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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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火は、待っていた

橙の門は思っていたより低かった。


石畳が土に変わる継ぎ目を跨いだ瞬間、伊勢は足の裏で何かが変わったのを感じた。硬さの違いだったのか、音の違いだったのか、自分でもうまく言えない。ただ確かに、向こう側へ来たという感覚だけがあった。


ルカが先に門をくぐっていた。振り返りもせず、街の方を見ている。


「においが、ちがう」


短くそれだけ言った。伊勢には分からなかったが、否定もしなかった。ハルカは少し遅れて石段を降り、門の脇に立ち止まって街全体を見渡していた。何かを確かめるような目だった。すぐに歩き出したので、伊勢は聞かなかった。


夕暮れの通りには灯りが点き始めていた。見覚えのある屋根の並び方。見覚えのある匂いの層。誰かが呼び込みをしている声も、遠くから聞こえた。


「先に、工房へ寄ろうと思います」


伊勢は立ち止まって二人に言った。理由をうまく言葉にできなかった。ただ、足がそこへ向かいたがっていた。



工房の扉は開いていた。中から金属を打つ音がしていた。


一定の間隔で続く音。止まらない。伊勢は扉の前で少し待った。声をかけていいのか分からなかったからではなく、音が途切れるまで待つのが礼儀のような気がしたからだった。


音が止んだ。


「……客か」


顔を上げたブリジットの手には、まだ金槌があった。灯りが赤く顔の片側だけを照らしていた。数秒、動かなかった。それから金槌を作業台に置いた。置き方が、普段より少し乱暴だった。


「海人」


名前だけ呼んで、後が続かなかった。


「戻りました」


伊勢は静かに言ってから、続けた。


「言おうとすると、それしか出てきませんでした」


自分の言葉に少し戸惑いながらも、それ以上は足さなかった。無事だったという事実だけが、まず必要な言葉のような気がした。


ルカが工房の中を覗き込み、ブリジットの手を見て「まだ、あつい」と言った。金属のことだったのか、手のことだったのか。


ブリジットが短く笑った。笑い方に、力が入りすぎていた。


「あつくもなるだろ。ずっと打ってたんだから」


「工房、少し変わりましたね」


伊勢が言うと、ブリジットは肩をすくめた。


「棚を一つ増やした。あんたの点検サービスの帳面、置く場所がなかったから」


事務的な言い方だった。だが手の動きが、止まっていた。金槌を置いたままの位置から動かしていない。


「戻ってきたなら」


ブリジットが言葉を選ぶように、少し間を置いた。


「ラッジのところにも顔出せ。あいつ最近……」


そこで言葉を切った。言うかどうか迷ったのが分かる切り方だった。


「最近、何かあったんですか」


伊勢が聞くと、ブリジットは首を振った。


「いや。会えば分かる」


「リリアには、もう会ったのか」


名前が出た瞬間、伊勢の中で何かが止まった。答えられなかった。まだだと言うことすら、言葉にならなかった。黙ったままでいると、ブリジットはそれ以上聞かず、金槌を取り上げてまた台の上の金属に目を落とした。


そこへ扉の陰からハルカが顔を出した。


「伊勢君、宿の場所、女将さんに聞いておいたよ。広間の奥の——」


言いかけて、ブリジットと目が合った。ハルカは一拍だけ止まり、それから小さく会釈した。


ブリジットの手が完全に止まった。金槌を持ったまま、伊勢とハルカを交互に見た。


「……おい」


「何でしょうか」


「お前、まさか向こうで、女、作ってきたのか」


「違います」


伊勢は答えたが、思ったより速く言葉が出た。それが余計に怪しく響いたのが、自分でも分かった。


「宿の場所を、聞いてきてくれただけです」


「宿の場所ってお前、一緒に泊まる気満々じゃねえか」


「ハルカさんは、中央の機関の方です。仕事の関係で、一緒に戻ってきました」


説明すればするほど、言葉が足りなくなっていく気がした。ハルカは否定も肯定もせず、少し困ったように微笑んだだけだった。その微笑みが、また火に油を注いだ。


「へえ」


ブリジットの声が、わざとらしく低くなった。


「仕事の関係、ね」


ルカが袖を引いた。何かを言おうとして、結局こう言った。


「ハルカは、伊勢さんのこと、気になるから、ついてきたの」


工房が一瞬、静かになった。


「……おい」


「本当に、違います」


伊勢はそれだけ繰り返した。ハルカは何も言わなかった。何かを言えば、もっとおかしなことになると分かっているような沈黙だった。


ブリジットは金槌を握り直し、それ以上は追及しなかった。ただ、口の端に残った笑いが、しばらく消えなかった。


「まあいい。今夜のところは、それで聞いておいてやる」


金槌を打ちおろす音が、また工房に響いた。会話は、そこで途切れた。


外はもう、暗くなり始めていた。伊勢は、リリアにはまだ会っていないことを、誰にも訂正させないまま工房を出た。

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