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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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空いた壁

 ギルドの扉は、重かった。


 押し開けた瞬間、埃の匂いがした。木と古い紙とインクの、混ざって乾いた匂い。街を出る前と同じ匂いのはずなのに、伊勢の鼻には少しだけ余所行きに感じられた。中央の宿で嗅いでいたのが石と蝋の匂いだったからかもしれない。


 昼下がりの広間は、静かだった。


 高い窓から斜めに差し込む光が、床の埃をゆっくり照らしている。舞うでもなく、沈むでもなく、光の帯の中でただ漂っていた。受付の前に、人の列はなかった。壁の依頼票が、まばらだった。掲示板の板が、票と票の隙間で灰色に覗いている。伊勢はその隙間を、数えるともなく数えた。


「なんか、あいてるね」


 ルカが受付の台に手をかけて、爪先立ちで奥を覗いた。


「うん。前より、ずっと」


 声が広間によく響いた。響くほど、人がいなかった。


 奥の執務机で、シャウプが書類の束をめくっていた。顔を上げるまでに、間があった。老眼鏡を外し、光の差す方へ目を細めてから、ようやく誰が来たのかを認めた。


「……戻ったのか」


 立ち上がりはしなかった。それから、思い出したように付け足した。


「戻ったんなら、座れ。突っ立ってられると、落ち着かん」


 伊勢は椅子を引いて、腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。ルカは座らず、机の端に頬杖をついて、伏せられた書類の背を眺めていた。



「討伐の依頼が、減っているようですね」


 伊勢が言うと、シャウプは書類を裏返しに伏せて、腕を組んだ。日に灼けた手の甲に、前より皺が増えていた。


「気づいたか。ここ二月ばかり、じわじわとな」


「原因は」


「分からん」


 シャウプは、椅子の背に体を預けた。木がわずかに軋んだ。


「魔物が減ってるのか、出方が変わったのか。奥まで見に行った奴もいる。だが、これといった報告は上がってこねえ。ダンジョンの浅いところが、静かになっただけだ」


 言い方に、焦りはなかった。以前、この人が書簡を引き出しに押し込んでいた頃の、あの張り詰めた気配はどこにもなかった。声はむしろ、乾いて落ち着いていた。


「怖くは、ないんですか」


「最初はな」


 シャウプは短く笑った。笑うと、口の端の皺が深くなった。


「討伐が減れば、冒険者の稼ぎが減る。稼ぎが減れば、街が荒れる。俺はそれを、いちばん怖がってた」


 窓の光が、少しだけ角度を変えた。埃の帯が、机の端まで伸びた。


「だが妙でな。護衛と、採取と、店回りの依頼は減ってねえ。むしろ増えてる。討伐で食えなくなった奴が、そっちへ流れてった。稼ぎ口を移す先が、いつの間にか、できてたんだ」


 伊勢は、その言葉をすぐには受け止められなかった。


 自分が街を出るときに残していったのは、四つの壁を越える段取りと、いくつかの帳面と、棚の増やし方だったはずだった。それが、討伐が細ったときの逃げ場として働いているとは、考えていなかった。街の側で保たれていた何かに、自分は遅れて気づいている。そんな感覚があった。


「お前がいた頃に、そういう道を、あちこちに引いてたんだろうよ」


 シャウプが、伊勢の内心を先回りするように言った。


「引いた本人が、いちばん覚えてねえ顔をしてやがる」



「お前がいない間、何度か、決めなきゃならんことがあった」


 シャウプが、話の向きを変えた。声が、少し低くなった。


「護衛の割り当てで揉めた時とか、依頼料を見直す時とか。中央の許可を待ってる余裕は、なかった」


「どうされたんですか」


「俺が決めた」


 短く、それだけだった。


「合ってたかどうかは、知らん。半分は間違ってたかもしれん。だが、誰かが決めなきゃ、依頼票は積まれたままだ。お前が座って決めてた席に、今度は俺が座った。それだけの話だ」


 伊勢は頷いた。


 よくやりましたね、という言葉が喉元まで出かけて、そこで止まった。この人が欲しがっているのは、そういう言葉ではない。ただ、席が一日も空かなかったという事実を、聞き届けてほしいだけなのだと思った。だから伊勢は、何も足さずに、もう一度頷いた。


 シャウプは、それでいいというように、目を伏せた。


「積まれたままの票、見るか」


「いえ」


「じゃあ見せねえ。仕事の話は、ここまでだ」


 書類を引き出しにしまう手が、途中で止まった。引き出しは半分開いたまま、シャウプはしばらく、そこに手を置いていた。


「お前に、頼みたいことがある」


「なんでしょうか」


 シャウプは、すぐには答えなかった。


 窓の外の、票の少ない壁を見た。それから、開いたままの引き出しの中を見た。中に何が入っているのか、伊勢の位置からは見えなかった。


「……いや」


 言いかけて、止めた。


「今度でいい。まだ、まとまってねえ」


 引き出しが、軋みながら閉まった。その先を、伊勢は聞かなかった。聞けば、この人がまだ言葉にできていないものを、先に引き出してしまう気がした。


 ルカが机の端から音もなく降りて、伊勢の袖を、そっと引いた。


「伊勢さん。行こ」



 外に出ると、昼下がりの光が思ったより白かった。


 通りには人がいた。荷を運ぶ者、値を交わす声、犬の吠える声。ギルドの中の静けさが、外の音の多さと対になって、耳の奥に残っていた。


 伊勢は一度、ギルドの建物を振り返った。石の壁に、午後の光が斜めに当たっている。あの中で、席が一日も空かずに埋まっていたことを、いま少しだけ、重く感じた。


 言いかけて止められた頼みごとの輪郭だけが、形にならないまま、しばらく胸の底に沈んでいた。

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