引き継ぐ手
翌朝、いつもの東の部屋に戻った。
卓も椅子も昨日までと変わらないはずだった。けれど片側の椅子が一脚、壁際に寄せてあった。誰かが先に発ったのだ、と分かった。窓から朝の光がまっすぐ入って、空いた場所の床を白く照らしていた。集まりは、終わりに近づいていた。
◆
「残ったのは片づけの話だ」と髭の男は言った。
散らばっていた話が、ひとつずつ畳まれていく。安いものを分けて配る一本は、もう三つの街を回りはじめている。書付の角が、光で白く灼けて見えた。
「あと、一つ」と髭の男は言った。「整える側の席を常設する。これはもう決まった」
残れ、と言われた話だ、と伊勢は思った。けれど髭の男は伊勢を見ていなかった。
「誰が座るにしてもだ」と髭の男は続けた。「書いたものを、書いた人がいなくなっても回せるようにしておかねばならん。並べ方を、迷った場所ごと写しておく。それを続ける誰かが要る」
◆
卓に短い沈黙が落ちた。
アデルは、手元の束に目を落としていた。端まで揃った薄い束だった。鞄の留め具で、オレンジの飾りが朝の光をひとつ受けている。
彼女の指が、束の縁をたどっていった。最後の一枚のところで、一度、止まった。
以前、同じ場所で指が止まったのを、伊勢は覚えていた。迷った場所を書くのはこわい、と彼女が言ったときだ。
けれど今日は、指はそこで止まったまま、引き返さなかった。
「……私が書いてきたものなら」とアデルは言った。色のない声だった。「続けられます」
「迷った場所を書くのはこわい、と前に言いました。どこで自分が止まったか、人に見えてしまうので」
彼女は顔を上げた。光が留め具のオレンジをもう一度すくった。
「でも、見えていい、と思うようになりました。私が止まった場所が見えるなら、次の人は、そこで迷わずにすむか、同じ場所で安心して止まれる。——どちらでもいいんです」
声の端に、ほんのわずか色が差した。
伊勢は、何か言おうとしてやめた。
彼女は褒められたくてそう言ったのではない。喉の奥が半拍遅れて、伊勢はただ、頷いた。
◆
「残った数の話だが」と髭の男が言った。「ここでは置いた、と言ったな」
「はい」
「あれは見る側へ回した。物でも届け先でもない、どこで何が減っているか、という話だ。ここで決める話ではない。だが、見ておく話ではある」
髭の男は、印のない薄い一枚を束の下から少しだけ覗かせ、また戻した。
「街の方で、何かが静かに動いている。それが何かは、まだ誰にも書けん」
見ておく、という言葉が、伊勢の胸のどこかに引っかかって残った。街で毎日薬を売る人の手のなかに、まだ言葉になっていない数があるはずだった。それを見ておく目が、ここから街の方へ向きはじめている。
◆
散会のあと、伊勢はしばらく卓の前に立っていた。
壁際に寄せられた椅子。畳まれていく薄い書付。そして、アデルの手元に残った、迷った場所ごと写された束。
形は残る。けれど引き継ぐ人がいなければ動かない——以前、便りで受け取った言葉が、胸の底で静かに鳴った。その引き継ぐ手を、伊勢は今日、目の前で見た気がした。アデルは、自分の止まった場所を、人に見えるところへ置くと決めた。それは、形を残すこととは、別のことだった。
自分はアデルを支えることだってできる。形を残すにはまず元となる形が必要だ。チューブから出した色は無垢にきれいだが、他の色によってどうとでも汚く、また醜くもなる。
逆にもし自分がここを去るなら、自分の運んできた手の順番は、もう自分の手の中だけのものではない。続ける誰かの手に、渡っていく。
それは去ることを少しだけ軽くして、同じだけ重くもした。誰かの手に渡るものがあるということは、置いていくものがある、ということでもあった。
(——見えていい、か)
残してきたのは、いつも、できあがった形の方だった。いなくなっても回るように、と作ってきた。けれど、どこで自分が迷ったかまで、人に見えるところへ置いたことは、たぶん、一度もなかった。
見えることと、決められることは別だ——昨日、そう思ったばかりだった。けれど見せること自体に、覚悟が要るのだと、今日のアデルを見て思った。止まった場所を人目にさらして、なお続けると言う。それは、責任を引き受ける側に立つ、ということだった。
残れ、と言われた。
戻る前提で、来たはずだった。
答えはまだ出なかった。けれど今日は、その席に誰が座るのかが、昨日よりも少しだけ見えていた。そして、自分がそこに何を残して去るのかも——輪郭だけは、昨日より近くにあった。




