嫌われない、ということ
宿を出ると、朝の光が、建物に朝が来たことを知らせるように照り始めていた。
石畳が、本来の色を取り戻すように鮮やかに目覚め始め、夜のあいだに冷やされた石が、いまは少しずつ熱を持ち始めて、影だけが、足元から東へ長く伸びていた。煮炊きの店の方から、油と、香草を焦がした匂いが流れてくる。どこかの窓辺で、女が洗い物を始めるために水を出した音がした。
「伊勢君」
後ろから、ハルカが追いついてきた。
「少し、歩かない?」
淡々とした声だった。けれど、書付を卓に置くときの声とは、どこか違っていた。
◆
二人は、南へ向かって、ゆっくり歩いた。
大通りを一本逸れると、人の数が減って、音の層が薄くなった。両側の建物が高く、その隙間を、傾いた光が川のように流れている。壁の漆喰は、植物のように陽を吸って、いまは内側からほのかに明るんで見えた。
通りの突き当たりに、低い石段があった。古い水路の縁に沿って、土手のように石が積まれている。ハルカは、その段の途中に腰を下ろした。
そこからは、街の屋根が段々に下って、その向こうに、街道が見えた。中央の都を出て、なだらかな丘の方へ細く伸びていく、あの道だった。
「いいところでしょう」とハルカは言った。「ここ、誰も来ないの。みんな、人のいる方が好きだから」
伊勢は、少し離れて、同じ段に腰を下ろした。
◆
「この前」とハルカは、街道の方を見たまま言った。「会社にいた頃の話を、したでしょう」
「ええ」
「みんなが、潰せ、囲え、って言ってたとき。伊勢君だけが、誰に何を売ってるか先に見せてくれ、って言った」
「言いました」と伊勢は答えた。「あのときは、誰も賛成しませんでしたが」
「うん。誰も賛成しなかった」
ハルカは、膝の上で、指を一度組み直した。
「私はね、あのとき、伊勢君の側につかなかったの。みんなの言うことも分かるなあ、って顔をして、両方の真ん中に立ってた。そういうの、得意なんだ。どっちにもいい顔をするの。子供の頃から、ずっと」
風が、土手の草を撫でて通った。光が、彼女の横顔の輪郭を、橙色に縁取っていた。
「私、たぶん、誰にも嫌われたことがないの」とハルカは言った。「一度も。それって、すごいことみたいに、みんな言うんだけど」
言葉が、そこで一度切れた。
◆
「——どこにも、いないみたいなの」
ハルカは、笑っていた。けれど、その笑い方は、いつも卓で見せるものと、少しだけ違っていた。
「みんなに好かれるように、部屋の形に合わせて、ずっと自分を曲げてきた。気がついたら、曲げてない自分が、どこにあるのか、分からなくなってた。部屋の形が変われば、私の形も変わる。それなら、私って、いったいどこにいるの、って」
伊勢は、何か言おうとした。
(あなたは、そんなことは——)
そう言いかけて、口を閉じた。それは、彼女が欲しがっている言葉ではなかった。慰めれば、彼女はまた、慰められた顔をしてみせるだけだ。それがいちばん、得意なのだから。
喉の奥が半拍遅れた。
「この前の話に、続きがあったでしょう」と伊勢は、ようやく言った。「あなたが、なんでもない、って飲み込んだ言葉です」
ハルカは、街道を見たまま、少しのあいだ黙っていた。
「……伊勢君を、ここに呼んだ理由」と彼女は言った。「嫌われるのが、こわくない人を、近くで見ていたかったから。そう言いそうになって、やめたの。ずるいでしょう。自分にないものを、人にやらせて、それを見て安心しようとしてた」
◆
伊勢は、街道の方を見た。
丘の上で、最初の光が、雲の縁を細く灼いていた。空気だけはまだ夜の名残り惜しそうに、その雲が陽を隔しているわずかな間で、まるで今までの二人に別れを告げるように、伊勢達に最後の夜の空気を届けていた。
「俺は、ずっと、好かれるのが下手でした」と伊勢は言った。「正しいと思うことを言うと、たいてい、その場の半分を敵に回す。あなたみたいに、誰からも好かれる人を見ると、あれはひとつの腕前だと、本気で思っていました。羨ましかった」
「腕前」とハルカは小さく繰り返した。
「ええ。でも」
伊勢は、言葉を選んだ。
「八日のあいだ、あなたは一言も口を挟まなかった。みんなが止める止めると言い合うのを、ずっと黙って聞いていた。そして、いちばん最後に、止めなきゃいけないものと、止めなくていいものを、一緒にしてないか、と言った。あれは、部屋の形に合わせた言葉ではなかった。誰も言わないことを、いちばん最後に、あなたが言ったんです」
ハルカは、答えなかった。
「それが、どこにもいない人の言葉だとは、俺には、思えません」
◆
風が、また土手を渡った。
日は、ほとんど丘の向こうから上がって、街の屋根が、一段ずつ、鮮やかに色を入れるところだった。どこかの家で灯が消えて、誰かが目覚めていく。
ハルカは、しばらく何も言わなかった。それから、いつものように、淡々と笑った。
「伊勢君は、やっぱり、そういうことを言うんだね」
その声が、慰められた顔のものなのか、それとも違うものなのか、伊勢には、まだ読み取れなかった。
ただ、彼女は、すぐには立ち上がらなかった。彼女の顔にだけまだ夜がまとわりついて、街道の色を、他人事のように見ていた。
答えが出たわけではなかった。彼女が、どこにいるのか。伊勢にも、たぶん彼女自身にも、それは、まだ分からないままだった。
それでも太陽が彼女と伊勢の顔を、もうすぐにでも照らすだろう。
また今日が始まる。




