ついていく、と
発つ朝は、よく晴れていた。
機関の建物の脇に、見覚えのある背中があった。卓で何度も向かい合った若い男だった。腕に書付の束を抱えて、出入りの戸の前に立っている。
「あの」と伊勢は声をかけた。
男が振り向いた。卓の上では、いつも何かを止める側にいた人だった。今朝もその顔は、すこし不機嫌そうに見えた。
「発つのか」
「ええ。その前に、ひとつ」と伊勢は言った。「礼を、言っておきたくて」
男は束を抱え直した。
「私が動かした話は、卓の上だけのものでした。それが街まで届く形になったのは、たぶん、あなたのおかげです。細かいところを、ずっと、あなたが直してくれていた。気づくのが、遅くなりました」
男はしばらく何も言わなかった。それから目を逸らしたまま言った。
「仕事だ」
「ええ」
「俺は線を引く方が性に合ってる。お前みたいに、見て回る方じゃない」男は束の縁を指で揃えた。「だが――線だけ引いて後ろを見ない奴ばかりだと、引いた線が、いつか誰かの首を絞める。そういうのは、見てきた」
それは礼に返す言葉ではなかった。けれど伊勢には、男なりの見送りに聞こえた。
「では」
「ああ」
男はそれきり戸の中へ消えた。引き止めも餞もなかった。それで、よかった。
◆
都の門の手前で、ルカが待っていた。
足元に袋を置いて、街道の伸びる方を見ている。宿を出るときには、もうその袋は、ルカ自身の手で結ばれていた。どこへ行くのかは訊かない子だったが、伊勢が動くなら、いつのまにか、その隣にいた。
門の脇の石に、ハルカが腰かけていた。
卓で書付を見るときの姿ではなかった。薄い外套を羽織って膝の上で手を組んで、ただ朝の街道を見ている。見送りに来たのだ、と伊勢は思った。
「早いね」とハルカは言った。
「ええ。荷が、少ないので」
ハルカは立ち上がって、外套の裾を払った。それからすこし間を置いて言った。
「私も、行こうと思って」
伊勢は、すぐには言葉が出なかった。
「街まで。伊勢君の行く先を、いちど見ておきたいの」ハルカは街道の方を見たまま言った。「上には話してある。半月くらい留守にしても、卓は回るから」
「……どうして、ですか」
「伊勢君のことが、気になるから」
ハルカはこちらを見て、すこし笑った。けれどその笑みは、半拍だけ遅れて戻ってきた。誰にでも向けるいつもの笑いとは、どこか違っていた。自分でも、うまく名前のつけられないものが、その奥に混じっているふうだった。
伊勢は戸惑った。会社にいた頃から、この人はいつも、誰かと誰かの真ん中にいた。その人が、自分の行く先を見たいと言う。妙な感じがした。けれど、断る理由も見当たらなかった。
「前に、言ったでしょう」とハルカは言った。「自分で決めて立った場所じゃない、って。だから今日は、自分で決めたの。ついていく、って」
「……そうですか」
よく決めましたね、とも、いいと思います、とも言えた。けれど、どれも、いまの彼女に渡す言葉ではない気がした。彼女が自分で決めたことを、こちらが計るのは、違う気がした。だから伊勢は、それだけ言って、口を閉じた。
「うん」とハルカは言った。すこし、ほっとした顔だった。
◆
ルカが、袋から顔を上げた。
「三人に、なったね」とだけ、ルカは言った。
「ええ」と伊勢は答えた。「三人に、なりました」
ハルカがルカの方へ歩み寄って、袋の片方の紐に手をかけた。
「持つよ。重いでしょう」
「だいじょうぶ」とルカは言った。「これは、自分で持つの」
ハルカは手を引いた。すこし笑って、「そう」と言った。その笑いには、もう、遅れはなかった。
三人で、門をくぐった。
石畳が切れて、土の道が始まる。来たときには、この道を伊勢とルカの二人で歩いた。あのときはルカが街道の端に立って、いっしょに行ってもいいかと訊いた。今度は門の脇の石に、別の人が腰かけて待っていた。
置いてくるつもりだった中央が、こうして、隣を歩いている。会社時代から続いている人が、自分の街の方へついてくる。それが何を運んでくるのかは、まだ分からなかった。
ハルカは街道の先を見ていた。その横顔は、卓のときよりも、すこし軽そうに見えた。自分で決めて立った場所を、はじめて歩いている人の顔だった。
街道は、都の外へ細く伸びていた。その先に、街があった。
ルカは、ハルカの半歩後ろを歩いていた。白い髪が、朝の光をうけて、いっそう白く見えた。
ハルカの背中を、ルカは一度だけ見た。それから、何も言わずに、前を向いた。




