すり減った形
朝は、匂いから来た。
宿の窓を押し開けると、焼きたてのパンの匂いが、井戸端の水音と誰かの呼び声を連れて流れ込んできた。中央の宿の朝は、石の匂いがした。ここの朝は、人の暮らしの匂いがする。伊勢は窓枠に手を置いたまま、しばらくその違いを吸い込んでいた。ふた月ぶんの遠さが、鼻の奥でゆっくりほどけていくようだった。
ハルカはまだ休んでいた。昨夜の道の疲れが、ようやく追いついたのだろう。伊勢はルカだけを連れて、先に外へ出た。
「ラッジさんのところ、行くの」
「ええ」
朝の光は、通りの東側だけを白く塗っていた。西側の軒はまだ影の中で眠っていて、その境目を、二人の足音だけが渡っていった。
道具屋の看板は、色あせて少し傾いていた。それでも、覚えている通りの場所に、覚えている通りの形で、そこにあった。変わらないということが、これほど胸に触れるものだとは、出て行くときには知らなかった。
戸を引くと、鈴が鳴った。この音も、覚えていた通りだった。
「いらっしゃい……」
顔を上げたラッジは、一拍遅れて手を止めた。
目の下に、以前はなかった影があった。頬のあたりも、記憶より瘦せて見えた。ふた月という時間が、この人の顔のどこを削っていったのか——伊勢は、それを目で数えそうになって、やめた。
「戻ったのか」
「ええ。戻りました」
ラッジは何か言おうとして、結局「そうか」とだけ言った。言わなかった言葉のほうが、店の空気の中に、長く残った。
カウンターの向こうに、束ねられた回復草の五枚綴りが、山になっていた。数えるまでもなく、以前より多かった。売れている、ということだった。それなのに、この店の空気はどこか、息を詰めたままの部屋に似ていた。
「盛況ですね」
伊勢が言うと、ラッジは短く笑った。笑いの底に、疲れが沈んでいた。
「盛況、ではあるな」
そう言ったきり、ラッジはカウンターの下から、薄い帳面を取り出した。開かれた頁には、文字がぎっしりと詰まっていた。日付と、数と、短い印。几帳面というより、必死さの跡だった。
「これは」
「点検の記録だ」とラッジは言った。「お前が抜けてから、誰が見るかって話になって」
「誰か、雇われたんですか」
「いや」
ラッジは帳面をめくった。頁の端が、指の脂で黒ずんでいた。何度も、何度も、同じ手がそこを繰った跡だった。
「俺が、見てる」
その三文字が、店の静けさの中に落ちた。
「毎日ですか」
「毎日ってわけじゃない。でも、荷が多い日は、閉めたあとに全部見る」とラッジは言った。「葉脈の向きとか、綴じの緩みとか。お前が最初に決めた基準を、忘れないうちに」
ルカが、背伸びをして帳面を覗き込んだ。
「文字、いっぱい」
「そうだな」ラッジはルカを見て、少しだけ表情を緩めた。「毎晩書いてりゃ、こうなる」
伊勢は、帳面の厚みを見ていた。何ヶ月ぶんだろうと、頭の中で数えかけて、やめた。数える前に、もう分かっていた。この厚みは、日数ではなかった。店を閉めたあとの、灯りひとつの下で過ごされた夜——その夜たちが、紙になって積まれているのだった。
「一人で、全部ですか」
「最初は、若いのに手伝わせようとした」とラッジは言った。「けど、基準が伝わらねえんだ。俺の言葉が下手なのか、あいつの飲み込みが遅いのか、それとも――」
言葉を切って、ラッジは帳面を閉じた。閉じる音が、思いのほか、乾いていた。
「お前がいたときは、当たり前みたいに回ってたんだがな」
その一言が、伊勢の中に、静かに刺さった。喉の奥が、半拍、遅れた。
「いなくなっても回るように、作ったつもりでした」
「回ってはいるさ」とラッジは言った。「ただ、回してる手が、増えてない。減っただけで、同じ場所に、俺一人が立ってる」
伊勢は、何も言えなかった。
「形は残る」と、何度も言葉にしてきた。中央の卓でも、それを哲学のように語ってきた。形とは仕事のやり方のことで、人がいなくなってもそれは残る——そう信じて、残して、出て行った。だが、いま目の前にあるのは、残った形を、たった一人の手が夜ごと支えてきたという事実だった。形が残ることと、それを支える手が引き継がれることは、別の話だった。その別、を、この帳面の厚みが、黙って教えていた。
「悪いことを、言ってるつもりはねえよ」とラッジは、伊勢の顔を見て言った。「客は喜んでる。品は動いてる。俺が、勝手に見てるだけの話だ」
「勝手に、では、ないと思います」
伊勢は、静かに言った。
「あなたが見なければ、誰も見ていなかった。それは、勝手にやったことでは、ありません」
ラッジは、少しの間、伊勢を見ていた。その目の中で、何かが一度だけ揺れて、収まった。それから、帳面をカウンターの下へ戻した。戻す手つきが、大事なものを仕舞う手つきだった。
「まあ、戻ってきたなら」とラッジは言った。「しばらくは、隣で見ててくれ。俺の見方が、間違ってないか」
「はい」
そのとき、店の奥から、若い店員が顔を出した。数ヶ月前にはいなかった顔だった。
「親方、次の……」
「ああ、待っとけ」
ラッジがそちらへ視線をやった隙に、伊勢はもう一度、カウンターの下に消えた帳面のことを思った。積み重なった夜のぶんだけ、紙は波打っていた。波は、乾いても、消えない。
◆
外へ出ると、日はもう高く昇っていた。朝の境目は消えて、通りの両側が、同じ明るさの中にあった。
「疲れてたね、あの人」とルカが言った。「かおが、すこし、へこんでた」
「ええ」
「伊勢さんが、いなかったから」
伊勢は、すぐには答えなかった。ルカの言葉は、いつも遠回りをしない。まっすぐに来て、まっすぐに刺さる。
「そう、なんだと思います」
「でも」とルカは、伊勢の顔を見上げた。「もどってきたから、もう、だいじょうぶ?」
その問いに、伊勢はすぐには頷けなかった。だいじょうぶ、という言葉は軽い。あの帳面の厚みは、一日や二日で軽くなるものではなかった。
「これから、少しずつです」
歩き出した先、通りの向こうで、誰かが二人を見て小さく手を挙げた。ブリジットだった。何か言いたげな顔をしていたが、こちらへは来ず、そのまま人波の中へ紛れていった。
伊勢は、それを見送った。街に、噂が回りはじめているのかもしれなかった。だが、いま考えるべきことは、それではなかった。
帳面の厚みだけが、まだ、手の中に残っているような気がした。触れてもいないのに、重かった。




