運ぶ人の、名前
五つ目の光の帯が、窓の桟よりも少し下の壁を照らしていた。
卓の上の羽根筆は昨日と同じ側に置かれていたが、墨壺だけが少し手前に引かれていた。誰かが昨日の終わりに触ったか、あるいは今朝誰かが先に来ていたか、そのどちらかだろうと思った。
六席のうち五席が埋まっていた。灰色の縁の男は今日も最後に来た。戸口の側から衣擦れの音がして、昨日と同じ席に静かに座った。
◆
「昨日の続きだ」と髭の男は言った。「運ぶ人を一人。その話を、具体に落とす」
若い男が書付を一枚開いた。
「一人というのは、専任という意味ですか。それとも、ほかの仕事と兼ねる形か」
「兼ねる形だと思います」と伊勢は言った。「仕分けの卓の誰かが朝の一刻だけその仕事を持つ、という形の方が現実的なはずです。専任にすると、その人が変われば止まる」
薄い縁の女がゆっくりと顔を上げた。
「昨日、私が言ったことと同じですね。人に頼ると壊れる、と」
「ええ」と伊勢は言った。「その通りだと思います。だから、専任には反対です」
女は少しだけ表情を変えた。反論を待っていたのかもしれなかった。
◆
誰も、すぐには口を開かなかった。
若い男が書付を一枚繰った。
「仕分けの卓には、顔を知っている人間が行く方がいい、という話でしたね。ここにいる方々は、仕分けの卓に何度か行かれたことはありますか?」
髭の男が少し間を置いた。
「俺は行ったことがない。報せは全部、書付で来る」
若い男は髭の男の顔を見た。次に灰色の縁の男を見た。灰色の縁の男は何も言わなかった。それが答えだった。
若い男が伊勢の方を向いた。
「私も、ありません」と伊勢は言った。「この街に来てまだ日が浅いので」
若い男は自分の書付に目を落とした。
「私もです。窓口には行きますが、仕分けの卓の中には入ったことがない」
部屋がしばらく静かになった。
誰も行ったことがない、という事実が、卓の上にそのまま置かれた。
◆
薄い縁の女が、書付をゆっくりと裏返した。
「私は、二度ほど」
全員が女の方を向いた。
「三年前に、別の件で話を聞きに行ったことがあります。仕分けの卓の古い人とは、顔だけは知っている」
「それは」と伊勢は言いかけて、少し考えた。「今もその方は」
「さあ。三年前の話ですから、変わっているかもしれない」
「でも、入り口は分かる」
女は伊勢を見た。確認するような目だった。
「入り口は分かります」
◆
「では」と髭の男は言いかけた。
「私も行きます」と伊勢は言った。
女が少し顔を上げた。
「初めて行く場所に一人で行かせるのは、筋が通らないと思います。私には顔がありませんが、もう一人いる方が話は進みやすい。それに」
伊勢は少し間を置いた。
「この話を持っていったのは私なので、最後まで、半分は持っていた方がいい」
女はしばらく伊勢を見ていた。反論を考えているのではなく、何か別のことを測っているようだった。
「……分かりました。一緒に行きましょう」
それから、思い出したように付け加えた。
「アデル、と言います。名前を知らないまま隣に立つのも変ですから」
「伊勢です」と伊勢は言った。
「それは知ってます」
女——アデルは、小さく頷いた。
「いつ行くか」と若い男が言った。書付に何かを書く準備をしていた。
「今日の午後、集まりが終わってから」とアデルは言った。「長くなる話ではないはずです。一刻もあれば戻れます」
「それで行きましょう」と伊勢は言った。
髭の男が一度だけ頷いた。若い男が書付に短い文を書いた。灰色の縁の男は何も言わなかったが、書付を一枚手前に引いて、また戻した。
◆
集まりが終わって廊下に出ると、アデルは既に階段の手前に立っていた。待っていたのかどうか、伊勢には分からなかった。
「仕分けの卓は南の棟です」とアデルは言った。
「ついていきます」
アデルは少し歩き出してから、振り向かずに言った。
「一緒に行くと言ってくれた人間が、ここではあなたが初めてです。ここの人間はお互いのことに無関心ですので、少し驚きました」
伊勢は何も言わなかった。何と返せばいいか、すぐには出てこなかった。
ふと、リリアが、確認するように横を向くときの顔を、なぜか思い出した。
出発前に二人で飲んだ橙の灯りの店で、「……そうですね」と言ったときの、あの顔だった。
反論でも同意でもなく、何かを自分の中で測り直している顔。
石畳の廊下を、二人で歩いた。
◆
宿に戻ったのは夕方だった。
仕分けの卓の古い人はいなかったが、代わりに三人のうち一番古い人に話すことができた。アデルが口を開き、伊勢が補った。三十分ほどで終わった。「分かった。こちらで決める」という言葉を受けて二人で出てきた。
「うまくいきましたね」とアデルは言った。建物を出たところで、初めて少し表情が緩んだ。
「アデルさんが入り口を知っていたので」と伊勢は言った。
「ふふ、そうでしょうね。でも、あなたが最初の一回を言わなければ、誰も動かなかった」
二人は少しの間、並んで石畳の上に立っていた。
「明日、報告しましょう」とアデルは伊勢の顔を見て言った。
この人は薄い緑の印象しかなかったが、明るい色もきっとよく似合う。
「ええ」と伊勢は言った。
◆
部屋に上がると、窓辺の椅子に小さな影があった。
ルカが帰っていた。膝の上に何かを乗せて、窓の外を見ていた。
「おかえり」と伊勢は言った。
「おかえり」とルカは言った。振り向かないまま、窓の外を見ていた。
この子が「ただいま」と言わないのは、どこに帰ってきたのかが、まだ決まっていないからかもしれない。あるいは、帰り先というのは自分で決めるものだと知っているからかもしれない
だったら自分がその「ただいま」の場所になれるだろうか?
伊勢は今日の出来事をルカに話始めようと口を開いた。




