見る手と、止める手
朝、宿を出るとき、ルカは窓辺の椅子にいた。
膝の上に陶の小皿を載せて、水差しの水を、ほんの少しずつ皿に移しては、また水差しへ戻していた。何になるわけでもない手遊びだった。こぼさないように、というだけのことを、ずっとやっていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
ルカは顔も上げずに言った。水の面が、ほんのわずか揺れた。
◆
北の建物に着くと、今朝は雲が出ていた。
いつもなら東の窓から斜めに差し込んで卓の上を渡る光の帯が、今日はなかった。部屋の中が一様に薄く曇って、人の輪郭も物の影も、やわらかく沈んでいた。墨壺の黒も、いつもより鈍く見えた。
灰色の縁の男の席は、今日は空いていた。ハルカは伊勢の斜め向かいで、書付の束に手を置いたまま、何も言わずにいた。
髭の男が、奥から口を開いた。
「昨日の続きだ」
書付の赤い印は、まだそこにあった。
「中身を見る、というのは、誰がやる」
若い男が、迷わず答えた。
「中央で決める。品の良し悪しの基準を一本引いて、満たないものは止める。見るのは基準で足りる。一本の線なら、目がぶれない」
「中央が線を引けば早いです」とアデルが続けた。「街ごとに任せると、見方がばらつきます」
その手元で、鞄の留め具に小さなオレンジの飾りが下がっていた。曇った光の中でも、そこだけ色がはっきりしていた。
伊勢は、何か言いそうになって、口を閉じた。今日は、それは言わない。
部屋の流れが、線を引く方へ傾いた。
◆
「線で止めると」
伊勢は言った。
「線の少し下にいたものまで、止まります。質はそこそこでも、安いから、やっと買えていたものも。線の上か下かしか、見ないので」
「だから線を低くする。要らないところまでは止めない」
「線をどこに引いても、すぐ下に、誰かの暮らしがあります。一本の線では、そこは見えません」
「では、お前はどうやって止める」
若い男の声が、少し高くなった。
「線を引かずに、何を止めるんだ。危ない品が流れ込んでも、誰も止められない。それで商人が守れるか」
「止めます」と伊勢は言った。「割れて手を切る瓶、効かないのに効くと売る薬。それは線ではなく、中身を見て止める。安いか高いかではなく、買った人に何をするかで」
「その中身を、誰が見る」
「品に近い人です。長くその品を売ってきた人なら、手に取って分かる」
若い男が、短く笑った。
「自分の品を、甘く見ない商人がいるか。自分の首を絞める基準を、自分の手で当てる者が、どこにいる」
伊勢は、口を開きかけて、止まった。
(——それは)
言い返せなかった。現場が見る、と言ったが、その手が自分に甘くなることまでは、塞げていなかった。
◆
「記録を残せば」
伊勢は、少し間を置いてから言った。
「甘く見た手も、後で並べれば、形でわかります」
「並べる手は、誰だ」
若い男が、すぐに返した。
「現場が見て、現場が残して、現場が並べるのか。自分の甘さを、自分で見つけるのか」
伊勢は、答えを探した。見つからなかった。
さっきから、どこで止めるか、誰が止めるか、そればかりを、二人で取り合っている。止める手を、どちらの側に置くか。その一つを。
部屋が、静かになった。髭の男は、口を挟まなかった。
◆
「あの」
ハルカが、ふいに口を開いた。どれくらいの時間がたっていたのだろう?
それまで一度も、口を出していなかった。
二人が、同時に彼女を見た。
「さっきから、止める止めるって言ってるけど」
ハルカは、書付の束に置いた手を、少し動かした。
「止めなきゃいけないものと、止めなくていいものを、一緒にしてない?」
誰も、答えなかった。
「割れて手を切る瓶。効かないのに効くと売る薬。ああいうのは、止める。買った人が、怪我をするか、騙される。だから、止めるしかない。そこは、迷わない」
ハルカは、指を一本立てた。
「でも、ただ安いだけのものは、誰も怪我しない。質がそこそこなのを、そこそこの値で、分かって買う。それは、止める話じゃない。止めるんじゃなくて——分ければいい」
「分ける」と伊勢は繰り返した。
「うん。同じ棚に混ぜないで、いい品といい品、安い品は安い品で、置く場所を分ける。値札の隣に、それが分かる印を一つ付けるだけでもいい。買う人は、見れば分かる。いいのが欲しい人は、いい棚から取る。安くてかまわない人は、安い棚から取る。どっちも、買える」
ハルカの声は、いつもどおり、淡々としていた。
「市場の隅で、もうみんな、やってることだと思う。ちょっと傷んだ果物を籠にまとめて、『安』って書いて置いてあるでしょう。あれを見て、文句を言う人はいない。安いのが欲しい人は、まっすぐそこへ行く。あの籠を、品物のぜんぶに広げるだけ」
若い男が、口を開きかけた。ハルカは、それより先に続けた。
「線を引いて止めると、線のどっち側に置くか、みんな必死で隠す。誤魔化す。当たり前だよ。止められたら、売れなくなるんだから。甘く見る手が出るのは、止めるからなの。止めなくて、ただ分けるだけなら、隠す理由が、半分なくなる。安い棚に置かれても、安いのが欲しい人には、ちゃんと売れる。隠して、いい棚に紛れ込ませて、客に怒られる方が、よっぽど損になる」
——それは。
伊勢は、息を呑んだ。
ずっと、自分に甘くなる手を、どう塞ぐかを考えていた。塞ごうとするから、隠される。止めるのをやめれば、隠す手の方が、先に要らなくなる。見る手の甘さを、誰かが上から正すのではなく、安い棚でも売れる、というそのことが、甘く見る理由を、内側から抜いていく。
若い男は、まだ何か言いたげに、口を結んでいた。だが、さっきまでのように、すぐには返さなかった。
「ただ」とハルカは、最後に付け足した。「どの品を、どの棚に置くか。その分け方だけは、街ごとにばらばらだと、買う人が迷う。南の棚と北の棚で『安』の意味が違ったら、印の意味がなくなる。そこだけは、たぶん、揃えないといけない」
部屋が、また静かになった。
止める線を、どこに引くか、ではなかった。何を、どう並べて見せるか、だった。
髭の男が、赤い印のついた書付を、もう一度手に取った。そこに何を書き足すのかは、まだ、決まっていなかった。




