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第16話「ごめんなさいより、ありがとう」

あの日から、三日が経った。


病室の窓から差し込む午後の日差しが、白いシーツを柔らかく照らしている。


朝倉翼は、ベッドの上でノートパソコンを開いていた。


「……うーん」


画面に並ぶプログラムを眺めながら、小さく唸る。


「ここ、なんで動かないんだ……?」


何度かキーを叩いてみるものの、思ったような結果にならない。


「……まあ、いっか」


そう呟いて、パソコンを閉じた。


医師からは、しばらく安静にするよう言われている。


頭にはまだ包帯が巻かれ、身体を動かすと、あちこちに鈍い痛みが走った。


それでも、こうしていつもの仕事に触れていると、少しだけ日常に戻れたような気がした。


コンコン。


不意に、病室の扉がノックされた。


「はーい」


「……失礼します」


聞き慣れた声。


扉の向こうから顔を覗かせたのは、橘星莉奈だった。


「こんにちは、朝倉さん」


「あ、橘さん。こんにちは」


翼は自然と笑顔になる。


星莉奈の手には、小さな紙袋が提げられていた。


「今日も来ちゃいました」


「ふふ。嬉しいです」


その何気ない一言に、星莉奈の頬がほんのり赤くなる。


三日前。


この病室で、二人はお互いの気持ちを伝え合った。


『僕も、好きです』


あの言葉を思い出すたびに、今でも胸がくすぐったくなる。


「……どうかしました?」


「い、いえ! なんでもありません!」


星莉奈は慌てて首を振った。


翼は不思議そうに首をかしげる。


「……?」


そんな姿を見て、星莉奈は小さく笑った。


(……本当に、ずるい人)


何も知らない顔で、こんなにも自分の心を揺らしてくるのだから。


「今日は、差し入れを持ってきたんです」


「おっ、なんですか?」


「ふふ。果物です。看護師さんにも確認してありますから」


「ありがとうございます。嬉しいです」


星莉奈はベッドの横に椅子を置き、腰を下ろした。


いつものように、他愛のない話が始まる。


リアンのこと。


結衣のこと。


翼の仕事のこと。


「結衣、朝倉さんに会いたがってるんですよ」


「本当ですか?」


「はい。毎日『つーくん、いつ帰ってくるの?』って」


「……そっか」


翼は嬉しそうに目を細めた。


「退院したら、また遊んであげないとな」


「ふふ。きっと喜びます」


穏やかな時間が流れる。


けれど。


星莉奈には、ずっと気になっていることがあった。


ふと、翼の頭に巻かれた包帯に目が留まる。


そして、シーツの上に置かれた腕にも。


包帯の隙間から、痛々しい傷が覗いていた。


「…………」


星莉奈の表情が、少し曇った。


「……橘さん?」


翼が気づく。


「どうしました?」


「……あの」


星莉奈は膝の上で、そっと手を握った。


「朝倉さん……その傷……」


「ああ、これですか?」


翼は自分の腕を見た。


「まだちょっと痛みますけど、だいぶ良くなってきましたよ」


いつものように、何でもないことのように笑う。


けれど、その笑顔が。


今の星莉奈には、少しだけ苦しかった。


「……傷、残るかもしれないんですよね」


「……まあ、そうですね」


翼は少し考えてから答えた。


「先生も、完全には消えないかもしれないって言ってました」


「…………」


星莉奈はうつむいた。


あの日。


結衣の小さな手が、自分の手から離れた瞬間。


そして。


迷うことなく飛び出していった、翼の背中。


今でも、鮮明に覚えている。


「……私が」


小さな声がこぼれた。


「……私が、あのとき……結衣の手を離さなければ……」


「…………」


「ちゃんと、あの子の手を握っていれば……」


星莉奈の声が震える。


「朝倉さんが、こんな怪我をすることも……」


視線が、翼の腕へと向かう。


「……傷が残ることも、なかったのに……」


ぎゅっと、唇を噛んだ。


「……本当に、ごめんなさい」


その瞬間。


「……橘さん」


翼の声が、少し低くなった。


星莉奈が顔を上げる。


そこには、いつもの穏やかな笑顔はなかった。


翼は真剣な表情で、星莉奈を見つめていた。


「……僕、そういうのは嫌です」


「……え?」


星莉奈は思わず目を瞬かせた。


「……ごめんなさいって、言われたくないです」


その声は、決して大きくなかった。


けれど。


はっきりとした強さがあった。


「……朝倉さん?」


翼は少しだけ息を吐いた。


「僕は、橘さんに謝ってほしくて結衣ちゃんを助けたわけじゃありません」


「…………」


「それに……」


翼は自分の腕を見つめた。


包帯に覆われた傷。


確かに痛い。


傷跡だって、残るかもしれない。


けれど。


「……僕が、そうしたかったんです」


「……え?」


「結衣ちゃんが危ないって思った瞬間、身体が勝手に動いてました」


翼は静かに続ける。


「助けたらどうなるとか、自分が怪我するかもしれないとか……そんなこと、考える暇もなかったです」


「…………」


「ただ……助けたかった」


その言葉に、迷いはなかった。


「僕がそうしたかったから、そうしたんです」


翼は星莉奈をまっすぐに見つめた。


「だから、橘さんが責任を感じる必要なんてないんですよ」


「……でも……」


「それに」


翼は少しだけ眉を寄せた。


「僕が自分で決めてしたことで、橘さんがずっと自分を責めてたら……」


一度、言葉を止める。


「……僕、悲しいです」


「…………っ」


星莉奈の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


翼は続けた。


「別に、何か見返りが欲しかったわけでもないですし」


「…………」


「感謝してほしいから助けたわけでもない」


翼は、ほんの少しだけ笑った。


「……ただ、結衣ちゃんが無事でよかった」


その言葉。


『……よかった……』


あの日。


意識を失う直前、翼が口にした言葉と同じだった。


星莉奈の瞳が、大きく揺れた。


(……ああ)


ようやく、気づいた。


この人は。


本当に、そう思っているんだ。


誰かに褒められたいわけでも。


感謝されたいわけでも。


自分を犠牲にしたつもりさえ、ない。


ただ。


目の前に助けたい人がいたから。


自分の心に従って、身体が動いただけ。


(……朝倉さんらしいな)


星莉奈は、そっと目を伏せた。


そして。


小さく息を吸った。


「……朝倉さん」


「はい」


「……私、間違えてましたね」


翼が首をかしげる。


星莉奈は、ゆっくりと顔を上げた。


目元には、少しだけ涙が浮かんでいた。


けれど。


その表情は、先ほどまでとは違っていた。


「……結衣を」


一度、言葉を区切る。


そして。


まっすぐに翼を見つめた。


「……結衣を助けてくれて、本当にありがとうございます」


深く、頭を下げる。


それは、謝罪ではなかった。


心からの、感謝だった。


「…………」


翼は少し驚いたように目を見開いた。


そして。


ふっと、優しく微笑んだ。


「……はい」


その笑顔を見た瞬間。


星莉奈の胸が、じんわりと温かくなった。


ああ。


やっぱり。


この人が、好きだ。


そう思った。


すると。


「……ところで、橘さん」


翼が、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「……はい?」


「……今ので、惚れ直しました?」


「…………え?」


一瞬。


星莉奈の思考が止まった。


「…………」


「…………」


そして。


「……っ!」


みるみる顔が赤くなっていく。


「な、な、何言ってるんですか!?」


翼は楽しそうに笑った。


「いや、ちょっと格好いいこと言ったかなって思いまして」


「じ、自分で言わないでください!」


「はははっ」


「もう……!」


星莉奈は頬を膨らませた。


けれど。


そんな翼の笑顔を見ていると、怒る気持ちなんてどこかへ消えてしまう。


「……本当に、ずるい人ですね」


小さく呟く。


「え?」


「……なんでもありません」


星莉奈は、少しだけ視線をそらした。


そして。


誰にも聞こえないくらいの声で。


「……もう、とっくに惚れ直してますよ……」


「……え?」


「な、なんでもありませんっ!」


翼が不思議そうに首をかしげる。


星莉奈は真っ赤な顔のまま、ぷいっと横を向いた。


そんな二人を、午後の柔らかな日差しが包み込んでいた。


事故の傷は、すぐには消えない。


けれど。


あの日、翼が守ったものは。


今もこうして、確かにここにある。


そして、二人の距離は。


あの日よりも、ほんの少しだけ近づいていた。

あの日の「よかった」は、誰かのために動いたそのままの気持ちでした。謝るより、ちゃんと届く「ありがとう」を選んだ二人の時間を書きたかった回です。結衣の「つーくん」も、二人の距離も、少しずつ日常に戻るための目印。これからも見守ってもらえたら嬉しいです。

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