値で止める、ということ
また、東の部屋に呼ばれた。
朝の光は一日分、低い場所を通っていた。卓の上を渡る帯が、窓の桟のすぐ下まで降りていた。
今日は六人そろっていた。髭の男が奥。若い男と、灰色の縁の男。アデルはいつもの席。ハルカは伊勢の斜め向かいに腰掛けていた。
伊勢は座る前に、アデルの方へ小さく頭を下げた。
「アデルさん。昨日は」
「その話は、もういいです」
アデルは書付の縁を指で揃えながら、伊勢の方を見ずに言った。色のない声だった。
昨日のことは完全に失敗だった。それでも心が保てたのはルカが励ましてくれたおかげだった。
「ここでは、別の話をしますから」
伊勢は頷いて、座った。
◆
ハルカが、卓の上に一枚の書付を置いた。これまでの束とは紙が違っていた。厚く、端が硬く、下の方に赤い蝋の印が押してあった。
「今日は、私が持ってきた話を」
ハルカは前置きをせずに続けた。
「南の三つの街から、同じ訴えが上がってきた。商人たちの連名よ。『安い品が市場を壊している。中央で、取り締まってほしい』——そういう訴え」
髭の男が、書付の印を指の先で確かめた。
「安い品、とは」
「どこから来たか分からない、安い回復薬や安い道具。質は確かに落ちる。でも値が街の半分以下なの。客がそっちに流れる。古くからの商人が、立ち行かなくなっている」
若い男が口を開いた。
「話は簡単だ。安い品の出どころを締める。質の基準を決めて、それに満たないものは売らせない。市場の値を守る。それで商人は助かる」
アデルが続けた。
「中央が基準を決めて、上から止める。いちばん、早い」
部屋の中の流れが、そちらに傾いた。
◆
伊勢は、その話を頭の中で一度、最後まで通した。
(安い品を、値で止める)
反射のように、頭の中で言葉が立ちかけた。安いから、というだけで止めたら——
言いかけて、口を閉じた。安い品が古い商人を立ち行かなくしている。それは本当のことだった。長く市場を支えてきた人が、ある日、客を失う。家族がいる。それを軽くはできなかった。
「商人を守る。それは、その通りだと思います」
伊勢は卓の上に、右手を置いた。
「安い品が急に流れ込んで、長く市場を支えてきた人を立ち行かなくする。それは、本当の害だと思います。守る理由は、あります」
「だろう」
髭の男が言った。
「ただ」
伊勢はそこで一度、間を置いた。
「値で止めると、安いものはみんな止まります。質の悪いものも。それから、質はそこそこでも、安いから、やっと買えていたものも」
伊勢は、卓の真ん中の何もない辺りに目を落とした。
「私のいた街で、初心者向けの安い薬草の束を出したことがあります。商人には、商売としては最悪だと言われました。利が薄いので。ですが、それまで何も買えずに無理をして死んでいた新人が、それを買って、生きて帰るようになりました」
部屋が、少し静かになった。
「安い、というのは値の話です。値だけを見て止めると、その安いもので、やっと生きていた人が、見えなくなります」
◆
灰色の縁の男が、顔を上げた。
「値で止めた市場を、私は、見たことがある」
低く、平たい声だった。
「止めなくていいものまで、止まった。あとで、戻すのに、何年もかかった」
それだけ言って、また書付に目を落とした。
◆
「止めるな、とは言いません」
伊勢は言った。
「危ないものは止めるべきです。割れて手を切る瓶や、効かないのに効くと言って売る薬は、安かろうと高かろうと止める。ですが、それは値で決める話ではありません。中身を見て決める話です」
「中身を、見る」
髭の男が繰り返した。
「ええ。安いか高いかではなく、その品が買った人に何をするか。手を切らせるのか、生きて帰らせるのか。それを見る。安いもの全部を一度に止めるより、面倒です」
「また、面倒か」
「ええ。とても、面倒です」
髭の男はしばらく、書付の赤い印を見ていた。
「値で一度に止める方が、早い」
「早いです。ですが、早く止めた分、戻すのに何年もかかる。値上げした製品が原料が落ち着いたからと言って値下げをすると思いますか?一度市場で受け入れられればその価格は正になる」
灰色の縁の男は何も言わなかった。ただ、書付の上で筆を、一度、止めた。
髭の男が、息を吐いた。
「……中身を見る、というのは、誰がやる」
その問いが出たとき、伊勢は少しだけ、ほっとした。誰が、という問いが出たなら、話は前に進む。
「それは、これから決めることだと思います。ただ、値で止めるより先に、一度、中身を見た記録がどこかに残っていれば。次に同じ訴えが来たとき、その記録から始められます」
髭の男は若い男の方を見た。若い男が書付に、短い文を書いた。
「今日は、ここまでにする」
◆
建物を出ると、空は高く、風が乾いていた。
ハルカが先に、通りに立っていた。
「久しぶりだった」
ハルカが前を向いたまま言った。
「伊勢君がああいう話をするのを見るのは」
伊勢は少し黙ってから、答えた。
「ハルカさんが、あの書付を持ってきたんですね」
「ええ。私が選んで持ってきたの」
ハルカは歩き出した。伊勢も半歩、後ろをついた。
「会社にいたとき」
ハルカが言った。
「似た話があったでしょう。安い相手が市場に入ってきて、みんなが潰してくれ、囲いを作ってくれって言った。上の人ほどそう言った」
「……ありましたね」
「あのとき、あなただけ違うことを言った。その安い相手が、どこの誰に何を売っているのか、先に見せてくれ、って」
ハルカは少しのあいだ、黙った。
「私があなたをここに呼んだ理由は、たぶんそれと同じなの」
風が、二人のあいだを抜けていった。
ハルカが、何か続けようとした。喉の奥が半拍遅れた。
「……ううん。なんでもない」
ハルカは笑って、角の方へ歩いていった。
と、不意にくるりとこちらに向き直りこう付け加えた。
「アデルが鞄に珍しくオレンジの飾りをつけてたんだけど、伊勢君の入れ知恵?」
◆
宿に戻ると、ルカが窓辺の椅子に座っていた。足の先が、床から少しだけ浮いていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「今日は、何の話だったの」
伊勢は椅子の隣に、荷を置いた。
「安いもの、の話です。安い品が市場を壊している。だから止めてくれ、という訴えが来ました。値で一度に止めるか。中身を見て決めるか。そういう話です」
ルカは少しのあいだ、窓の外を見ていた。
「安いものって、ただの石だと思われてるんだね」
ルカは膝の上で、両手をゆっくり開いて、閉じた。
「でも、ひろった人には、宝石かもしれないよ。安いから生きてる人がいるなら、それは、その人の宝石だよ」
伊勢は、ルカの横顔を見た。
窓の光が、ルカの白い髪の先を薄く透かしていた。その言葉の選び方を、いつかどこかで聞いた気がした。どこで聞いたのかは、像を結ばなかった。
「ええ」
伊勢は答えた。
「値だけ見て止めると、その人の宝石まで止めてしまう。だから、中身を見てから、と話してきました」
「ふぅん」
ルカは足を、ぶらぶらさせた。
「いっぺんに止めると、つりあいが、こわれるよ」
ルカは、暗くなりかけた通りを見ていた。
「こわれると、もどすの、たいへんだもんね」
伊勢は答えなかった。それは灰色の縁の男も言っていたことだった。戻すのに何年もかかる、と。
どうしたらよいのかは、伊勢にもまだわからなかった。




