揃える人
議論はいったん中断となった。
重くなった空気から逃れるように部屋の外に出ると、窓からは伊勢の心とは裏腹に雲が風に沿って流れていた。
冷たい水で色々な感情を胃に流した後、部屋に戻ると卓の上を一本の帯が斜めに渡っていた。
灰色の縁の男が席に戻っていた、いや、彼は席を立たなかったのかもしれない。書付に目を落としたまま、何も言わずにいた。ハルカは伊勢の斜め向かいで、同じ厚い書付——赤い蝋の印のあるそれを、束の一番上に置いていた。
髭の男が、奥から口を開いた。
「先ほどの話だ」
赤い印が、戻ってきた光の中にあった。
「止めずに、分ける。危ないものだけ中身を見て止める。そこまでは、よかろう」
髭の男は、書付の縁を指の先で叩いた。
「だが、ひとつ残った。『安』の棚に何を入れるか。その分け方が街ごとにばらばらなら、印は役に立たん」
その『安』の印というのは、傷んだ果物を籠にまとめて『安』と書いて置く、あの話ではなかった。市場に流れ込んでいる安い回復薬や道具を、どの棚に置き、値札の隣にどんな印を付けるか——そういう話だった。
「南の街の『安』と、北の街の『安』が、別のものを指していたら」
髭の男は続けた。
「客は印を見ても何も分からん。同じ言葉が、街ごとに違うものを指す。それなら、印など、ない方がましだ」
◆
若い男が、迷わず言った。
「中央で一本、決めればいい。『安』とは何か。中央が一度書いて、三つの街に同じものを配る。それで揃う」
「中央で一本」と髭の男が繰り返した。「では、その一本に何を書く」
若い男は、口を開いて、止まった。
伊勢は、その間を見ていた。中央で一本、というのは正しかった。揃えるなら、出どころは一つの方がいい。けれど、その一本に何を書くかは、実際の品を見た者にしか書けなかった。
「『安』に入れていい薬と、入れてはいけない薬」と伊勢は言った。「その線は、どの街に、どんな安い薬が、いくらで流れているかを知らないと引けません。机の上で『安とはこういうものだ』と書いても、本当の品に当ててみると、合わないんです」
「では、誰が見た」と髭の男が言った。「この中に、その三つの街の市場を、自分の足で歩いた者がいるのか」
部屋が静かになった。
「分ける」と決めはした。だが、その分け方を、本当の品から書ける者は、この卓には——
◆
「……一通り、写しは取ってあります」
声がした。アデルだった。
皆が、彼女を見た。アデルはいつもの色のない声のまま、足元に置いていた鞄から、紙の束を取り出した。
「南の三つの街の訴えです。連名の書付に、品の名と、値が書いてありました。どの街で、何が、いくらで売られているか。それを品ごとに並べ直しました」
アデルは、束を卓の上に置いた。一枚ずつ、端まできれいに揃っていた。
「『安』の回復薬と呼ばれているものが、三つの街で同じものとは限りません。ひとつの街では、効きが半分でも害のないもの。別の街では、効くと言って売って、効かないもの。同じ『安』でも、中身が違う。それを、先に分けておきました」
伊勢は、その束を見た。
アデルは、中央が上から線を引くべきだ、と言っていた人だった。けれど、彼女が引こうとしていた線は、机の上だけの線ではなかった。本当の品の名と値を、一つずつ並べ直した上で引く線だった。上から決めることと、現場の品を一つずつ見ること。その二つが、この人の中では、ぶつかっていなかった。
「いつ、これを」と若い男が言った。
「昨日の夜です」とアデルは言った。「用意するのが仕事ですから」
ハルカが、書付の束に置いた手を、わずかに緩めた。何も言わなかった。ただ、息を一つ、静かに吐いた。
◆
伊勢は、束の上に並んだ品の名を、目で追った。値が、街ごとに揃えて書き出されていた。読めば、どこの『安』が何を指しているか、一目で分かるように。
「中央で一本に揃える、というのは、正しいと思います」と伊勢は言った。「出どころが二つあれば、また街ごとにずれる。ただ、その一本を、誰が、何から書くか。机の上の『安とはこういうものだ』ではなく、本当に流れている品の名と値から書く。それができる人が、揃える人だと思います」
伊勢は、アデルの方を見た。
鞄の留め具に、小さなオレンジの飾りが下がっていた。戻ってきた朝の光が、そこに当たって、卓の白い紙の上に、ごく薄い色を落としていた。
その色のことは、言わなかった。
「アデルさんは、もう半分、書いています」と伊勢は続けた。「品の名と、値で、並べ直すところまで。あとは、その並びのどこに『安』の線を引くか。それを、同じ手で、三つの街に同じものとして配る。揃える人が一人いて、その人が本当の品から書いたものなら、客は、印を信じられます」
印の意味が揃うかどうかは、誰が揃えたか、で決まる。あの人が並べたものなら同じだ、と思える人が、一人。それが要るのだった。
髭の男が、アデルの束に手を伸ばした。一枚、二枚と、めくった。
「……揃っているな」
「並べ直しただけです」とアデルは言った。
◆
「では、こうしよう」
髭の男が言った。
「『安』の中身は、アデルが、この訴えの品から書く。中央は、それを一本として三つの街に配る。危ないものは、別に、中身を見て止める。今日は、ここまで書いておく」
灰色の縁の男が、書付から顔を上げた。
「一人が書いたものは」
低い声だった。
「その一人がいなくなると、消える。書いた人の、書き方ごと、写しておけ。次の者が、同じように並べられるように」
それだけ言って、また目を落とした。アデルは少し間を置いて、「写します」と答えた。
◆
建物を出ると、空は高く、風に乾いた匂いがあった。先ほどの雲は、もう、どこにもなかった。
アデルが、先に石段を下りていた。鞄のオレンジの飾りが、歩くたびに、小さく揺れていた。
伊勢は、追いつかなかった。ただ、その揺れる色を、少しのあいだ、見ていた。以前、似合うと思います、と言って、失敗した。今日は何も言わなかった。けれど、言わなくても、その色はもうそこにあった。
アデルが、一度だけ、振り向いた。
「写しは、明日、お持ちします」
色のない声だった。けれど、先ほどまでより、ほんのわずか——その声の端に、色が差した気がした。
伊勢は、頭を下げた。
◆
宿への道で、伊勢は、上着の隅に手を入れた。指の先に、いつもの石が当たった。なめらかで、見た目より軽い、灰色にわずかな青の混じる石。
安いものは、ただの石だと思われている。でも、拾った人には宝石かもしれない——以前、ルカが、そう言っていた。
揃える、というのは、その石を、誰の手のひらに乗せても同じ宝石に見えるように、並べておくことなのかもしれなかった。
伊勢は、石を握り直した。指の中で、それは、いつもより少しだけ、温かかった。




