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第19話「あの日、怖くなかったのか」

退院してから、一週間が経った。


頭の傷はまだ完全には治っていない。


鏡を見ると、髪の隙間から傷跡が覗く。


医者からは、しばらく無理をしないようにと言われている。


それでも。


少しずつ、いつもの生活が戻ってきていた。


自宅でパソコンを開き、仕事をする。


休憩時間には、リアンへコーヒーを飲みに行く。


そして。


橘さんと、他愛もない話をする。


……ただ。


以前と少しだけ違うことがある。


「……朝倉さん」


「はい?」


「……今日も、来てくれたんですね」


そう言って、嬉しそうに笑う彼女。


「……はい。コーヒー飲みに」


「……ふふっ。それだけですか?」


「…………」


「……?」


「……橘さんに会いに、です」


「…………っ」


星莉奈の頬が、一瞬で赤くなった。


「……もう、朝倉さんったら」


そう言って、嬉しそうに俯く。


そのとき。


「……あらあら」


「「……え?」」


二人が同時に振り向くと、少し離れた席でコーヒーを飲んでいた鈴さんが、にこにこと笑っていた。


「お熱いわねぇ〜!」


「す、鈴さん!?」


星莉奈が慌てて声を上げる。


「ふふふ。私のコーヒーまで甘くなっちゃいそうだわ」


「そ、そんな……!」


星莉奈は耳まで真っ赤になった。


隣では、俺も顔を赤くして固まっている。


「……あら、朝倉さんまで真っ赤」


「い、いや、これは……!」


「ふふっ。若いっていいわねぇ」


鈴さんは楽しそうに笑いながら、コーヒーを一口飲んだ。


「……お砂糖、いらなかったかしら」


「「鈴さんっ!!」」


二人の声が、見事に重なった。


……いや。


恥ずかしい。


ものすごく、恥ずかしい。


(……絶対、全部聞かれてたよな)


俺は思わず、顔を覆った。


けれど。


隣を見ると、橘さんも同じように顔を赤くしている。


目が合う。


「…………」


「…………」


そして。


「……ふふっ」


「……ははっ」


二人で、小さく笑ってしまった。


……こんな時間が、たまらなく好きだった。


*


ある日の夕方。


仕事を終えてスマートフォンを見ると、一件のメッセージが届いていた。


送り主は、一ノ瀬悠人。


『朝倉くん、退院して少し経ったけど、体調はどう?』


『だいぶよくなりました。ありがとうございます』


そう返信すると、すぐに次のメッセージが届いた。


『よかった。よかったら今度、飯でもどう?』


「……ご飯?」


思わず声に出してしまった。


一ノ瀬さんとは、リアンで何度も顔を合わせている。


動物園にも一緒に行った。


けれど。


二人きりで食事をしたことは、一度もない。


(……珍しいな)


少しだけ不思議に思いながらも、俺は返信した。


『ぜひ。楽しみにしてます』


すると。


『じゃあ、今週の金曜日。俺が店を探しておくよ』


『ありがとうございます』


『あと、無理はするなよ』


「……ははっ」


最後の一文に、思わず笑ってしまった。


(……一ノ瀬さんらしいな)


俺はスマートフォンを置き、椅子の背もたれに身体を預けた。


窓の外は、夕焼けに染まっていた。


*


金曜日の夜。


待ち合わせ場所に着くと、すでに一ノ瀬さんが立っていた。


整った顔立ち。


すらりとした長身。


落ち着いた色のジャケットを着こなしている。


……相変わらず、絵になる人だ。


「朝倉くん!」


俺に気づいた一ノ瀬さんが、片手を上げた。


「こんばんは。一ノ瀬さん」


「おう。体調、大丈夫?」


「はい。もうだいぶ」


「そっか。よかった」


一ノ瀬さんは、ほっとしたように笑った。


「じゃあ、行こうか。近くにいい店があるんだ」


「はい」


案内されたのは、駅から少し歩いたところにある、小さな洋食店だった。


木目調の落ち着いた店内。


温かみのある照明。


食欲をそそる香りが漂っている。


「……いいお店ですね」


「だろ? ここのハンバーグ、うまいんだよ」


「じゃあ、俺もそれにします」


「お、話が早いな」


二人で笑いながら、席に着いた。


*


料理が運ばれてくるまで、俺たちは他愛もない話をした。


仕事のこと。


最近見た映画のこと。


リアンのこと。


「そういえば、朝倉くんってプログラマーなんだよな?」


「はい。フリーランスですけど」


「へえ。家で仕事してるんだ?」


「そうですね。基本的には」


「いいなぁ。通勤しなくていいのは羨ましい」


「でも、ずっと家にいると気が滅入りますよ」


「だからリアンに通ってるわけか」


「……まあ、そうですね」


「……それだけ?」


「…………」


一ノ瀬さんが、にやりと笑う。


「……何ですか、その顔」


「いやぁ? 別に?」


「……絶対何か考えてますよね」


「はははっ!」


……この人。


なんだか今日は、妙に楽しそうだ。


やがて。


注文したハンバーグが運ばれてきた。


「……いただきます」


ナイフを入れると、肉汁がじゅわっと溢れ出す。


一口食べる。


「……うまっ」


「だろ?」


一ノ瀬さんが、得意げに笑った。


「ここ、昔から気に入ってるんだ」


「……いい店、知ってますね」


「まあな」


そんな会話をしながら、食事は進んでいった。


けれど。


ふとした瞬間。


一ノ瀬さんが、少しだけ真剣な表情を見せることがあった。


何かを言いかけて。


また、飲み込む。


(……何か、話したいことがあるのかな)


俺は、そう思った。


*


食事も終わりに近づいた頃。


一ノ瀬さんが、静かに口を開いた。


「……なあ、朝倉くん」


「はい?」


「……ひとつ、聞いてもいい?」


「……何ですか?」


一ノ瀬さんは、少しだけ視線を落とした。


そして。


「……あの日さ」


その言葉に、俺は自然と背筋を伸ばした。


「……動物園で、結衣ちゃんを助けたとき」


「…………」


「……怖くなかったの?」


俺は、一ノ瀬さんを見つめた。


その表情は、真剣だった。


からかっているわけでもない。


興味本位でもない。


本当に。


ずっと、聞きたかったのだろう。


「…………」


俺は、少しだけ考えた。


あの日のことを。


結衣ちゃんが走り出した瞬間。


坂を下ってくるカート。


橘さんの悲鳴。


そして。


目の前に迫ってきた、あの光景。


「……怖かったですよ」


俺は、静かに答えた。


「……え?」


一ノ瀬さんが、少し驚いた顔をした。


「……正直、めちゃくちゃ怖かったです」


「…………」


「カートが見えたとき、頭が真っ白になって」


俺は、苦笑した。


「……あのとき、どうやって身体が動いたのか、自分でもよく覚えてないんです」


一ノ瀬さんは、黙って聞いていた。


「……ただ」


俺は、手元のグラスを見つめた。


「……結衣ちゃんが怪我するところだけは、見たくなかったんです」


「…………」


「だから、気づいたら走ってました」


俺は、少し照れくさそうに笑った。


「……格好いい理由じゃなくて、すみません」


「…………」


一ノ瀬さんは、しばらく何も言わなかった。


やがて。


「……そっか」


小さく、呟いた。


「……怖かったんだな」


「……はい」


「…………」


一ノ瀬さんは、ゆっくりと息を吐いた。


「……俺さ」


「……はい」


「……あの日、何もできなかったんだよ」


「…………」


「結衣ちゃんが走り出して、カートが来て」


一ノ瀬さんは、拳を軽く握った。


「……気づいたときには、朝倉くんが飛び出してた」


「…………」


「俺も、助けなきゃって思ったんだ」


その声が、少しだけ低くなる。


「……でも、身体が動かなかった」


俺は、黙って聞いていた。


「……怖かったんだよ」


一ノ瀬さんは、自嘲するように笑った。


「……情けないよな」


「…………」


「朝倉くんは飛び出して、結衣ちゃんを守ったのに」


「…………」


「俺は、ただ見てることしかできなかった」


一ノ瀬さんは、視線を落とした。


「……ずっと、考えてたんだ」


「…………」


「もし、あのとき俺が先に動けてたらって」


店内には、静かな音楽が流れていた。


周囲の客の話し声が、遠くに聞こえる。


俺は、しばらく一ノ瀬さんを見つめていた。


そして。


「……一ノ瀬さん」


「……ん?」


「……救急車、呼んでくれたのって、一ノ瀬さんですよね?」


「…………え?」


一ノ瀬さんが顔を上げた。


「あと、周りの人に声をかけて、店員さんも呼んでくれて」


「……まあ」


「……俺、あのとき意識なくしてたから」


俺は、少しだけ笑った。


「……一ノ瀬さんが動いてくれなかったら、どうなってたかわかりません」


「…………」


「俺は、結衣ちゃんを抱きしめることしかできなかったんです」


「…………」


「そのあと、みんなを助けてくれたのは、一ノ瀬さんですよ」


一ノ瀬さんは、目を見開いたまま、俺を見ていた。


「……でも」


「……?」


「……俺、思うんです」


俺は、少しだけ視線を落とした。


「……あの日、誰か一人でも欠けてたら、きっと違う結果になってたんじゃないかって」


「…………」


「舞さんが子どもたちを守ってくれて」


「……ああ」


「橘さんが、ずっと結衣ちゃんのそばにいてくれて」


「…………」


「一ノ瀬さんが、救急車を呼んでくれた」


俺は、顔を上げた。


「……だから、俺は今、こうしてここにいられるんです」


「…………」


「……ありがとうございました」


そう言って、頭を下げた。


一ノ瀬さんは、しばらく何も言わなかった。


そして。


「……はぁ」


大きく、息を吐いた。


「……なんだよ、それ」


「……え?」


「……俺、慰めてもらうつもりで来たわけじゃないんだけどな」


一ノ瀬さんは、困ったように笑った。


「……でも」


「…………」


「……ありがとな、朝倉くん」


俺も、笑った。


「……こちらこそ」


*


それから、しばらく。


二人の間には、穏やかな時間が流れていた。


一ノ瀬さんは、グラスを持ち上げる。


そして。


「……なあ、朝倉くん」


「……はい?」


「……そろそろ、その呼び方やめない?」


「……え?」


「同い年だろ、俺たち」


一ノ瀬さんは、少しだけ照れくさそうに笑った。


「いつまでも一ノ瀬さんって、なんか距離感じるんだよな」


「……ああ」


俺は、思わず笑った。


「……確かに」


「だろ?」


「……じゃあ、何て呼べばいいですか?」


一ノ瀬さんは、少しだけ視線をそらした。


そして。


「……悠人、でいいよ」


「…………」


「……なんだよ、その顔」


「いや……一ノ瀬さんから言い出すとは思わなくて」


「だから、一ノ瀬さんじゃなくて悠人」


「……あ」


俺は、思わず吹き出した。


「……じゃあ」


少しだけ、照れくさい。


でも。


悪い気はしなかった。


「……悠人」


「……おう」


一ノ瀬さんが、嬉しそうに笑った。


「……俺のことも、翼でいいですよ」


「……翼、か」


一ノ瀬さんは、その名前を一度口にした。


そして。


「……よろしくな、翼」


「……うん。よろしく、悠人」


二人は顔を見合わせた。


なんだか、妙に照れくさい。


けれど。


不思議と、心地よかった。


*


「……そういえばさ」


悠人が、思い出したように口を開いた。


「……ん?」


「……橘さんと、付き合い始めたんだって?」


「…………っ!?」


俺は、思わず飲みかけの水を吹き出しそうになった。


「な、なんで知ってるんですか!?」


「……いや、リアンで知らないの、本人たちくらいじゃない?」


「……ええっ!?」


悠人は、楽しそうに笑った。


「……はははっ! やっぱりな!」


「……何がですか!」


「いやぁ、わかりやすいなと思って」


「……うっ」


俺は、思わず顔を覆った。


(……そんなにバレバレだったのか)


悠人は、そんな俺を見て、さらに笑った。


そして。


「……それにしてもさ」


「……はい?」


悠人は、わざとらしく髪をかき上げた。


「……なんで橘さん、こんなかっこいい俺じゃなくて、お前を選ぶかなぁ」


「…………は?」


俺は、目を瞬かせた。


「いや、どう考えても俺の方がいい男だろ?」


「……えぇ?」


「顔よし、仕事よし、性格よし」


「……性格よし?」


「そこ疑うところかよ!」


俺は、思わず吹き出した。


そして。


少しだけ胸を張った。


「……いや、俺の方がかっこいいからじゃない?」


「…………は?」


今度は、悠人が固まった。


「……お前、自分で言う!?」


「悠人が先に言ったんだろ!」


「いやいや! 俺とお前じゃ身長からして違うだろ!」


「身長は関係ないだろ!」


「あるだろ!」


「ないって!」


二人は、顔を見合わせた。


そして。


「……ぷっ」


「……ははっ!」


同時に、笑い出した。


あの日。


同じ場所にいて。


それぞれ、違う思いを抱えていた二人。


けれど。


今は、こうしてくだらないことで笑い合っている。


悠人は、笑いながらグラスを持ち上げた。


「……まあ、幸せにしてやれよ。翼」


俺は、その言葉に少しだけ目を丸くした。


そして。


まっすぐに頷いた。


「……うん」


少しだけ、照れくさそうに笑って。


「……任せてよ、悠人」


二人のグラスが、小さく触れ合った。


カチン、と。


小さな音が響く。


それは、まるで。


新しい友情の始まりを告げる音のようだった。

第19話をお読みいただき、ありがとうございます!


今回は、翼と悠人のお話でした。


あの日、結衣を守るために飛び出した翼。

そして、その後の救助に奔走した悠人。


二人とも怖かった。

それでも、それぞれにできることを精一杯やっていたんですよね。


ヒーローの形は、きっと一つじゃない。


そんな思いを込めたお話でした。


そして、ついに名前で呼び合うようになった二人!


せっかくいい雰囲気だったのに、最後はどっちがかっこいいかで言い合いに(笑)。


これからの二人の友情も、温かく見守っていただけたら嬉しいです。


次回もよろしくお願いします!

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