とおいところ
宿に戻ると、もう夜だった。広間の灯はひとつだけ残り、奥の階段は影に沈んでいる。脇の食堂から、片づけの遅い音がかすかに洩れていた。
二階のいちばん奥、東向きの部屋の戸を開けると、窓辺の木の椅子にルカがいた。足の先が床から少し浮いて、膝の上で、小さなものを手のなかでゆっくり転がしている。
どこへ行っていたのか、伊勢は訊かなかった。訊いても「とおいところ」と言うだけだと、もう知っていた。
「ただいま」と、ルカが先に言った。
「……おかえりなさい」
ただいま、という言葉を、ルカはこのごろ自分から言うようになった。ずっと遠くから、その一言だけを大事に持って帰ってきたみたいに聞こえた。
◆
戸を叩く音がした。
ハルカだった。廊下の暗がりを背にして、手に薄い綴りを一つ持っている。
「夜にごめんね」とハルカは言った。「明日の段取り、伝えておこうと思って」
集まりはもうじき畳まれる。残った片づけが、あと一日か二日。そのあいだに残るか戻るか、上はそろそろ伊勢君の返事を聞きたがっている――そう、淡々と置いていく。
「急かしてるわけじゃないの」とハルカは言った。「伝えておくのが、私の役目だから」
ハルカの目が、ふと部屋の奥へ動いた。窓辺の椅子に、ルカがいる。
子供はこちらを見ていなかった。膝の上のものを、手のなかで転がしているだけだった。
ハルカの視線が、その白い髪の上で、ほんの少しだけ長く止まった。
(――)
なにかを思い出しかけて、けれどそれは指の先が触れるより早く、もう遠ざかっていた。自分がいま何を見ていたのかも、ハルカにはたぶん分かっていなかった。
笑みが、半拍遅れて戻ってきた。
「じゃあ、また明日」
戸が閉まる。廊下の足音が、ひとつずつ遠ざかっていった。
伊勢は、なにも気づかなかった。返事のことばかりが、胸に重く残っていた。
◆
「残るか、戻るか、だって」と、ルカが言った。窓の外を見たまま。聞いていたらしい。
「ええ」
「伊勢さんは、どっちにするの」
「……まだ、決められないんです」
卓の前で何日も、決め方や、見る場所や、誰がやるかを話してきた。それなのに、自分のことになると、どこにいるべきなのかが、いちばん分からなかった。
残ってアデルを支えることもできた。半分を街に残して、戻ることもできた。どちらも嘘ではなく、どちらも本当だった。
「ねえ」とルカは言った。「つりあいって、いちど決めたら、そのままでいてくれると思う?」
「……いいえ」
「うん。つりあいは、決めるものじゃないよ。ずっと、近くで見てるものだよ」
ルカは椅子から下りて、卓の上の陶の水差しに手を伸ばした。小さな器に、水をすこしだけ移す。こぼれないように、そっと。それから、また水差しに戻す。やはり、こぼさなかった。
「こぼれないように、ずっと手で見てるの。とおくにいたら、見えないでしょう」
器を置いて、ルカはこちらを見た。
「おなじつりあいでも、とおくから見る手と、近くで見る手は、ちがう手だよ。ひろう手が、みんなちがう手なのと、おなじ」
その言い回しに、伊勢は、ずっと昔どこかで触れたことがある気がした。懐かしいものの、すぐ隣にあるような。けれど、それがどこだったかは、やはり思い出せなかった。
残るか、戻るか、支えるか――三つのどれを選ぶか、という話だと思っていた。けれど、そうではないのかもしれなかった。自分の手が、いま、どこのつりあいの近くにあるのか。たぶん、そういう話だった。
伊勢は、上着のポケットに手を入れた。あの石が、まだそこにあった。
取り出して、手のひらに乗せる。灰色に、わずかな青み。見た目よりも軽い。けれど、たしかな重みが、てのひらの奥にあった。久しぶりに、その重みが、肋骨の内側に触れた気がした。
「それ」と、ルカが言った。「ちゃんと、ねむれてる?」
「ええ。あなたのおかげで、あたたかいところにいます」
ルカは、すこし笑った。
「石はね」とルカは言った。「とおいところにいるとき、にぎってると、安心するの。ここに、かえる場所があるよって、おもいだせるから」
伊勢は、石を握った。
とおいところにいても、忘れないために握るもの。それなら、自分が街へ戻っても、中央に残っても、握っていられるものが、きっとある。
決めることはまだできなかった。けれど今夜は、決めるよりも先に、自分が手放せないものの重さだけが、てのひらの奥ではっきりとしていた。
窓の外で、街道の色が、藍からほとんど黒へ沈んでいく。ルカは、もう何も言わずに、その色を見ていた。




