第21話「三人で、デート」
休日の朝。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、部屋を明るく照らしていた。
「……んーっ」
俺は大きく伸びをして、ベッドから起き上がった。
退院してから、しばらく経った。
頭の傷もだいぶ落ち着き、腕の痛みも以前ほどではなくなっている。
とはいえ、まだ完全に治ったわけじゃない。
医者からは、無理をしないようにと言われていた。
(まあ、今日は休みだしな)
スマートフォンを見ると、時刻は午前九時を少し過ぎたところだった。
特に予定はない。
仕事も昨日のうちに片づけてある。
(……リアンでも行こうかな)
そう思った瞬間、自分でも少し笑ってしまった。
(結局、休みの日も行くんだよな)
以前は、ただコーヒーを飲みに行く場所だった。
静かで、落ち着けて。
それだけで十分だった。
でも今は、少し違う。
あの店には、会いたい人がいる。
……いや。
二人、かな。
俺は顔を洗い、着替えを済ませると、家を出た。
*
リアンの扉を開けると、聞き慣れたベルの音が響いた。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、柔らかな声が聞こえる。
顔を上げると、橘さんがいた。
ほとんど白に近いアッシュグレーの短い髪。
光の加減で金色にも見える、琥珀色の瞳。
俺に気づくと、彼女はぱっと表情を明るくした。
「朝倉さん!」
「おはようございます、橘さん」
「おはようございます。今日はお休みですか?」
「はい。仕事も片づいたので」
「そうなんですね」
橘さんは、嬉しそうに笑った。
「……来てくださって、嬉しいです」
「…………」
こういうところだ。
この人は時々、何でもないような顔で、ものすごく嬉しいことを言う。
「俺も、会えて嬉しいです」
「……っ」
今度は橘さんが赤くなった。
「……もう」
小さく呟いて、視線をそらす。
……可愛い。
そう思った、そのときだった。
「つーくん!!」
店の奥から、元気な声が飛んできた。
小さな身体から出たとは思えないくらい、大きな声だった。
「おっと!」
駆け寄ってきた結衣ちゃんが、俺の目の前でぴたりと止まる。
「……つーくん、いたい?」
心配そうに、俺の腕を見上げた。
「大丈夫だよ。だいぶよくなったから」
「ほんと?」
「ほんと」
そう答えると、結衣ちゃんは安心したように笑った。
そして、俺の手をぎゅっと握る。
「つーくん!」
「ん?」
「きょう、デートしよ!」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
「デート?」
「うん!」
結衣ちゃんは、元気いっぱいに頷いた。
「ゆいと、ママと、つーくん!」
俺は、橘さんを見た。
橘さんも、驚いた顔をしている。
「ゆ、結衣!?」
「なあに?」
「朝倉さんにも予定があるかもしれないでしょ?」
「えー……」
結衣ちゃんは、不満そうに頬を膨らませた。
そして、俺を見上げる。
「つーくん、いそがしい?」
「いや」
俺はしゃがんで、結衣ちゃんと目線を合わせた。
「今日は何も予定ないよ」
「ほんと!?」
「うん」
「じゃあ、デート!」
「ははっ」
俺は笑って頷いた。
「ぜひ、お願いします」
「やったぁー!!」
結衣ちゃんが両手を上げた。
その様子を見て、橘さんも笑う。
「朝倉さん、本当にいいんですか?」
「もちろんです」
「でも、せっかくのお休みなのに……」
「俺も、二人と出かけたいですから」
橘さんは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「じゃあ、今日は三人で」
「はい」
俺は結衣ちゃんを見た。
「どこに行きたい?」
「えっとね!」
結衣ちゃんは少し考え込んだ。
そして。
「おっきいおみせ!」
「大きいお店?」
「うん! おようふくとか、おもちゃとか、いっぱいあるとこ!」
「ああ、ショッピングモールかな?」
「それ!」
結衣ちゃんは、嬉しそうに頷いた。
「そこいきたい!」
「ふふっ」
橘さんが笑った。
「じゃあ、今日はショッピングモールにしましょうか」
「やったー!」
こうして、思いがけず三人のデートが決まった。
*
昼前。
俺たちは、ショッピングモールに到着した。
休日ということもあって、館内は家族連れで賑わっている。
買い物袋を持った人たち。
ベビーカーを押す夫婦。
楽しそうに歩く子どもたち。
そんな中を、結衣ちゃんは目を輝かせながら歩いていた。
「ママ! あれみて!」
「結衣、走らないでね」
「はーい!」
返事だけは、ものすごくいい。
……返事だけは。
「元気ですね」
俺が笑うと、橘さんも苦笑した。
「今日は朝からずっと、こんな感じなんです」
「楽しみにしてたんですね」
「そうみたいです」
橘さんは、結衣ちゃんを見つめた。
その表情は、とても優しかった。
「朝倉さんとお出かけできるのが、嬉しいんだと思います」
俺は、少しだけ照れくさくなった。
「俺も、嬉しいですよ」
「……ふふっ」
橘さんが、柔らかく笑った。
そのとき。
「ママ! つーくん!」
結衣ちゃんが、俺たちを呼び止めた。
「どうしたの?」
「ゆい、まんなか!」
「……真ん中?」
「うん! ママ、こっち! つーくん、こっち!」
そう言って、結衣ちゃんは俺と橘さんの間に入り込んだ。
右手で俺の手を握り、左手で橘さんの手を握る。
「えへへ! これでかんぺき!」
「……ふふっ。結衣、嬉しそうね」
「だって、ふたりともだいすきだもん!」
俺と橘さんは、思わず顔を見合わせた。
……参ったな。
そんなことを言われたら、嬉しくないわけがない。
「じゃあ、結衣ちゃんを真ん中にして出発だね」
「しゅっぱーつ!」
小さな手に引っ張られながら、俺たちは歩き出した。
右側には俺。
左側には橘さん。
そして、真ん中には結衣ちゃん。
すれ違う人たちの中には、俺たちをちらりと見る人もいた。
きっと、普通の家族に見えるんだろうな。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
*
最初に入ったのは、子ども服のお店だった。
「つーくん! これ!」
結衣ちゃんが、小さなワンピースを持ってきた。
淡い黄色の生地に、白い花の模様が入っている。
「お、可愛いね」
「ほんと!?」
「うん。結衣ちゃんに似合いそう」
「えへへ!」
結衣ちゃんは、嬉しそうに笑った。
すると。
「……朝倉さん」
橘さんが、小さな声で話しかけてきた。
「結衣、最近ずっと、朝倉さんに褒めてもらいたがるんです」
「そうなんですか?」
「はい」
橘さんは、少し困ったように笑った。
「新しい服を着ると、『つーくん、かわいいっていうかな?』って」
……なんだ、それ。
可愛すぎるだろ。
「じゃあ、いっぱい褒めないとですね」
「ふふっ。お願いします」
結衣ちゃんは、そんな俺たちの会話を知らずに、別の服を探していた。
「ママ! これも!」
「はいはい、ちょっと待ってね」
……本当に。
見ていて飽きない子だ。
*
次に向かったのは、雑貨屋だった。
店内には、ぬいぐるみや文房具、小さなアクセサリーが並んでいる。
「わぁ!」
結衣ちゃんが、目を輝かせた。
そして、真っ先に向かったのは、ぬいぐるみのコーナーだった。
「つーくん! みて!」
「ん?」
結衣ちゃんが抱えていたのは、大きなカバのぬいぐるみだった。
「カバ?」
「うん!」
結衣ちゃんは、得意げに頷いた。
「そうたくん、カバすきなの!」
「ああ、そういえば」
動物園での爽太くんを思い出す。
あの子は、カバが大好きだった。
「そうたくん、つよいカバがすきなんだよ!」
「ははっ。そうだったね」
「これ、そうたくんにみせたい!」
「ふふっ」
橘さんが笑った。
「じゃあ、今度爽太くんと一緒に来たときに見せてあげようね」
「うん!」
結衣ちゃんは、名残惜しそうにカバを棚へ戻した。
そして、今度は小さなキーホルダーを見つけた。
「あ!」
「どうしたの?」
「これ、かわいい!」
結衣ちゃんが指さしたのは、小さな動物のキーホルダーだった。
ころんと丸い形をした、可愛らしいクマ。
その隣には、ウサギやネコも並んでいる。
「可愛いね」
俺が言うと、結衣ちゃんは嬉しそうに頷いた。
「ゆい、これがいい!」
「ふふっ」
橘さんが笑った。
「じゃあ、一つ買いましょうか」
「ううん!」
結衣ちゃんは、首を振った。
「……え?」
「ママも!」
そう言って、ウサギのキーホルダーを手に取る。
「私も?」
「うん!」
そして、今度は俺の方を向いた。
「つーくんも!」
「……え?」
結衣ちゃんは、ネコのキーホルダーを差し出した。
「おそろい!」
俺と橘さんは、顔を見合わせた。
そして。
「ははっ」
「ふふっ」
同時に笑ってしまった。
「じゃあ、三人でおそろいにしようか」
「うん!」
結衣ちゃんは、満面の笑みを浮かべた。
こうして、クマとウサギとネコ。
三つの小さなキーホルダーが、俺たちのものになった。
*
昼食は、フードコートで食べることにした。
結衣ちゃんは、お子様ランチ。
橘さんはパスタ。
俺は、ハンバーグ定食を注文した。
「いただきまーす!」
結衣ちゃんが、元気よく手を合わせる。
「いただきます」
俺たちも、それに続いた。
「つーくん!」
「ん?」
「ハンバーグ、おいしい?」
「うん。おいしいよ」
「ゆいも!」
結衣ちゃんは、自分のお皿を指さした。
「おんなじ!」
「ほんとだ」
「えへへ!」
そんな会話をしながら、食事を進めていた。
すると。
「ねえ、つーくん」
結衣ちゃんが、突然真剣な顔になった。
「ん?」
「つーくんって、ママのことすき?」
「……っ!?」
危うく、飲みかけの水を吹き出すところだった。
「ゆ、結衣!?」
橘さんも、驚いて声を上げた。
けれど、結衣ちゃんはきょとんとしている。
「だって」
小さなフォークを置いて、続けた。
「ママ、つーくんのおはなしすると、にこにこするもん!」
橘さんの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「ゆ、結衣……!」
「ほんとだよ!」
「……もう……」
橘さんは、両手で顔を覆ってしまった。
俺は、そんな二人を見て少しだけ笑った。
「……うん」
結衣ちゃんが、俺を見る。
「……?」
「大好きだよ」
橘さんが、顔を上げた。
俺は、少し照れくさくなりながらも、続けた。
「橘さんのこと、大好きだよ」
「……朝倉さん……」
橘さんの琥珀色の瞳が、少しだけ揺れた。
そして。
「えへへ!」
結衣ちゃんが、嬉しそうに笑った。
「ゆいも、つーくんだいすき!」
「ははっ」
俺は、結衣ちゃんを見た。
「俺も、結衣ちゃんが大好きだよ」
「やったぁ!」
結衣ちゃんは、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、みんなだいすき!」
「そうだね」
橘さんが、優しく笑った。
「みんな、大好きね」
俺は、そんな二人を見つめた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
……幸せだな。
心から、そう思った。
*
午後は、館内をゆっくり見て回った。
結衣ちゃんが気になったお店に入って、小さな雑貨を眺めたり、休憩にジュースを飲んだり。
途中、俺の腕を心配した橘さんが、何度も声をかけてくれた。
「朝倉さん、疲れてませんか?」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「はい」
「無理してません?」
「ふふっ」
思わず笑ってしまった。
「橘さん」
「はい?」
「そんなに心配しなくても、大丈夫です」
「でも……」
俺は、少しだけ笑った。
「疲れたら、ちゃんと言いますから」
橘さんは、少し考えてから頷いた。
「……約束ですよ?」
「はい。約束です」
そう言うと、彼女は安心したように微笑んだ。
……本当に、優しい人だ。
*
夕方。
ショッピングモールを出る頃には、空が茜色に染まり始めていた。
「……ふわぁ」
結衣ちゃんが、大きなあくびをした。
「結衣?」
橘さんが、顔を覗き込む。
「眠い?」
「ねむくない」
そう答えながら、またあくびをする。
「ふふっ」
橘さんが笑った。
「無理しなくていいのよ」
「まだ、あそぶ」
「今日はいっぱい遊んだでしょ?」
「……うん」
結衣ちゃんは、俺の手をぎゅっと握った。
「つーくん」
「ん?」
「たのしかった」
「うん」
俺は、笑った。
「俺も、すごく楽しかったよ」
「えへへ」
結衣ちゃんは、嬉しそうに笑った。
けれど、その数分後。
近くのベンチで休憩しているうちに。
「……すぅ……」
小さな寝息が聞こえてきた。
「あ」
橘さんが、結衣ちゃんを見つめた。
「寝ちゃいましたね」
「ですね」
俺は、思わず笑った。
さっきまで、あんなに元気だったのに。
今は、橘さんの肩にもたれて、気持ちよさそうに眠っている。
「結衣、起きて」
橘さんが、優しく声をかける。
けれど。
「……んぅ……」
結衣ちゃんは、少し身じろぎしただけだった。
「ふふっ」
俺は、笑った。
「よっぽど楽しかったんですね」
「そうみたいです」
橘さんは、優しく結衣ちゃんの髪を撫でた。
「……どうしましょう」
「俺、おんぶしますよ」
「えっ!?」
橘さんが、驚いて顔を上げた。
「でも、朝倉さん、まだ腕が……」
「あ」
……そうだった。
つい、いつもの調子で言ってしまった。
「じゃあ、少しだけ」
俺は、苦笑した。
「痛くなったら、すぐ言います」
「でも……」
「大丈夫です。無理はしません」
橘さんは、少し迷っていた。
それから。
「絶対、無理しないでくださいね」
「はい。約束します」
俺は、ゆっくりとしゃがんだ。
橘さんに手伝ってもらいながら、結衣ちゃんをそっと背中に乗せる。
小さな腕が、俺の肩に回った。
「よいしょ」
立ち上がる。
……軽い。
いや、もちろん重さはある。
でも、背中に感じる温もりが、なんだか嬉しかった。
「朝倉さん、大丈夫ですか?」
「はい。今のところは」
「少し歩いたら、休みましょうね」
「わかりました」
俺たちは、ゆっくり歩き出した。
背中から、小さな寝息が聞こえる。
「……すぅ……」
「ふふっ」
橘さんが、隣で笑った。
「結衣、気持ちよさそう」
「ですね」
そのとき。
「……つーくん……」
背中から、小さな声が聞こえた。
「ん?」
俺は、少しだけ首を傾けた。
「……だいすき……」
思わず、足が止まりそうになった。
橘さんも、驚いたように目を丸くしている。
そして、優しく笑った。
俺も、つられて笑った。
「……俺もだよ、結衣ちゃん」
小さな声で、そう答えた。
*
しばらく歩いたところで、俺たちは公園のベンチに腰を下ろした。
結衣ちゃんは、橘さんの膝の上で眠っている。
俺は、軽く肩を回した。
「朝倉さん、痛くないですか?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
俺は、笑った。
「でも、ちょっと休憩したいです」
「ふふっ」
橘さんが、安心したように笑った。
「そうしてください」
夕暮れの公園。
遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえる。
風が、木々の葉を揺らしていた。
俺たちは、しばらく何も言わずに座っていた。
やがて。
「朝倉さん」
橘さんが、静かに口を開いた。
「はい?」
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
俺は、笑った。
「すごく楽しかったです」
「私もです」
橘さんは、眠る結衣ちゃんの髪を撫でた。
「結衣も、きっと」
「そうですね」
「最近、結衣が本当に嬉しそうなんです」
橘さんは、少しだけ視線を落とした。
「朝倉さんと会える日を、いつも楽しみにしていて」
「…………」
「今日も、朝からずっとそわそわしてたんですよ」
俺は、眠っている結衣ちゃんを見つめた。
小さな手。
柔らかい髪。
安心しきった寝顔。
「……俺も」
静かに、口を開いた。
「結衣ちゃんに会えるの、いつも楽しみなんです」
「…………」
「もちろん、橘さんにも」
橘さんが、顔を上げた。
「……朝倉さん……」
俺は、少し照れくさく笑った。
「二人といると、落ち着くんです」
「…………」
「なんか、帰ってきたって感じがして」
橘さんは、しばらく俺を見つめていた。
そして。
「……私も、です」
小さく呟いた。
「朝倉さんが来てくださると、ほっとするんです」
「…………」
「結衣も、私も」
橘さんは、優しく微笑んだ。
「こういう時間が、ずっと続いたらいいですね」
俺は、少しだけ考えた。
そして。
「続けましょう」
「……え?」
「三人で」
橘さんが、目を丸くした。
俺は、少し照れくさく笑った。
「俺も、そうしたいですから」
橘さんの瞳が、夕日に照らされて輝いた。
そして。
「……はい」
小さく、頷いた。
「私も、そうしたいです」
その笑顔を見て、俺は心から思った。
……この人たちと、一緒にいたい。
これからも。
ずっと。
*
しばらくして。
橘さんが、ふと俺の方を向いた。
「朝倉さん」
「はい?」
「ちょっと、こっち向いてもらえますか?」
「……え?」
何だろう。
そう思いながら、顔を向けた。
その瞬間。
――ちゅっ。
「……え?」
頬に、柔らかい感触が触れた。
ほんの一瞬。
けれど、何が起きたのか理解するには十分だった。
橘さんが、俺の頬にキスをした。
「きょ、今日は、その……ありがとうございました」
橘さんは、耳まで真っ赤になっている。
……いや、待って。
可愛すぎないか、この人。
「橘さん」
「は、はい」
「それ、反則です」
「えっ?」
「俺、心臓止まるかと思いました」
「もう、朝倉さんったら……」
橘さんは恥ずかしそうに俯いた。
けれど、その口元は少し笑っている。
俺は、そっと彼女の手を握った。
「俺も、今日はすごく楽しかったです」
「……はい」
「それに」
「……?」
「キス、嬉しかったです」
「……っ!」
橘さんの顔が、さらに赤くなる。
「そ、そんなこと……わざわざ言わなくても……」
「言いたかったので」
「……もう……」
小さく笑う彼女を見ていたら、ふと思った。
……俺ばっかり、ドキドキさせられてるな。
少しくらい、仕返ししてもいいだろうか。
「橘さん」
「はい?」
「……俺からも、いいですか?」
「……え?」
俺の視線に気づいたのか、橘さんが小さく息を呑んだ。
そして、膝の上で眠る結衣ちゃんをちらりと見る。
「……結衣、寝てますけど……」
「……はい」
橘さんは少し迷ったあと、恥ずかしそうに目を伏せた。
「……少しだけ、なら」
……まずい。
今の一言で、俺の心臓が本当におかしくなりそうだ。
俺は、ゆっくりと顔を近づけた。
橘さんも、そっと目を閉じる。
あと少し。
ほんの少しで、唇が触れる。
そのときだった。
「……ママぁ?」
「「っ!?」」
俺たちは、弾かれたように顔を離した。
橘さんの膝の上で、結衣ちゃんが目をこすっている。
「あれ? つーくん?」
「お、おはよう、結衣ちゃん!」
……声が裏返った。
「つーくん、なんでおかお、あかいの?」
「えっ!? いや、これは……」
「ママも、まっか!」
「ゆ、結衣! これは、その……!」
結衣ちゃんは、俺と橘さんを交互に見た。
そして、不思議そうに首を傾げる。
「……ふたりとも、おねつ?」
「「違うよ!?」」
見事に声が重なった。
「……?」
結衣ちゃんは、ますます不思議そうな顔をした。
俺は思わず吹き出してしまった。
「ははっ!」
「もう、朝倉さんまで!」
橘さんも、困ったように笑い始める。
すると結衣ちゃんが、突然両手を広げた。
「じゃあ、ゆいがなおしてあげる!」
「……え?」
「つーくん、こっち!」
俺が顔を近づけると。
――ちゅっ。
結衣ちゃんが、俺の頬にキスをした。
「……!」
「えへへ! これでげんき!」
俺は、思わず笑ってしまった。
「ありがとう、結衣ちゃん。すっかり元気になったよ」
「ほんと!?」
「うん」
すると結衣ちゃんは、今度は橘さんの頬にもキスをした。
「ママも!」
「ふふっ。ありがとう、結衣」
結衣ちゃんは満足そうに笑った。
「これで、みんなげんき!」
俺と橘さんは、顔を見合わせた。
そして、また笑った。
……まったく。
敵わないな、この子には。
唇へのキスは、お預けになってしまったけれど。
不思議と、残念な気持ちはなかった。
だって、今、目の前には。
大好きな人が二人もいて。
二人とも、幸せそうに笑っている。
それだけで、十分だった。
「……さて」
俺は立ち上がり、結衣ちゃんに手を差し出した。
「そろそろ帰ろうか」
「うん!」
結衣ちゃんが、俺の手を握る。
橘さんも立ち上がり、反対側に並んだ。
「朝倉さん」
「はい?」
橘さんが、結衣ちゃんには聞こえないくらいの小さな声で囁いた。
「……さっきの続きは、また今度……ですね」
「……っ!?」
思わず、彼女を見る。
橘さんは、頬を赤くしながらも、いたずらっぽく微笑んでいた。
……ああ、もう。
やっぱり、この人には敵わない。
「楽しみにしてます」
俺がそう答えると、橘さんはさらに顔を赤くした。
「……もうっ」
そのとき。
「ママ! つーくん! はやくー!」
結衣ちゃんが、元気よく手を伸ばした。
「はいはい」
橘さんが笑いながら、結衣ちゃんの左手を握る。
俺も反対側に回り、結衣ちゃんの右手を握った。
「えへへ!」
結衣ちゃんは、満足そうに笑った。
「ゆい、まんなか!」
「うん。結衣ちゃんの特等席だね」
「とくとうせき!」
嬉しそうに繰り返す結衣ちゃんを見て、橘さんも笑った。
俺たちは、三人並んで歩き出す。
真ん中には、結衣ちゃん。
その両隣に、俺と橘さん。
夕暮れの道に、三人の影が長く伸びていた。
いつか、この小さな手が大きくなって、一人で歩いていく日が来るんだろう。
でも、今は。
この手を、ちゃんと握っていたい。
俺は、結衣ちゃんの手をそっと握り返した。
「つーくん!」
「ん?」
「また、さんにんでデートしようね!」
「……うん。約束だよ」
「やったぁ!」
隣で、橘さんが優しく笑っていた。
今日という日が、俺たち三人にとって、忘れられない思い出になった気がした。




