もうひとつの寝息
都を出る馬車は、昼前に門を離れた。
乗合の幌馬車だった。荷の合間に板の座席が向かい合い、すでに数人が乗っていた。商いの帰りらしい男がふたり、布をかぶった籠を膝に抱えた老婆がひとり。伊勢たちは奥の、いちばん揺れる側に詰めて座った。
車輪が石畳を離れて土の道に乗ると、馬車は大きく上下に揺れはじめた。老婆が小さく呻き、男たちは慣れた様子で目を閉じた。
ルカだけが、揺れに合わせて体を逃がしながら、まっすぐ前を見ていた。背中が、座席のどこにも預けられていなかった。来たときの道でも、この子はこうやって揺れをやり過ごしていた。
「酔わないの」とハルカが訊いた。
「うん」とルカは言った。「揺れるほうに、体をあずけると、楽だよ」
「へえ」ハルカはすこし感心したふうに言った。「子どもなのに、よく知ってるね」
「まえに、長く乗ったから」
ハルカは何か言いかけて、やめた。窓の外では、低い丘がゆっくり後ろへ流れていた。
「街まで、どのくらい」とハルカが伊勢の方を向いた。
「馬車で二日、宿で二晩です。徒歩よりは、ずいぶん早い」
「どんな街なの」
「……ふつうの、地方の街です」と伊勢は言った。「ギルドがあって、道具屋があって、工房がある。鍛冶のうまい人がいて、薬草を採る人がいて。中央のような、立派なものは何も」
「ふうん」ハルカは膝の上で手を組んだ。「でも、伊勢君は、そこに戻りたいんだね」
伊勢は、すぐには答えなかった。
「戻る、と決めたので」とだけ、言った。
ハルカは、それ以上は訊かなかった。
◆
日が傾く頃、街道沿いの宿場に着いた。
宿は古い一軒だった。中央の宿のような広間も奥の階段もなく、土間の先に板の間がひとつあるきりで、煮炊きと馬と街道の埃の匂いが、ひとつになって漂っていた。
女主人は伊勢たちを見て、首をかしげた。
「三人かい。子ども連れとは、めずらしいね」
「ええ」と伊勢は言った。
「ひと間しか空いてないよ。寝台はふたつだ。藁を足すなら、足すが」
「お願いします」
◆
板の間の隅に、煤けた木の卓がひとつあった。四人も座れば窮屈な、小さな卓だった。何度も向かい合った中央の長い卓とは、何もかも違っていた。
麦の粥と、塩漬けの肉がすこし出た。三人で、その卓をかこんだ。
ルカは匙を持つと背筋を伸ばして、こぼさないように口へ運んだ。手首の角度が、いつも同じだった。
ハルカは、その手元をすこし長く見ていた。
子どもにしては、と思いかけて、ハルカは自分でも何を思ったのか分からなくなった。前にも、どこかで――けれど、その先は形にならなかった。瞬きをひとつして、ハルカは自分の椀に目を落とした。
ルカの匙が、ほんの一瞬止まって、また動いた。
「ハルカは」とルカは伊勢の方を見たまま言った。「どうして、ついてきたの」
ハルカは匙を持つ手を止めた。
「……どうして、だと思う」
「わかんない」とルカは言った。「だから、訊いた」
ハルカはすこし笑った。
「伊勢君のことが、気になったから。それじゃ、だめ?」
「だめじゃないよ」とルカは言った。それから、また粥に目を落とした。「ふうん。気になるんだ」
伊勢は、ふたりのやりとりをどう聞いたものか分からず、黙って肉を口へ運んだ。
◆
奥のひと間は狭かった。壁ぎわに寝台がふたつ、その足元に、女主人の言ったとおり藁が足してあった。灯は、ここにもひとつだけだった。
ルカは迷わず藁の上に袋を置いた。
「ここでいい」
「子どもが、藁でいいの」とハルカが言った。「寝台、ひとつ使いなよ。私が藁で寝るから」
「ううん」とルカは首を振った。「寝台は、伊勢さんとハルカが使って。わたし、こっちのほうが、よくねむれる」
「変な子」ハルカは小さく笑った。「でも、ありがとう」
伊勢はすこし戸惑った。会社にいた頃、ハルカはいつも誰かと誰かの真ん中にいた。その人と、ひとつの部屋で夜を過ごす。妙な心持ちがした。
けれどハルカは、寝台の片方に袋を置くと、それ以上は何も動かさなかった。荷を広げも、場所を仕切りもしなかった。自分で決めた片側に、静かに腰を下ろしただけだった。
「ねえ、伊勢君」と暗がりの手前で、ハルカが言った。「私、ちゃんと、ついてこられてる?」
「……ええ」と伊勢は言った。「歩く順も、もう、決まってきました」
「そう」ハルカは、すこしだけ笑ったようだった。「それなら、いい」
灯を消すと、部屋は街道の闇に沈んだ。窓の外で、風が草を撫でる音だけがした。
ルカは藁の上で、壁の方へ背を向けて寝た。来たときの道でも、この子はそうやって寝ていた。あのときは、二人だった。
今は、もうひとつ、寝息があった。
伊勢は暗がりの中で、その寝息を聞いていた。置いてきたはずの中央が、すぐ隣で静かに息をしている。悪いことのようには思えなかった。けれど、慣れた感じも、まだしなかった。
眠るまでに、すこし時間がかかった。




