同じように、並べる
水路の土手で別れたあと、ハルカは先に北の機関の方へ歩いていった。伊勢は少し遅れて、同じ道を上った。
日はもう丘の向こうから昇りきって、街の屋根の色を、一段ずつ濃くしていた。夜の名残りは、どこにも残っていなかった。
二階の東の部屋に入ると、いつもの帯が、壁の高いところに掛かっていた。朝よりも、ずっと上だった。卓の上には、すでに紙の束が置かれていた。一枚ずつ、端まできれいに揃えて。アデルが、もう来ていた。
ハルカは、斜め向かいの席に、赤い印の書付を伏せて置いた。土手で見せた顔のことは、何も言わなかった。伊勢も、言わなかった。
灰色の縁の男が、奥の席にいた。今日は、たしかに、そこにいた。
◆
髭の男が、アデルの束に手を伸ばした。
「持ってきたか」
「はい」とアデルは言った。「『安』の中身です。訴えにあった品を、街ごとに、名と値で並べ直しました。それと——」
アデルは、もう一束、別の紙を卓に出した。さっきの束より、薄かった。
「並べ方です。どの順で見て、どこで分けたか。それを書きました」
伊勢は、その薄い方の束を見た。品の名は、ほとんど書かれていなかった。代わりに、短い言葉が並んでいた。先に値を見ない。効くと書いてあるかどうかは、いちばん後に見る。瓶の口を、指で確かめる。——そういう、手の順番だった。
「書き方ごと写せと、言われましたので」とアデルは、灰色の縁の男の方を、ちらと見た。
◆
若い男が、薄い束を一枚、手に取った。
「これを読めば、誰でも同じように並べられるのか」
「並べられるように、書いたつもりです」とアデルは言った。
「つもり、か」
若い男は、紙を卓に戻した。
「お前が書いた順で、お前が並べたものは、揃う。だが、別の人間が、同じ紙を読んで、同じものを『安』に入れるとは限らん。お前の手は、紙には写らない」
部屋が、静かになった。
アデルは、答えなかった。色のない声のまま、若い男の方を見ていた。けれど、その目の奥が、ほんのわずか、揺れた気がした。
伊勢は、口を開きかけて、止めた。
(それは——)
ここで肯定しても、若い男の言ったことは消えなかった。手は、紙には写らない。それは、本当だった。
以前、街の小屋で、布で薬草を押していた老人が、こう言ったことがあった。置いとく手と、押し切る手は、別の手だ、と。あのとき、手の違いは言葉にして初めて、別の人にも見えるようになった。けれど、見えることと、同じように動かせることは、また別だった。
◆
灰色の縁の男が、書付から顔を上げた。
「写らないのは」
低い声だった。ぽつ、ぽつ、と言葉を置くように。
「答えの方だ」
皆が、男を見た。
「私も昔書いた。次の者が、同じように並べられるように。だが、写したのは、できあがった並びの方だった。それを渡された者は、その通りに並べた。品が変われば、もう並べられなかった」
男は、アデルの薄い束に目を落とした。
「お前が書いたのは並びではない。先に値を見るな。効くという字を、後に見ろ。瓶の口を、指で確かめろ。これは手の順番だ。答えではない」
男は、それきり、また書付に目を戻した。
◆
伊勢は、薄い束を、もう一度見た。手の順番。迷う場所の、置き方。
(いなくなっても、回るように)
ずっと、そういうものを作ってきたつもりだった。自分がいなくなっても、誰かが同じ道を歩けるように。けれど、自分が残してきたのは、たいてい、できあがった形の方だった。どこで自分が迷ったかまで、写したことは、なかったかもしれない。
「一つ、試してみませんか」と伊勢は言った。
皆が、こちらを見た。
「アデルさんの書いた順で、誰か一人が、アデルさんのまだ並べていない品を、一つだけ並べてみる。同じところに入れば、その紙は写ったということです。違うところに入れば、まだ何かが足りない。今ここで、分かります」
髭の男が、若い男を見た。若い男は、少し口を結んでから、薄い束を、もう一度手に取った。
◆
アデルが、まだ並べていない品の名を、一つ、口にした。若い男が、紙の順を、指でたどった。先に値を見ず。効くの字を、後に。瓶の口は——ここでは確かめられないが、書付に「割れやすい」とあった。
若い男は、しばらく黙ってから、言った。
「……『安』には、入れない方だ。割れて、手を切る」
「はい」とアデルは言った。「私も、そこに入れました」
若い男は、紙を卓に置いた。今度は、戻すというより、置く、という手つきだった。
◆
髭の男が、筆を執った。
「『安』の中身は、アデルが、訴えの品から書く。並べ方と、迷った場所を、写しごと残す。中央は、それを一本として、三つの街に配る。危ないものは、別に、中身を見て止める」
筆が、止まった。
「これで、この話は、終いだ」
赤い印の書付が、束の下に戻された。長く卓の上にあったそれが、見えなくなった。
◆
散会のあと、アデルが、薄い束を鞄にしまっていた。鞄の留め具の小さなオレンジの飾りが、高い帯の光を受けて、卓の縁に、短い色を落としていた。
「迷った場所まで写す、というのは」と伊勢は言った。「思いつきませんでした。あなたの書いたものがあったから、あの人も、そう言えたんだと思います」
「並べ直しただけです」とアデルは言った。
いつもの、色のない声だった。けれど、束を閉じる指が、最後の一枚のところで、わずかに止まった。
「……迷った場所を書くのは」と彼女は言った。「少し、こわいですね。どこで自分が止まったか、人に、見えてしまうので」
それから、鞄を閉じた。
「では、また」
◆
伊勢は、一人、廊下を歩いた。窓の外は、すっかり昼の光だった。土手で見た夜明けの色は、もう、どこにも残っていなかった。
迷った場所まで写しておけば、いなくなっても、次の者が、同じ場所で止まれる。止まって、これでいいのだと、思える。
たぶん、それが、いちばん残るものなのだった。形よりも、答えよりも。
階段の下で、ハルカが待っていた。赤い印の書付は、もう、彼女の手にはなかった。
「終わったね」とハルカは言った。
「ええ」と伊勢は答えた。
ハルカは、何か言いかけて、やめた。土手のことでは、なかった。たぶん、書簡の、次の話だった。
「まだ、一つ、残ってるの」と彼女は言った。




