あの子には参ったな」
「あはは! 何がです?」
「肉を焼くたびに、へたっぴって言われるんだから」
「だって悠人さん、本当に焦がしてましたもん!」
「舞ちゃんまで言う?」
私は声を上げて笑った。
あの日の焼肉は、本当に賑やかだった。
悠人さんは見た目こそ完璧なイケメンなのに、意外と不器用なところがある。
それが、なんだか面白かった。
「爽太なんて、帰ってからもずっと悠人さんの話してましたよ」
「そうなの?」
「はい! 『おじちゃん、またごはんいこうね』って」
「ははっ。嬉しいな」
悠人さんは少し考えてから、言った。
「そういえば、次はハンバーグだったよね」
「……え?」
「爽太くんが食べたいって言ってたでしょ?」
「あ……はい」
覚えてたんだ。
あんな、子どもの何気ない一言を。
「今度、都合が合う日に行こうよ」
「……いいんですか?」
「もちろん。約束したからね」
悠人さんは、当たり前みたいにそう言った。
……なんだろう。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
爽太は、私にとって何より大切な存在だ。
だから、爽太のことを大切にしてくれる人には、自然と嬉しくなる。
「……ありがとうございます」
「ん?」
「爽太、きっと喜びます」
「それなら、俺も楽しみにしてるよ」
悠人さんは、そう言って笑った。
その笑顔を見て、私もつられて笑う。
……と。
「……ふふっ」
背後から、聞き覚えのある笑い声がした。
「……ん?」
振り返る。
そこには、コーヒーを運んできた星莉奈さんが立っていた。
なぜか、とても楽しそうな顔で。
「舞ちゃん、楽しそうだね」
「え?」
「一ノ瀬さんと、すっかり仲良しになったんだね」
「ちょっ、星莉奈さん!?」
なんでそうなる!?
「この前、一緒に焼肉に行ったんだって?」
「えっ? あ、はい。爽太も一緒に」
「そうなんだ。楽しかった?」
「そりゃもう! 爽太なんて、悠人さんのことすっかり気に入っちゃって!」
「ははっ。俺も楽しかったよ」
悠人さんが笑う。
すると、星莉奈さんも嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。二人とも、仲良くなったんですね」
「いやいや、普通ですよ!?」
「……私、普通じゃないなんて言ってないよ?」
「うっ……!」
(……しまった。余計なこと言った!)
星莉奈さんが、ちょっと楽しそうに笑っている。
……ああ、もう。
朝からからかいすぎた。
完全に仕返しされてる。
悠人さんは、そんな私たちのやり取りを不思議そうに眺めている。
「……何かあった?」
「何もないです!」
思わず即答してしまった。
すると、星莉奈さんがまた笑った。
……くっ。
朝の仕返しだ、これ。
*
悠人さんが帰ったあと。
私はカウンターを拭きながら、わざと大きくため息をついた。
「……星莉奈さーん」
「なあに?」
「さっき、絶対からかいましたよね?」
「えっ? 何のこと?」
しらばっくれるの、下手すぎる。
「悠人さんのことですよ!」
「ああ……」
星莉奈さんは、少し考えるような仕草をしてから、言った。
「でも、舞ちゃん。さっき、本当に楽しそうだったよ?」
「そりゃ楽しいですよ! 悠人さん、話しやすいし」
「うん」
「爽太にも優しいし、この前だって、あの子のくだらない話にずっと付き合ってくれて……」
「うんうん」
「それに、次はハンバーグ食べたいっていう約束まで覚えてくれてたんですよ? 普通、子どもが何気なく言ったことなんて忘れちゃうじゃないですか」
「……ふふっ」
「そういうところ、いい人だなって思うんですよね」
「……舞ちゃん」
「はい?」
「さっきの私と、同じこと言ってるよ?」
「…………」
…………あ。
私は、ぴたりと手を止めた。
星莉奈さんが、楽しそうに笑っている。
「朝倉さんのことを話してた私と、そっくり」
「ち、違いますって!」
「そう?」
「私は別に、そういう意味じゃなくて!」
「うんうん」
「爽太に優しくしてくれるのが嬉しいってだけで!」
「うん、分かるよ」
……その顔!
絶対分かってない!
いや、分かっててやってる!
「星莉奈さん、性格悪くなりました?」
「ええっ!?」
「朝倉くんと付き合ってから、なんか反撃してくるようになった気がするんですけど!」
「そ、そんなことないよ!」
「ありますって!」
私がそう言うと、星莉奈さんは困ったように笑った。
でも、その表情はどこか楽しそうで。
……まあ、いいか。
こんなふうに冗談を言い合えるのも、悪くない。
「……でも、舞ちゃん」
「はい?」
「一ノ瀬さん、本当に優しい人だと思うよ」
「……そうですね」
それは、素直に認められた。
「爽太くんのことも、ちゃんと見てくれてるんだね」
「……はい」
星莉奈さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、優しく微笑んで、仕事に戻っていった。
*
夕方。
窓の外が、少しずつオレンジ色に染まり始める。
お客さんの少なくなった店内で、私は洗い終えたカップを棚に戻していた。
ふと、今日の出来事を思い出す。
朝から朝倉くんの話ばかりしていた星莉奈さん。
鈴さんと一緒に、そんな星莉奈さんをからかったこと。
そして、悠人さんが来たこと。
……あの人、変わった人だな。
見た目は、どこからどう見ても完璧なイケメン。
仕事もできそうだし、話し方も落ち着いてる。
なのに、焼肉では肉を焦がすし、爽太には容赦なく「へたっぴ」って言われるし。
それでも、全然嫌な顔をしない。
むしろ、爽太と一緒になって笑っていた。
(……いい人、なんだよね)
それは間違いない。
でも。
「…………」
私は、カップを置いた。
……いやいや。
何考えてんの、私。
別に、そういうんじゃないって。
悠人さんは、朝倉くんの友達で。
爽太にも優しくしてくれる、いい人で。
それだけ。
……それだけ、なんだけど。
「……ハンバーグ、かぁ」
思わず、呟いてしまった。
爽太、喜ぶだろうな。
きっとまた、悠人さんにあれこれ注文をつけるんだろう。
「おじちゃん、へたっぴー!」
なんて言いながら。
……ふふっ。
想像したら、ちょっと笑えてきた。
「……舞ちゃん?」
「うわっ!?」
突然声をかけられて、私は飛び上がった。
振り返ると、星莉奈さんが不思議そうに立っている。
「どうしたの? 一人で笑って」
「な、何でもないです!」
「……そう?」
「そうです!」
星莉奈さんは、少しだけ首を傾げた。
そして。
「……ふふっ」
また、あの笑顔。
「ちょっと! 星莉奈さん!」
「何も言ってないよ?」
「顔が言ってます!」
「ええっ!?」
二人で顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑い出した。
……まったく。
人の恋愛をからかうのは、あんなに楽しいのに。
自分がからかわれる側になると、こんなに落ち着かないなんて。
(……人の恋なら、よく見えるんだけどなぁ)
私は小さく笑って、またカップを磨き始めた。
悠人さんと、爽太と、三人で食べるハンバーグ。
その日が来るのを、ほんの少しだけ楽しみにしている自分がいた。
……まあ。
星莉奈さんには、まだ内緒にしておこう。
だって、これ以上からかわれるのは、ごめんだから。




