空いた壁
ギルドの扉は、重かった。
押し開けた瞬間、埃の匂いがした。木と古い紙とインクの、混ざって乾いた匂い。街を出る前と同じ匂いのはずなのに、伊勢の鼻には少しだけ余所行きに感じられた。中央の宿で嗅いでいたのが石と蝋の匂いだったからかもしれない。
昼下がりの広間は、静かだった。
高い窓から斜めに差し込む光が、床の埃をゆっくり照らしている。舞うでもなく、沈むでもなく、光の帯の中でただ漂っていた。受付の前に、人の列はなかった。壁の依頼票が、まばらだった。掲示板の板が、票と票の隙間で灰色に覗いている。伊勢はその隙間を、数えるともなく数えた。
「なんか、あいてるね」
ルカが受付の台に手をかけて、爪先立ちで奥を覗いた。
「うん。前より、ずっと」
声が広間によく響いた。響くほど、人がいなかった。
奥の執務机で、シャウプが書類の束をめくっていた。顔を上げるまでに、間があった。老眼鏡を外し、光の差す方へ目を細めてから、ようやく誰が来たのかを認めた。
「……戻ったのか」
立ち上がりはしなかった。それから、思い出したように付け足した。
「戻ったんなら、座れ。突っ立ってられると、落ち着かん」
伊勢は椅子を引いて、腰を下ろした。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。ルカは座らず、机の端に頬杖をついて、伏せられた書類の背を眺めていた。
◆
「討伐の依頼が、減っているようですね」
伊勢が言うと、シャウプは書類を裏返しに伏せて、腕を組んだ。日に灼けた手の甲に、前より皺が増えていた。
「気づいたか。ここ二月ばかり、じわじわとな」
「原因は」
「分からん」
シャウプは、椅子の背に体を預けた。木がわずかに軋んだ。
「魔物が減ってるのか、出方が変わったのか。奥まで見に行った奴もいる。だが、これといった報告は上がってこねえ。ダンジョンの浅いところが、静かになっただけだ」
言い方に、焦りはなかった。以前、この人が書簡を引き出しに押し込んでいた頃の、あの張り詰めた気配はどこにもなかった。声はむしろ、乾いて落ち着いていた。
「怖くは、ないんですか」
「最初はな」
シャウプは短く笑った。笑うと、口の端の皺が深くなった。
「討伐が減れば、冒険者の稼ぎが減る。稼ぎが減れば、街が荒れる。俺はそれを、いちばん怖がってた」
窓の光が、少しだけ角度を変えた。埃の帯が、机の端まで伸びた。
「だが妙でな。護衛と、採取と、店回りの依頼は減ってねえ。むしろ増えてる。討伐で食えなくなった奴が、そっちへ流れてった。稼ぎ口を移す先が、いつの間にか、できてたんだ」
伊勢は、その言葉をすぐには受け止められなかった。
自分が街を出るときに残していったのは、四つの壁を越える段取りと、いくつかの帳面と、棚の増やし方だったはずだった。それが、討伐が細ったときの逃げ場として働いているとは、考えていなかった。街の側で保たれていた何かに、自分は遅れて気づいている。そんな感覚があった。
「お前がいた頃に、そういう道を、あちこちに引いてたんだろうよ」
シャウプが、伊勢の内心を先回りするように言った。
「引いた本人が、いちばん覚えてねえ顔をしてやがる」
◆
「お前がいない間、何度か、決めなきゃならんことがあった」
シャウプが、話の向きを変えた。声が、少し低くなった。
「護衛の割り当てで揉めた時とか、依頼料を見直す時とか。中央の許可を待ってる余裕は、なかった」
「どうされたんですか」
「俺が決めた」
短く、それだけだった。
「合ってたかどうかは、知らん。半分は間違ってたかもしれん。だが、誰かが決めなきゃ、依頼票は積まれたままだ。お前が座って決めてた席に、今度は俺が座った。それだけの話だ」
伊勢は頷いた。
よくやりましたね、という言葉が喉元まで出かけて、そこで止まった。この人が欲しがっているのは、そういう言葉ではない。ただ、席が一日も空かなかったという事実を、聞き届けてほしいだけなのだと思った。だから伊勢は、何も足さずに、もう一度頷いた。
シャウプは、それでいいというように、目を伏せた。
「積まれたままの票、見るか」
「いえ」
「じゃあ見せねえ。仕事の話は、ここまでだ」
書類を引き出しにしまう手が、途中で止まった。引き出しは半分開いたまま、シャウプはしばらく、そこに手を置いていた。
「お前に、頼みたいことがある」
「なんでしょうか」
シャウプは、すぐには答えなかった。
窓の外の、票の少ない壁を見た。それから、開いたままの引き出しの中を見た。中に何が入っているのか、伊勢の位置からは見えなかった。
「……いや」
言いかけて、止めた。
「今度でいい。まだ、まとまってねえ」
引き出しが、軋みながら閉まった。その先を、伊勢は聞かなかった。聞けば、この人がまだ言葉にできていないものを、先に引き出してしまう気がした。
ルカが机の端から音もなく降りて、伊勢の袖を、そっと引いた。
「伊勢さん。行こ」
◆
外に出ると、昼下がりの光が思ったより白かった。
通りには人がいた。荷を運ぶ者、値を交わす声、犬の吠える声。ギルドの中の静けさが、外の音の多さと対になって、耳の奥に残っていた。
伊勢は一度、ギルドの建物を振り返った。石の壁に、午後の光が斜めに当たっている。あの中で、席が一日も空かずに埋まっていたことを、いま少しだけ、重く感じた。
言いかけて止められた頼みごとの輪郭だけが、形にならないまま、しばらく胸の底に沈んでいた。




