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第18話「ただいまの場所」

「……よし」


病室のベッドに腰掛けながら、朝倉翼は小さく呟いた。


目の前には、荷物を詰め終えたバッグ。


窓の外には、雲ひとつない青空が広がっている。


あの日から、二週間ほどが経った。


動物園での事故。


結衣を助けようとして負った怪我は、決して軽いものではなかった。


頭にはまだ傷が残っているし、腕も完全には治っていない。


医師からは、しばらく無理をしないようにと念を押されていた。


それでも。


今日、ようやく退院できる。


「……長かったなぁ」


翼は、そっと息を吐いた。


自宅で仕事をしている自分にとって、外出できない生活はそれほど苦痛ではないと思っていた。


けれど。


病院のベッドの上で過ごす毎日は、想像以上に長かった。


パソコンを開いて仕事をすることも、思うようにはできない。


何より。


いつもの場所に行けないことが、こんなにも寂しいとは思わなかった。


「……リアンのコーヒー、飲みたいな」


思わず、そんな言葉が漏れる。


すると。


コンコン。


病室の扉がノックされた。


「……朝倉さん?」


聞き慣れた声。


翼は顔を上げた。


「はい!」


扉が開く。


そこに立っていたのは、橘星莉奈だった。


柔らかな色のブラウスに、落ち着いた色合いのスカート。


短いアッシュグレーの髪が、窓から差し込む光に照らされている。


「おはようございます、朝倉さん」


「お、おはようございます、橘さん」


星莉奈は、ふわりと微笑んだ。


「退院、おめでとうございます」


「……ありがとうございます」


その笑顔を見た瞬間。


翼の胸が、少しだけ高鳴った。


……まだ、慣れない。


病院で、お互いの気持ちを伝え合ってから。


星莉奈の顔を見るたびに、どうしても意識してしまう。


以前だって、十分に意識していた。


けれど今は。


(……この人、僕のこと好きなんだよな)


そんなことを考えてしまうのだから、どうしようもない。


「……朝倉さん?」


「は、はいっ!」


「どうかしました?」


「い、いえ! 何でもないです!」


「……ふふっ」


星莉奈は楽しそうに笑った。


「なんだか、朝倉さんらしいですね」


「……どういう意味ですか?」


「秘密です」


「えぇ……」


翼は困ったように笑う。


そんな何でもないやり取りが、ひどく嬉しかった。


*


退院の手続きを終え、二人は病院を出た。


外の空気は、少しだけ暖かかった。


「……ああ、外だ」


翼が空を見上げる。


「ふふっ。そんなに嬉しいですか?」


「そりゃもう。病室の天井ばっかり見てましたから」


「……そうですよね」


星莉奈は小さく頷いた。


そして、翼の腕に視線を落とす。


「……痛みは、大丈夫ですか?」


「はい。だいぶよくなりました」


「本当ですか?」


「本当ですよ」


「……無理してません?」


「してませんって」


翼は苦笑した。


「……橘さん、心配性ですね」


「……誰のせいだと思ってるんですか」


「……あ」


星莉奈が少しだけ頬を膨らませる。


その表情に、翼は思わず笑ってしまった。


「……すみません」


「もう……」


けれど、星莉奈もすぐに笑った。


そして。


「……あの、朝倉さん」


「はい?」


「退院したばかりで申し訳ないんですけど……」


星莉奈は、少しだけ言いにくそうに視線を落とした。


「……よかったら、リアンに寄っていきませんか?」


「……え?」


「結衣が……ずっと待ってるんです」


その言葉に、翼は目を瞬かせた。


「毎日、聞くんですよ」


星莉奈は微笑んだ。


「『つーくん、いつ帰ってくるの?』って」


「…………」


「今日も朝から、そわそわしてて」


星莉奈は少し困ったように笑う。


「……だから、顔を見せてあげてほしくて」


翼は、しばらく黙っていた。


そして。


「……もちろんです」


優しく笑った。


「僕も、結衣ちゃんに会いたかったですから」


星莉奈の表情が、ぱっと明るくなる。


「……ありがとうございます」


「それに」


「……?」


翼は、少しだけ照れくさそうに笑った。


「……橘さんのコーヒーも、恋しかったので」


「…………っ」


星莉奈の頬が、ほんのり赤くなった。


「……もう」


「……?」


「そういうこと、さらっと言うんですね」


「えっ!? いや、そんなつもりじゃ……!」


「……ふふっ」


星莉奈は楽しそうに笑った。


「じゃあ、今日は特別に、おいしいコーヒーを淹れますね」


「……楽しみにしてます」


二人は、ゆっくりと歩き出した。


*


カラン。


懐かしいベルの音が響いた。


「いらっしゃいませー!」


店内から、元気な声が返ってくる。


「……って!」


カウンターの奥にいた舞が、大きく目を見開いた。


「朝倉くん!!」


「……こんにちは、舞さん」


「退院したんですか!?」


「はい。今日、ようやく」


「うわー! おめでとうございます!!」


舞は満面の笑みを浮かべた。


「いやー、よかったですよ! 本当に!」


「……ありがとうございます」


「もう! 心配したんですからね!」


「……すみません」


「でも、元気そうで安心しました!」


舞の明るい声に、翼は自然と笑顔になる。


そのとき。


「……つーくん?」


小さな声が聞こえた。


翼が顔を向ける。


店の奥から、小さな女の子が顔を覗かせていた。


結衣だった。


「……結衣ちゃん」


翼が名前を呼んだ瞬間。


結衣の目が、大きく見開かれる。


「…………」


一秒。


二秒。


そして。


「つーくんっ!!」


結衣が勢いよく駆け出した。


「わっ!」


翼は思わず身構える。


けれど。


「結衣、待って!」


星莉奈の声に、結衣はぴたりと足を止めた。


翼の目の前。


あと一歩のところで。


「……あ」


結衣は翼の腕を見た。


まだ残っている包帯。


そして、頭の傷。


「……つーくん」


さっきまでの元気な声が、少しだけ小さくなる。


「……まだ、いたいいたい?」


翼は、そっと膝を曲げた。


結衣と目線を合わせる。


「……うん。まだちょっとだけね」


「…………」


「でも、もう大丈夫だよ」


翼は、そっと手を差し出した。


「……ほら」


結衣は、その手をじっと見つめた。


そして。


小さな手で、ぎゅっと握った。


「……つーくん」


「ん?」


「……おかえり」


「…………」


その言葉に。


翼の胸が、じんわりと温かくなった。


「……ただいま、結衣ちゃん」


そう答えると。


結衣は、ぱっと笑った。


「えへへ!」


そして、翼の手を握ったまま、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる。


「ママ! つーくん帰ってきた!」


「……うん」


星莉奈は、優しく微笑んだ。


「……よかったね、結衣」


「うんっ!」


その光景を見つめながら。


翼は、ふと思った。


(……帰ってきた、か)


ここは、自分の家ではない。


自分は、ただの常連客だ。


……いや。


今は、少しだけ違うのかもしれない。


けれど。


結衣が「おかえり」と言ってくれたことが。


どうしようもなく、嬉しかった。


*


「はい、朝倉さん」


星莉奈が、カップをテーブルに置いた。


「お待たせしました」


「……ありがとうございます」


久しぶりの、リアンのコーヒー。


翼はゆっくりとカップを持ち上げた。


ふわりと広がる香り。


一口、飲む。


「…………ああ」


思わず、声が漏れた。


「……おいしい」


星莉奈が、嬉しそうに笑う。


「……よかったです」


「やっぱり、橘さんのコーヒーが一番ですね」


「……ふふっ。ありがとうございます」


その隣では、結衣が翼の顔をじっと見つめていた。


「……つーくん」


「ん?」


「もう、びょういん行かない?」


「……うん。しばらくは、おうちでゆっくりするよ」


「じゃあ、またあそべる?」


「もちろん」


「やったー!」


結衣は嬉しそうに両手を上げた。


「……つーくん!」


結衣が翼の服の裾を、そっと引っ張った。


「ん?」


「こうえん、いこ!」


「……公園?」


「うん!」


結衣は目を輝かせる。


「ママと、つーくんと、ゆい!」


「……えっと」


翼は星莉奈を見た。


星莉奈は少し考えてから、優しく頷いた。


「……朝倉さん、少しだけならどうですか?」


「……いいんですか?」


「はい。近くの公園ですし」


星莉奈は微笑む。


「もちろん、無理はしないでくださいね」


「……はい」


翼は結衣に向き直った。


「じゃあ、少しだけ行こうか」


「やったー!!」


結衣が飛び跳ねる。


その様子を見て、舞が笑った。


「いやー、朝倉くん、大人気ですね!」


「……はは」


「星莉奈さんも、よかったですね!」


「ま、舞ちゃん!?」


星莉奈が慌てて振り向く。


舞は、にやにやと笑っていた。


「……何がですか?」


翼が不思議そうに尋ねると。


「いえいえー! なんでもありません!」


「……?」


「ふふっ!」


星莉奈は真っ赤になったまま、舞を見つめていた。


*


公園には、穏やかな午後の日差しが降り注いでいた。


子どもたちの笑い声。


風に揺れる木々。


遠くから聞こえる、小鳥の声。


「ママー! はやくー!」


結衣が元気いっぱいに走っていく。


「結衣、そんなに走ったら転ぶよ!」


星莉奈が慌てて後を追った。


その姿を。


翼は、ベンチに座って眺めていた。


「……元気だなぁ」


思わず、笑みがこぼれる。


医師からは、まだ無理をしないようにと言われている。


走ることも、結衣を抱き上げることもできない。


だから今日は、見守るだけ。


それでも。


「つーくーん!」


結衣が遠くから手を振った。


「みてみてー!」


「見てるよー!」


翼も、手を振り返す。


結衣は嬉しそうに笑って、また星莉奈のもとへ駆けていった。


「……ふふっ」


翼は小さく笑った。


(……よかった)


あの日。


自分が飛び出したとき。


何かを考える余裕なんて、なかった。


ただ。


あの子を守りたかった。


それだけだった。


そして今。


結衣が笑っている。


星莉奈が笑っている。


その光景が、目の前にある。


(……本当に、よかった)


翼は、そっと目を細めた。


*


「……はぁ」


しばらくして。


星莉奈が、少し疲れた様子で戻ってきた。


「……お疲れさまです、橘さん」


「……ありがとうございます」


星莉奈は、翼の隣に腰を下ろした。


「もう……結衣ったら、全然疲れないんですから」


「ははっ。元気ですね」


「本当に……」


星莉奈は、額に浮かんだ汗を軽く拭った。


「朝倉さんは、退屈じゃありませんか?」


「……え?」


「せっかく来たのに、座ってるだけで……」


「……そんなことないですよ」


翼は、優しく笑った。


「……僕、こういう時間、好きです」


「…………」


「結衣ちゃんが楽しそうに遊んでて」


「……はい」


「橘さんが、それを追いかけてて」


「……ふふっ」


「……なんか、いいなぁって」


星莉奈は、翼の横顔を見つめた。


「……朝倉さんって」


「はい?」


「……本当に、優しいですね」


「……えっ」


「……何でもありません」


星莉奈は小さく笑った。


そして。


少しだけ、翼との距離を縮めた。


「……朝倉さん」


「……はい?」


「……少しだけ、いいですか?」


「……え?」


その瞬間。


こつん、と。


翼の肩に、小さな重みが乗った。


「…………っ!?」


翼の身体が、ぴたりと固まる。


星莉奈が。


自分の肩に、そっと頭を預けていた。


「た、橘さん……!?」


「……はい」


「え、えっと……!」


翼は真っ赤になった。


心臓が、うるさい。


ものすごく、うるさい。


(ま、待って待って待って……!)


(これ、どうしたらいいんだ!?)


(いや、動かない方がいいのか!?)


(でも、肩……!)


頭の中が、大混乱だった。


そんな翼の様子に気づいたのか。


星莉奈が、小さく笑った。


「……嫌、ですか?」


「い、嫌なわけないじゃないですか!」


思わず、声が裏返った。


星莉奈は、くすっと笑う。


「……よかった」


「…………」


翼は、そっと息を吐いた。


そして。


少しだけ、肩の力を抜いた。


星莉奈の髪が、頬に触れる。


ふわりと、優しい香りがした。


「……朝倉さん」


「……はい」


「……こうして、また三人でいられるなんて」


「…………」


「……本当に、よかったです」


その声は、少しだけ震えていた。


翼は、静かに星莉奈を見た。


目を閉じている彼女の表情は、とても穏やかだった。


けれど。


あの日のことを思い出しているのかもしれない。


病院で、何度も見せた不安そうな顔。


涙をこらえていた瞳。


きっと。


自分が思っていた以上に、心配をかけてしまったのだろう。


「……橘さん」


「……はい」


「……また、来ましょうね」


星莉奈が、ゆっくりと目を開けた。


「……え?」


「結衣ちゃんと、三人で」


翼は、少し照れくさそうに笑った。


「……今度は、僕も一緒に遊べるようになってから」


「…………」


星莉奈は、しばらく翼を見つめていた。


そして。


「……はい」


小さく、頷いた。


「……約束ですよ?」


「……はい。約束です」


二人は、静かに微笑み合った。


穏やかな風が吹く。


遠くでは、結衣が砂場で楽しそうに遊んでいた。


何でもない午後。


何でもない公園。


何でもない、三人の時間。


けれど。


翼にとっては。


それが、どうしようもなく幸せだった。


……そのとき。


「ママー!!」


突然、結衣の声が響いた。


「……っ!」


星莉奈が顔を上げる。


「結衣?」


砂場の方を見ると。


結衣が、こちらを指さしていた。


そして。


満面の笑みで叫んだ。


「ママ、つーくんにくっついてるー!!」


「…………っ!?」


星莉奈の顔が、一瞬で真っ赤になった。


「ゆ、結衣!?」


「えへへー!」


結衣は楽しそうに笑っている。


「ママ、つーくんのこと好きなのー?」


「そ、それは……!」


星莉奈は口をぱくぱくさせた。


隣では。


翼も、耳まで真っ赤になっていた。


「…………」


「…………」


二人の間に、何とも言えない沈黙が流れる。


すると。


「……あの、橘さん」


翼が、おずおずと口を開いた。


「は、はい……?」


「……僕は、嬉しかったですけど」


「…………っ!!」


星莉奈は、さらに顔を赤くした。


「……もうっ!」


恥ずかしそうに俯く。


翼は、困ったように笑った。


すると。


「えへへ!」


結衣が、二人のところへ駆け寄ってきた。


「ママも、つーくんも、まっかっか!」


「ゆ、結衣……!」


「なんでー?」


「そ、それは……!」


星莉奈が答えに困っていると。


翼が、思わず吹き出した。


「……ふっ」


「……朝倉さん?」


「……ははっ」


「……もう、笑わないでください!」


「す、すみません……!」


けれど。


星莉奈も、つられて笑ってしまった。


「……ふふっ」


「えへへ!」


結衣も笑う。


三人の笑い声が、公園に響いた。


翼は、そんな二人を見つめながら思った。


特別な力なんて、持っていない。


誰かを守るために、いつも格好よく振る舞えるわけでもない。


怖いことだってある。


痛いことだってある。


それでも。


目の前の二人が、こうして笑っていてくれるなら。


自分も、また笑っていられる。


「……つーくん!」


結衣が、小さな手を差し出した。


「……ん?」


「また、いっしょにあそぼうね!」


翼は、その手を優しく握った。


「……うん」


そして。


心からの笑顔で、答えた。


「……また、一緒に遊ぼうね」


その隣で。


星莉奈が、幸せそうに微笑んでいた。


いつか。


この何でもない日常が。


当たり前になる日が来たら。


それはきっと。


どんな特別な出来事よりも、幸せなことなのだろう。


穏やかな午後の公園。


三人の笑い声が、いつまでも響いていた。

第18話をお読みいただき、ありがとうございます!


ようやく退院した翼。

結衣の「おかえり」と翼の「ただいま」を、ずっと書きたいと思っていました。


大きな出来事がなくても、大切な人と笑い合える時間は、それだけで幸せなものなのかもしれません。


そして、少しずつ恋人らしくなっていく翼と星莉奈。

まだまだ照れくさい二人ですが、結衣には全部お見通しのようですね(笑)。


これからも三人の温かな日常を見守っていただけたら嬉しいです。


次回もよろしくお願いいたします!

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