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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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先に歩いていたもの

 二日目の馬車は、朝のうちに宿場を出た。


 幌の隙間から入る風が、すこし湿っていた。土の匂いが、昨日とは違っている。どこまでも低い丘の続いた中央のあたりとは違って、道の先に、稜線の低い山がいくつも重なってきた。その山並みに、伊勢は見覚えがあった。


「近いの」とルカが訊いた。


「ええ」と伊勢は言った。「この匂いは、もう、街の近くのものです」


 ルカは幌の隙間から外をのぞいた。ハルカも、つられて同じ方を見た。


「あの山の向こうは」とハルカが訊いた。


「あの方に、ダンジョンがあります」と伊勢は言った。「魔物の出るところで、薬草も、あのあたりでしか採れません。街は、その手前です。出る魔物と、採れる薬草と、その両方で、人が暮らしている街です」


 道は、だんだんと人が増えてきた。荷を担いだ者、空の籠を背負った者、剣や杖を提げた冒険者ふうの一行もいた。同じ方へ歩く者も、向こうから来る者もいた。中央の門のあたりの整った人の流れとは違って、もっとばらばらで、もっと声が大きかった。


 伊勢は、その声を聞いていた。久しぶりに聞く種類の、街の声だった。



 昼を過ぎて、馬車は街道沿いの水場で一度止まった。馬に水をやるあいだ、客はみな降りて、足を伸ばした。


 水場のそばに、若い三人連れがいた。まだ二十歳になるかどうかの、出かけたばかりの冒険者ふうの一行だった。そのうちのひとりが、腰の袋から、薄い綴りのようなものを取り出した。


 伊勢は、それを見て、足を止めた。


 回復草を、葉脈の向きを揃えて、五枚ずつ綴じたものだった。端の綴じ方に、見覚えがあった。初めて街の道具屋の棚に置いたときと、同じ綴じ方だった。


 若者は慣れた手つきで一枚を剥がし、肘の擦り傷に当てて、また袋にしまった。それだけのことだった。彼は、それを誰が考えたものか、たぶん知らなかった。


「どうかした」とハルカが横で訊いた。


「いえ」と伊勢は言った。


 ハルカは、伊勢の見ている方を見た。それから、若者の手元と、伊勢の顔を、半分ずつ見比べた。


「あれ、伊勢君が」


「……昔、街で」と伊勢は言った。「売れるかどうかも分からないまま、棚に置いたものです。こんなところまで来ているとは、思いませんでした」


 ハルカは、すこし黙った。


「形は残る、って」とハルカは言った。「卓で、何度も言ってたね」


「ええ」


「あれ、本当だったんだ」


 伊勢は、何も言えなかった。卓の上で言葉にしてきたことが、いま、知らない若者の袋の中から出てきた。自分の手を離れて、自分より先に、この道を歩いていた。


 ルカが、伊勢の袖を、一度だけ引いた。


「伊勢さんの形、ちゃんと歩いてるね」


「……ええ」と伊勢は言った。「歩いて、いるみたいです」


 ルカは、それ以上は何も言わずに、また水場の方を見た。



 馬車が再び動き出して、日が傾きはじめた頃、道は長い下り坂にかかった。


 坂を下りきった先に、街があった。


 低い土壁にかこまれた、小さな門。その向こうに、見慣れた屋根が段々に重なっていた。ギルドの四角い影もあった。夕日が、街全体を、橙の色に染めていた。中央の都のような、石造りの立派なものは、何ひとつなかった。


 それでも伊勢は、その眺めから目を離せなかった。


 ここを出るとき、ひとりの人が、戻ってきてください、と言った。自分は、ええ、と答えた。戻ります、と。あの言葉から、ずいぶん経った気がした。


 喉の奥が、半拍、遅れた。


 伊勢は、それを飲み込んだ。まだ、門の手前だった。まだ、何かを言える場所ではなかった。


「あれが、街」とルカが訊いた。


「ええ」と伊勢は言った。「あれが、街です」


 ハルカは、坂の下の街を、しばらく見ていた。


「小さいね」とハルカは言った。それから、すこし笑った。「でも、伊勢君の顔が、さっきから、ぜんぜん違う」


「……そうですか」


「うん。中央にいたときより、ずっと」


 伊勢は、自分の顔がどうなっているのか、分からなかった。ただ、坂の下の橙の色が、目の奥にしみるようだった。


 馬車は、ゆっくりと坂を下りていった。門は、近づいてくる。けれど、まだ、くぐってはいなかった。


 戻ると決めて、ここまで来た。隣には、置いてくるはずだった中央が、座っている。その先で、誰が、どんな顔で自分を迎えるのか――それは、まだ、分からなかった。

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