先に歩いていたもの
二日目の馬車は、朝のうちに宿場を出た。
幌の隙間から入る風が、すこし湿っていた。土の匂いが、昨日とは違っている。どこまでも低い丘の続いた中央のあたりとは違って、道の先に、稜線の低い山がいくつも重なってきた。その山並みに、伊勢は見覚えがあった。
「近いの」とルカが訊いた。
「ええ」と伊勢は言った。「この匂いは、もう、街の近くのものです」
ルカは幌の隙間から外をのぞいた。ハルカも、つられて同じ方を見た。
「あの山の向こうは」とハルカが訊いた。
「あの方に、ダンジョンがあります」と伊勢は言った。「魔物の出るところで、薬草も、あのあたりでしか採れません。街は、その手前です。出る魔物と、採れる薬草と、その両方で、人が暮らしている街です」
道は、だんだんと人が増えてきた。荷を担いだ者、空の籠を背負った者、剣や杖を提げた冒険者ふうの一行もいた。同じ方へ歩く者も、向こうから来る者もいた。中央の門のあたりの整った人の流れとは違って、もっとばらばらで、もっと声が大きかった。
伊勢は、その声を聞いていた。久しぶりに聞く種類の、街の声だった。
◆
昼を過ぎて、馬車は街道沿いの水場で一度止まった。馬に水をやるあいだ、客はみな降りて、足を伸ばした。
水場のそばに、若い三人連れがいた。まだ二十歳になるかどうかの、出かけたばかりの冒険者ふうの一行だった。そのうちのひとりが、腰の袋から、薄い綴りのようなものを取り出した。
伊勢は、それを見て、足を止めた。
回復草を、葉脈の向きを揃えて、五枚ずつ綴じたものだった。端の綴じ方に、見覚えがあった。初めて街の道具屋の棚に置いたときと、同じ綴じ方だった。
若者は慣れた手つきで一枚を剥がし、肘の擦り傷に当てて、また袋にしまった。それだけのことだった。彼は、それを誰が考えたものか、たぶん知らなかった。
「どうかした」とハルカが横で訊いた。
「いえ」と伊勢は言った。
ハルカは、伊勢の見ている方を見た。それから、若者の手元と、伊勢の顔を、半分ずつ見比べた。
「あれ、伊勢君が」
「……昔、街で」と伊勢は言った。「売れるかどうかも分からないまま、棚に置いたものです。こんなところまで来ているとは、思いませんでした」
ハルカは、すこし黙った。
「形は残る、って」とハルカは言った。「卓で、何度も言ってたね」
「ええ」
「あれ、本当だったんだ」
伊勢は、何も言えなかった。卓の上で言葉にしてきたことが、いま、知らない若者の袋の中から出てきた。自分の手を離れて、自分より先に、この道を歩いていた。
ルカが、伊勢の袖を、一度だけ引いた。
「伊勢さんの形、ちゃんと歩いてるね」
「……ええ」と伊勢は言った。「歩いて、いるみたいです」
ルカは、それ以上は何も言わずに、また水場の方を見た。
◆
馬車が再び動き出して、日が傾きはじめた頃、道は長い下り坂にかかった。
坂を下りきった先に、街があった。
低い土壁にかこまれた、小さな門。その向こうに、見慣れた屋根が段々に重なっていた。ギルドの四角い影もあった。夕日が、街全体を、橙の色に染めていた。中央の都のような、石造りの立派なものは、何ひとつなかった。
それでも伊勢は、その眺めから目を離せなかった。
ここを出るとき、ひとりの人が、戻ってきてください、と言った。自分は、ええ、と答えた。戻ります、と。あの言葉から、ずいぶん経った気がした。
喉の奥が、半拍、遅れた。
伊勢は、それを飲み込んだ。まだ、門の手前だった。まだ、何かを言える場所ではなかった。
「あれが、街」とルカが訊いた。
「ええ」と伊勢は言った。「あれが、街です」
ハルカは、坂の下の街を、しばらく見ていた。
「小さいね」とハルカは言った。それから、すこし笑った。「でも、伊勢君の顔が、さっきから、ぜんぜん違う」
「……そうですか」
「うん。中央にいたときより、ずっと」
伊勢は、自分の顔がどうなっているのか、分からなかった。ただ、坂の下の橙の色が、目の奥にしみるようだった。
馬車は、ゆっくりと坂を下りていった。門は、近づいてくる。けれど、まだ、くぐってはいなかった。
戻ると決めて、ここまで来た。隣には、置いてくるはずだった中央が、座っている。その先で、誰が、どんな顔で自分を迎えるのか――それは、まだ、分からなかった。




