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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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とおいところ

 宿に戻ると、もう夜だった。広間の灯はひとつだけ残り、奥の階段は影に沈んでいる。脇の食堂から、片づけの遅い音がかすかに洩れていた。


 二階のいちばん奥、東向きの部屋の戸を開けると、窓辺の木の椅子にルカがいた。足の先が床から少し浮いて、膝の上で、小さなものを手のなかでゆっくり転がしている。


 どこへ行っていたのか、伊勢は訊かなかった。訊いても「とおいところ」と言うだけだと、もう知っていた。


「ただいま」と、ルカが先に言った。


「……おかえりなさい」


 ただいま、という言葉を、ルカはこのごろ自分から言うようになった。ずっと遠くから、その一言だけを大事に持って帰ってきたみたいに聞こえた。



 戸を叩く音がした。


 ハルカだった。廊下の暗がりを背にして、手に薄い綴りを一つ持っている。


「夜にごめんね」とハルカは言った。「明日の段取り、伝えておこうと思って」


 集まりはもうじき畳まれる。残った片づけが、あと一日か二日。そのあいだに残るか戻るか、上はそろそろ伊勢君の返事を聞きたがっている――そう、淡々と置いていく。


「急かしてるわけじゃないの」とハルカは言った。「伝えておくのが、私の役目だから」


 ハルカの目が、ふと部屋の奥へ動いた。窓辺の椅子に、ルカがいる。


 子供はこちらを見ていなかった。膝の上のものを、手のなかで転がしているだけだった。


 ハルカの視線が、その白い髪の上で、ほんの少しだけ長く止まった。


(――)


 なにかを思い出しかけて、けれどそれは指の先が触れるより早く、もう遠ざかっていた。自分がいま何を見ていたのかも、ハルカにはたぶん分かっていなかった。


 笑みが、半拍遅れて戻ってきた。


「じゃあ、また明日」


 戸が閉まる。廊下の足音が、ひとつずつ遠ざかっていった。


 伊勢は、なにも気づかなかった。返事のことばかりが、胸に重く残っていた。



「残るか、戻るか、だって」と、ルカが言った。窓の外を見たまま。聞いていたらしい。


「ええ」


「伊勢さんは、どっちにするの」


「……まだ、決められないんです」


 卓の前で何日も、決め方や、見る場所や、誰がやるかを話してきた。それなのに、自分のことになると、どこにいるべきなのかが、いちばん分からなかった。


 残ってアデルを支えることもできた。半分を街に残して、戻ることもできた。どちらも嘘ではなく、どちらも本当だった。


「ねえ」とルカは言った。「つりあいって、いちど決めたら、そのままでいてくれると思う?」


「……いいえ」


「うん。つりあいは、決めるものじゃないよ。ずっと、近くで見てるものだよ」


 ルカは椅子から下りて、卓の上の陶の水差しに手を伸ばした。小さな器に、水をすこしだけ移す。こぼれないように、そっと。それから、また水差しに戻す。やはり、こぼさなかった。


「こぼれないように、ずっと手で見てるの。とおくにいたら、見えないでしょう」


 器を置いて、ルカはこちらを見た。


「おなじつりあいでも、とおくから見る手と、近くで見る手は、ちがう手だよ。ひろう手が、みんなちがう手なのと、おなじ」


 その言い回しに、伊勢は、ずっと昔どこかで触れたことがある気がした。懐かしいものの、すぐ隣にあるような。けれど、それがどこだったかは、やはり思い出せなかった。


 残るか、戻るか、支えるか――三つのどれを選ぶか、という話だと思っていた。けれど、そうではないのかもしれなかった。自分の手が、いま、どこのつりあいの近くにあるのか。たぶん、そういう話だった。


 伊勢は、上着のポケットに手を入れた。あの石が、まだそこにあった。


 取り出して、手のひらに乗せる。灰色に、わずかな青み。見た目よりも軽い。けれど、たしかな重みが、てのひらの奥にあった。久しぶりに、その重みが、肋骨の内側に触れた気がした。


「それ」と、ルカが言った。「ちゃんと、ねむれてる?」


「ええ。あなたのおかげで、あたたかいところにいます」


 ルカは、すこし笑った。


「石はね」とルカは言った。「とおいところにいるとき、にぎってると、安心するの。ここに、かえる場所があるよって、おもいだせるから」


 伊勢は、石を握った。


 とおいところにいても、忘れないために握るもの。それなら、自分が街へ戻っても、中央に残っても、握っていられるものが、きっとある。


 決めることはまだできなかった。けれど今夜は、決めるよりも先に、自分が手放せないものの重さだけが、てのひらの奥ではっきりとしていた。


 窓の外で、街道の色が、藍からほとんど黒へ沈んでいく。ルカは、もう何も言わずに、その色を見ていた。

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