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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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紙の届かないところ

 朝の光は、昨日とは違う場所にあった。


 北の機関へ上る道は、昨日の夕刻に溜めていた熱を、すっかり手放していた。石畳は乾いて白く、空は高く、雲ひとつなかった。混乱続いた依頼の話が、本当に終わったあとの朝だった。


 最初の一本は、夜明け前に、もう発ったという。三つの街へ向けて、アデルの書いた『安』の中身と、その並べ方ごと。伊勢は、それを見送ってはいない。けれど、一つ始まったと聞くと、胸のどこかが、少しだけ軽くなった。


 二階の東の部屋に入ると、卓の上に、いつもの帯が、横に長く伸びていた。低い角度の朝の光が、卓の端から端まで、まっすぐに渡っている。これまでのどの朝とも違う、平らな光だった。


 卓の上には、もう、赤い印の書付はなかった。長いあいだそこにあったものが、なくなって、卓が、いつもより広く見えた。



 髭の男が、書簡の束から、一枚を引き抜いた。これまでのものより、薄く、印もなかった。


「これで書簡の話は終いだ」と髭の男は言った。「最後に、一つ。物の話でも、届け先の話でもない」


 髭の男は、その薄い紙を、卓の真ん中に置いた。


「数の話だ」


 このところ、いくつかの街で、回復薬の求めが、少しずつ減っている。同じ頃合いに、魔物がらみの依頼の数も、静かに減っている。どちらも、急にではない。月をまたいで、ゆっくりと。


 紙には、ただ、その数字が並んでいるだけだった。理由は、どこにも書かれていなかった。


「求めが減っているなら」と若い男が言った。「作る量を、減らせばいい。中央で要る分を見積もって、上から配る量を決める。余れば無駄になる。足りなければ、また値が上がる。一括で管理すれば、どちらも防げる」


 アデルが、紙に目を落としていた。鞄の留め具の、小さなオレンジの飾りが、平らな光を受けて、卓の上に、細い影を落としている。伊勢は、それを見たが、何も言わなかった。


「……これは」とアデルは言った。「品の名と、値では、書けません」


 皆が、アデルを見た。


「私が書けるのは、何が、いくらで、どこにあるか、です。求めがなぜ減っているのかは、品の名のどこにも、書いてありません」


 いつもの、色のない声だった。けれど、その声が、紙の前で一度止まった。



 伊勢は、口を開きかけた。


 いつもなら、ここで言うはずだった。一括で配るのは正しい、ただ、と。けれど、その「ただ」の先が、出てこなかった。


 求めが減っている。依頼も減っている。数字だけを見れば、悪いことではない。むしろ静かで、安全に見える。けれど伊勢は、その静けさに、覚えがあった。


 以前、自分のいた街で、同じことが起きた。魔物が減って、浅いところが静かになって、新人の依頼が減り薬草が余った。皆が良くなったと思った。けれど、あれは良くなったのではなかった。どこかで何かの釣り合いが傾き始めていた合図だった。そして、傾きに気づいたときには、一人、帰ってこなかった。


 数字が、なぜ動いているのか。それは、この紙の上には書いていない。アデルの言うとおりだった。品の名と値では書けない。書けるのは、その数字が動いている場所を、自分の足で歩いて、見て、聞いた者だけだった。


 そして、この卓には、その場所を最近歩いた者はいなかった。



「これは」と伊勢は言った。「ここでは、決められないかもしれません」


 部屋が、静かになった。


 自分でも、思いがけない言葉だった。これまで伊勢は決められない、とは言ってこなかった。決め方を変えたり、見る場所を変えたり、誰がやるかを探したりはした。けれど、ここでは決められない、と言ったのは、初めてだった。


「決められない、とはな」と髭の男が言った。低い声だった。「ではどうする」


「分かりません」と伊勢は言った。「ただ、この数字が動いている理由は、紙の上にはありません。中央で量を決めても、決めるための中身がここにはない。なぜ求めが減ったのか、それを知っているのは、その街で毎日薬を売っている人や、依頼を受けている人です。その人たちの手の中に、まだ言葉になっていない数字があるはずです」


 若い男が、何か言いかけてやめた。線を引け、とは言わなかった。線を引く先の中身が、誰の手にもないことは、若い男にも分かっていた。



 伊勢は、ふと、街を出るときのことを思い返した。


 あの人は、門の手前でこう言った。中央の連中は紙の上の話しかしねえ。お前が、紙の上の話だけで返したら、お前は向こうの形になって戻ってくる、と。


 あのときは、その言葉の重さがよく分からなかった。今なら少しだけ分かる気がした。この薄い紙を、紙の上だけで畳もうとすれば、たぶん何かを取りこぼす。取りこぼしたものは、あとで誰かの帰ってこない朝になる。


 奥の席に灰色の縁の男がいた。今日は一言も口を開かなかった。いつもなら、皆が止まったところで、ぽつりと、一つだけ、近づいて離れていくようなことを言う人だった。けれど今日は、薄い紙を、ただ見ていた。


 その沈黙が伊勢には答えのように思えた。この人にも、ここでは、書き足すべき言葉がなかった。



 髭の男が薄い紙をもう一度手に取った。


「では、この話は」と髭の男は言った。「ここでは、置いておく」


 決まらなかった、というより、決める場所がここではない、ということだった。髭の男はその紙を束の一番下に入れた。赤い印の書付が消えた卓に、今度は何の印もない一枚が静かにしまわれた。


 集まりは早くに終わった。最後の議題が、決まらないまま閉じたのは初めてだった。けれど、誰もそれを失敗だとは言わなかった。



 建物を出ると、まだ昼前の高く乾いた光だった。

 石段の下にハルカがいた。


「今日は」とハルカは言った。「いつもの伊勢君と、少し違ったね」


「そうですか」


「うん」とハルカは言った。「決められないって伊勢君が言うとは思わなかった」


 ハルカはそれ以上は言わなかった。何かを知っているような言い方でもなかった。ただ、いつものように軽く笑って、機関の方へ戻っていった。



 いっぺんに止めると、つりあいが、こわれる。——いつか誰かがそう言っていた。止めるのではない。動いている釣り合いを、動いているまま近くで見ていなければならない。


 けれど、この卓からは、その釣り合いは遠すぎた。紙の上では、数字はただの数字だった。それが誰かの生き死にに変わるのは、紙の届かないずっと向こうの場所でだった。


 その場所がどこなのかは、伊勢にはもう分かっていた。


 ただ、言葉にすれば、何かが決まってしまう気がした。決めるには、まだ一つ、足りないものがあった。それが何なのかも、伊勢には、まだ、分からなかった。

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