火は、待っていた
橙の門は思っていたより低かった。
石畳が土に変わる継ぎ目を跨いだ瞬間、伊勢は足の裏で何かが変わったのを感じた。硬さの違いだったのか、音の違いだったのか、自分でもうまく言えない。ただ確かに、向こう側へ来たという感覚だけがあった。
ルカが先に門をくぐっていた。振り返りもせず、街の方を見ている。
「においが、ちがう」
短くそれだけ言った。伊勢には分からなかったが、否定もしなかった。ハルカは少し遅れて石段を降り、門の脇に立ち止まって街全体を見渡していた。何かを確かめるような目だった。すぐに歩き出したので、伊勢は聞かなかった。
夕暮れの通りには灯りが点き始めていた。見覚えのある屋根の並び方。見覚えのある匂いの層。誰かが呼び込みをしている声も、遠くから聞こえた。
「先に、工房へ寄ろうと思います」
伊勢は立ち止まって二人に言った。理由をうまく言葉にできなかった。ただ、足がそこへ向かいたがっていた。
◆
工房の扉は開いていた。中から金属を打つ音がしていた。
一定の間隔で続く音。止まらない。伊勢は扉の前で少し待った。声をかけていいのか分からなかったからではなく、音が途切れるまで待つのが礼儀のような気がしたからだった。
音が止んだ。
「……客か」
顔を上げたブリジットの手には、まだ金槌があった。灯りが赤く顔の片側だけを照らしていた。数秒、動かなかった。それから金槌を作業台に置いた。置き方が、普段より少し乱暴だった。
「海人」
名前だけ呼んで、後が続かなかった。
「戻りました」
伊勢は静かに言ってから、続けた。
「言おうとすると、それしか出てきませんでした」
自分の言葉に少し戸惑いながらも、それ以上は足さなかった。無事だったという事実だけが、まず必要な言葉のような気がした。
ルカが工房の中を覗き込み、ブリジットの手を見て「まだ、あつい」と言った。金属のことだったのか、手のことだったのか。
ブリジットが短く笑った。笑い方に、力が入りすぎていた。
「あつくもなるだろ。ずっと打ってたんだから」
「工房、少し変わりましたね」
伊勢が言うと、ブリジットは肩をすくめた。
「棚を一つ増やした。あんたの点検サービスの帳面、置く場所がなかったから」
事務的な言い方だった。だが手の動きが、止まっていた。金槌を置いたままの位置から動かしていない。
「戻ってきたなら」
ブリジットが言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「ラッジのところにも顔出せ。あいつ最近……」
そこで言葉を切った。言うかどうか迷ったのが分かる切り方だった。
「最近、何かあったんですか」
伊勢が聞くと、ブリジットは首を振った。
「いや。会えば分かる」
「リリアには、もう会ったのか」
名前が出た瞬間、伊勢の中で何かが止まった。答えられなかった。まだだと言うことすら、言葉にならなかった。黙ったままでいると、ブリジットはそれ以上聞かず、金槌を取り上げてまた台の上の金属に目を落とした。
そこへ扉の陰からハルカが顔を出した。
「伊勢君、宿の場所、女将さんに聞いておいたよ。広間の奥の——」
言いかけて、ブリジットと目が合った。ハルカは一拍だけ止まり、それから小さく会釈した。
ブリジットの手が完全に止まった。金槌を持ったまま、伊勢とハルカを交互に見た。
「……おい」
「何でしょうか」
「お前、まさか向こうで、女、作ってきたのか」
「違います」
伊勢は答えたが、思ったより速く言葉が出た。それが余計に怪しく響いたのが、自分でも分かった。
「宿の場所を、聞いてきてくれただけです」
「宿の場所ってお前、一緒に泊まる気満々じゃねえか」
「ハルカさんは、中央の機関の方です。仕事の関係で、一緒に戻ってきました」
説明すればするほど、言葉が足りなくなっていく気がした。ハルカは否定も肯定もせず、少し困ったように微笑んだだけだった。その微笑みが、また火に油を注いだ。
「へえ」
ブリジットの声が、わざとらしく低くなった。
「仕事の関係、ね」
ルカが袖を引いた。何かを言おうとして、結局こう言った。
「ハルカは、伊勢さんのこと、気になるから、ついてきたの」
工房が一瞬、静かになった。
「……おい」
「本当に、違います」
伊勢はそれだけ繰り返した。ハルカは何も言わなかった。何かを言えば、もっとおかしなことになると分かっているような沈黙だった。
ブリジットは金槌を握り直し、それ以上は追及しなかった。ただ、口の端に残った笑いが、しばらく消えなかった。
「まあいい。今夜のところは、それで聞いておいてやる」
金槌を打ちおろす音が、また工房に響いた。会話は、そこで途切れた。
外はもう、暗くなり始めていた。伊勢は、リリアにはまだ会っていないことを、誰にも訂正させないまま工房を出た。




