表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
94/104

残る、ということ

 「少しいいか?」髭の男に声をかけられたのは翌日の早朝だった。

 いつもの部屋を出て連れられたのは、いつもの東の部屋よりも少し上品な机とソファーのある部屋だった。窓は西を向いていて、午後の光が卓の角を斜めに切っている。いつも見る朝の平らな光とは、まるで色が違った。


 髭の男が先に座っていた。今日は、書付を持っていなかった。


「掛けてくれ」と髭の男は言った。



「昨日のことだ」と髭の男は言った。「お前が、ここでは決められない、と言った話だ」


「はい」


「あれを聞いて、上が動いた」


 伊勢は、卓の角の光を見ていた。


「決められない場所がある、というのは、上にとっては、面白くない話だ。だが、決められないと言える者がいる、というのは、別の話らしい」


 髭の男は、そこで一度言葉を切った。


「整える側の席を、一つ、常設したい、と言っている。お前に、転籍して残れ、と」



 残れ、という言葉は思っていたよりも静かに落ちてきた。


(——残れ)


 伊勢は、すぐには答えなかった。


 ここへ来るとき、自分は戻る前提で来たはずだった。半分を街に残して、戻るために来た。それは今でも変わっていない。昨日、紙の届かないところに自分の仕事がある、と気づいたばかりだった。


 けれど。


 残れ、と言われて、胸のどこかがわずかに鳴った。誰かに、ここにいてほしいと言われることが、これほど——伊勢は、その先を、自分でもうまく言葉にできなかった。


「すぐには、お答えできません」と伊勢は言った。


「いますぐ要る話ではない」と髭の男は言った。「動いていた方が、考えやすいこともある」


 どこかで聞いたことのある言い方だった。誰の声だったかは、すぐには出てこなかった。ただ、その言い方をする人を、伊勢は一人、知っている気がした。



 部屋を出ると、廊下にハルカがいた。


 西の窓から、午後の高い光が差していた。ハルカは壁にもたれて外を見ていた。卓で書付を見るときの目ではなかった。


「聞いた?」とハルカは言った。


「ええ」


「残れ、って」


「ええ」


 ハルカは軽く笑った。けれど、その笑みが半拍遅れて戻ってきた。



「この話を伊勢君に持っていくのは、私がいい、って言ったの」とハルカは言った。「上に」


「どうして」


「どうして、かな」


 ハルカは外を見たまま言った。


「残ってほしい、とも思う。伊勢君がここにいたら、私はたぶん、少し楽になる。——でも、それはずるい理由」


 それから、ハルカはこちらを見た。


「行った方がいい、とも思ってる。伊勢君の仕事は、たぶん、ここじゃない。昨日、自分でそう言ってたでしょう」


「……ええ」


「ね」とハルカは言った。「私、また、真ん中に立ってる」



 ハルカは、自分の言葉に少しだけ笑った。今度の笑みは遅れなかった。


「残ってほしい、と、行った方がいい、の両方にいい顔をして、伊勢君に決めさせようとしてる。子供の頃から、こう」


「……」


「ごめんね」とハルカは言った。「これは私の癖。伊勢君のせいじゃない」


 伊勢は、何か言おうとしてやめた。慰めれば、彼女はまた慰められた顔をしてみせる。喉の奥が半拍遅れた。


「真ん中に立っているあなたは」と伊勢は言った。「両方を、ちゃんと見ているんだと思います」


 ハルカは伊勢を見た。それから、ふっと息を吐いた。



「見る、っていえば」とハルカは言った。


 声の調子が、少しだけ変わった。


「私の仕事、知ってる? 鑑定とか査定とか、そういうのだと思ってるでしょう」


「違うんですか」


「半分はそう。でも、半分は、見ること。人を見るの。どこに、誰を置くか。誰が、どこから来たか。——肩のこれも」


 ハルカは、自分の肩のあたりに軽く触れた。そこに機関の印があるのを、伊勢は知っていた。


「これは、見る側の人間につく印。あんまり知られてないけど」


「……そうだったんですか」


「うん」とハルカは言った。「だから、伊勢君を見つけたのも、たぶん仕事の癖。誰が、どこに合うか。それを見るのが、私」


 ハルカは、それ以上は言わなかった。少しのあいだ、また外の光を見ていた。誰にも向けない、一人のときの目だった。



 ハルカが機関の奥へ戻っていったあと、伊勢はしばらく廊下に立っていた。


 西の窓から、午後の光がまっすぐに差していた。床に、伊勢の影が長く伸びていた。


 残れ、と言われた。

 戻る前提で、来たはずだった。


 二つは同じ重さで伊勢の中にあった。どちらかが軽ければ楽だった。けれど、どちらも軽くはなかった。


 ハルカは、両方にいい顔をする自分をずるい、と言った。けれど伊勢には、それがずるさだとは思えなかった。両方が本当に見えてしまう人なのだ。見えてしまうから、真ん中に立つしかない。

 いや、正直、会社にいる時はそんなハルカをずるいと思うこともあった。自分では手を動かさず、何も決めずに仕事を進める彼女が評価され、手を動かす自分が孤独になっていくのが気に入らなかった。

 だが、街と中央での経験が、間違えることができないプレッシャーが、双方に正義がある現場の息遣いが、伊勢の考えを少し変えていた。責任と覚悟、少しの確信を示せなければ周りは付いてこない。


(——見える、ということは)


 伊勢は、ふと思った。見えることと、決められることは別だった。昨日、自分が卓で気づいたことと、それはよく似ていた。


 ハルカは両方が見える。けれど、ハルカにも決められない。


 だから、私に持ってきたのか。


 答えはまだ出なかった。決めるには、まだ何かが足りなかった。それが何なのかは、伊勢にもまだ分からない。ただ今日は、その輪郭が、昨日よりも少しだけ近くにある気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ