拾う手
「安」の話は、その日のうちに、本当に終いになった。
アデルが書き直した薄い束——並べ方と、どこで迷ったかを写したもの——を、髭の男が正式の綴りに収めた。明日の朝には、最初の一本が、三つの街へ向けて発つ手配がついた。書簡には、まだ別の議題が残っているらしかった。けれど、それは日を改めて、ということになった。
機関を出ると、日はもう傾いていた。石畳が、昼のあいだに溜めた熱を、足の裏に静かに返してくる。アデルは先に石段を下りて、鞄の留め具のオレンジが、夕日の中で一度だけ揺れた。伊勢は、それを言葉にしなかった。
(今日は、それでいい)
◆
宿に戻ると、部屋に、ルカがいた。
しばらく、顔を見ていなかった。どこへ行っていたのか、伊勢は訊かない。訊いても、たぶん「とおいところ」と言うだけだ。
ルカは、窓辺の椅子に座って、膝の上で、小さなものを転がしていた。足の先が、床から少し浮いていた。
「おかえり」と、ルカは顔を上げずに言った。
「ただいま戻りました」と伊勢は言った。
◆
「終わったんですよ」と、つい、言ってしまった。「ずっと話していた、安いものの件が」
ルカが、膝の上の手を止めた。
「とめたの?」
「いいえ」と伊勢は言った。「止めませんでした。止めるものと、止めなくていいものを、分けることにしたんです。安いものは、止めない。代わりに棚を分けて、印を一つつける。これは安い棚のものですよ、と。買う人が、自分で選べるように」
「ふぅん」とルカは言った。「じゃあ、安いものは、まだ、お店にあるんだね」
「あります」
「よかった」
よかった、と、ルカは、ずいぶんあっさり言った。
◆
以前、この部屋で、ルカはこう言ったことがあった。安いものは、ただの石だと思われている。でも、拾った人には、宝石かもしれない、と。
「あのときの話が」と伊勢は言った。「ずっと、頭にあったんです」
ルカは、膝の上の小さなものを、また転がし始めた。
「だってさ」とルカは言った。「おなじ石でも、ひろう人がちがえば、ちがう石になるでしょ。お店の人が見たら、ただの安い石。でも、それしか買えない人が見たら、その人の、たった一つの宝石」
言葉の半分は、子供のものだった。けれど、もう半分は、伊勢の知らない、ずっと遠くを見ている誰かのものだった。
「ずっと、ふしぎだったの」とルカは続けた。「どうして、おなじものに、ねだんを一つだけつけるんだろうって。ひろう手は、みんな、ちがう手なのに」
その言い回しを、伊勢は、いつか、どこか遠いところで聞いた気がした。どこで聞いたのかは、思い出せなかった。ただ、懐かしいものに、よく似ていた。
拾う手は、みんな、違う手。
卓では、ずっと、見る手と、止める手の話をしていた。誰が見るか、誰が止めるか、止める手をどちらの側に置くか。けれど、その向こうにいる拾う手のことを、伊勢は、いつのまにか、忘れかけていた。
棚を分けて、印を一つつける。それは結局、拾う手に選ばせるためのものだった。同じ石を、ただの石として置くのではなく、拾った人が、これは自分の宝石だと、自分で見つけられるように。
「見つけられるように、したんですよ」と伊勢は言った。「誰の手のひらに乗っても、それがその人の宝石だと、見つけられるように」
ルカは、少しのあいだ、伊勢を見ていた。
「それなら」と、ルカは言った。「もう、ただの石じゃ、なくなったね」
◆
ルカが、膝の上のものを、伊勢の方へ、ことりと差し出した。あの灰色の、わずかに青みの混ざった石だった。いつのまにか、ルカの手に戻っていたらしい。
「もってて」とルカは言った。「伊勢さんの手のほうが、あったかいから。石も、よくねむれる」
伊勢は、それを受け取って、もう一度、上着のポケットに入れた。手のひらに、見た目よりも軽い重みが、しばらく残った。
◆
その時、戸を叩く音がした。
ハルカだった。明日の手配を伝えに来た、ということだった。最初の一本が三つの街へ発つ刻限と、書簡に残った話を、いつ卓に出すか。用件は、短かった。
ハルカは、戸口で言葉を切って、部屋の奥に目をやった。窓辺の椅子に、ルカがいた。
「……お客さま?」とルカは言った。子供の声だった。けれど、その続きが、少しだけ違っていた。「ひさしぶり。肩のところの印、まだ、ついてるね」
ハルカの笑みが、半拍遅れて戻ってきた。
「どこかで、会ったかな」と、ハルカは軽い声で言った。
「あったよ」とルカは言った。「お城の門のところ。ハルカさんは、忘れちゃったみたいだけど」
ハルカは、何か言おうとして、やめた。それから、いつものように笑った。
「そうだったかもね」
用件はもう済んでいた。ハルカは、では、と短く言って、戸を閉めた。
◆
廊下は、もう暗かった。
窓のない壁に沿って、ハルカは、ゆっくり歩いた。階段の手すりが、夕方の最後の光を、わずかに白く残している。その光に手をかけて、ハルカは、一度、足を止めた。
(お城の門のところ)
都に着いた日のことを、ハルカは思い返した。城門の前で、馬車の列に並んで、伊勢を出迎えた。あのとき、伊勢の隣に、白い髪の子供がいた。それは、覚えている。
覚えているのに、その子の顔だけが、思い出そうとすると、すっと遠ざかる。何度すくおうとしても、指の隙間から落ちていく。まるで、見てはいけないものを、見ないように、自分の側で蓋をしているみたいに。
◆
子供は、印のことを言った。肩のところの印、まだついてるね、と。
あれは、機関の中の、限られた者にしか意味の分からない印だった。子供が、ひと目で言い当てられるものではない。
それに、と、ハルカは思う。あの言い方。ひさしぶり、と、子供は言った。まるで、ずっと前から、こちらの肩の印を知っていたかのように。
胸の奥で、何かが、低く触れた。それが何なのかは、分からなかった。こわい、というのとも、少し違った。ただ、見てはいけないものの輪郭に、指先が、一度だけ触れたような——そういう感覚だった。
◆
ハルカは、手すりから手を離した。
窓の外では、日が、屋根の向こうに、ほとんど沈んでいた。街道の色が、紫から、藍へと変わっていく。ハルカは、しばらく、その色を見ていた。卓で書付を見るときの目ではなかった。誰にも向けない、一人のときの目だった。
「……気のせい」と、ハルカは、小さく声に出した。
声に出すと、たいていのものは、気のせいになる。子供の頃から、そうやってきた。けれど今日は、その声が、いつもより少しだけ、遠くで鳴った気がした。
明日には、最初の一本が、三つの街へ発つ。書簡には、まだ、終わっていない話が一つ、残っている。
それが何なのかは、伊勢には、まだ分からなかった。
そして、ハルカが、廊下で何に触れかけていたのかも。




