誰かの宛名で
朝、食堂に下りると、階段の脇の棚の上に、封書が一通立てかけてあった。
宿の女主人が、奥の調理場から顔だけ出して言った。
「昨日の夕方に届いていましたが、お部屋まで持っていくのも、と思いまして」
「ありがとうございます」
伊勢は封書を手に取った。縦長の紙の表に、大きくない文字で宛名が書いてあった。
「伊勢 海人さんへ」
差出人の欄には、名前ではなく、「(不急)回復薬 結果報告」とだけあった。
伊勢は、封書を上着の内側に入れた。食堂の窓から見える空は、まだ白に近い青だった。
◆
北の方の機関の建物は、今日も四つ目の光の帯が窓の桟に近い場所を通っていた。
席に着くと、昨日と同じ四人がいた。髭の男、若い男、薄い縁の女、ハルカ。灰色がかった縁の男の席は、今日も空だった。
髭の男が、卓の上に両手を置いた。
「昨日の話の続きだ」
部屋の中が、少し静かになった。
「運ぶ人を一人置く、という話。各々、考えてきたと思う」
薄い縁の女が、書付の縁に視線を落としたまま口を開いた。
「信頼のある人、と言っても、その人が変わったら、また一から始めることになる。仕組みではなく、人に頼るということの問題です」
声はまっすぐだった。反論ではなく、問いを出してくれているような声だった。
伊勢は、少しだけ間を置いてから言った。
「その通りだと思います」
薄い縁の女が、初めて伊勢の方を見た。
「人に頼ることは、その人が変われば壊れます。だから、運ぶ人を、また決める。その繰り返しになる」
「では、何も変わらないのではないか」
若い男が、書付の角を指で押さえた。
「変わります」
伊勢は答えた。
「一度でも誰かが、その積まれた報せを朝に読んで運んだことがあれば、次に決める人はその仕事の形が分かっている。やり方が残ります。」
髭の男が、低い声で言った。
「……形、か」
「人がいなくなっても、形は残ります。形が残れば、次の人が、同じ道を歩けます。」
少しの沈黙のあと、戸口の側で衣擦れの音がした。
灰色がかった縁の男が、静かに、しかしあまりにもタイミングよく部屋に入ってきた。
髭の男が、男の方を見た。
「来たか」
「すでに話し声がしていたんでな、外で聞いていた」
男は、卓の上に、細く折った書付を一枚置いた。広げると、小さな文字で何かが書いてあった。男は、それを伊勢の側へ、指一本でゆっくり押した。
伊勢は書付を受け取った。
「私が、形を引き継ごうとして失敗した数だ」
部屋の中が静かだった。
「形が残っていても、引き継ぐ人がいなければ形は消える。私はその人を決めるより先に仕組みを広げようとした」
男の声は、低くも高くもなく、平たかった。
「だから今あなたが言ったことは、正しいと思う。ただ、形を引き継ぐ人を決めることが、結局一番後回しになりやすい。すると仕組みに合う人材がおらず、大抵はとん挫するか、強行して失敗することが多い。覚えておいた方がいい」
伊勢は、書付を両手で持ったまま、男の言葉を受け止めた。
(——この人も、何かを積み上げて、失った)
◆
集まりは、その日の昼過ぎに終わり、ひとまず伊勢の提案通りに進むことになった。
若い男はあまり乗り気ではなかったが。
ハルカは別の用向きがあると言って先に通りを折れた。
伊勢は、宿への道を、ひとりで歩いた。
南の通りを抜けると、風が少しだけ冷たくなっていた。上着の内側に手を当てると、封書の感触があった。
宿に戻って、部屋の卓に封書を置いた。ルカはいなかった。窓辺の椅子は空で、卓の端に石だけが、昨日と同じ場所に置いてあった。
伊勢は、封書を開いた。
文字は、決して上手くはなかった。一文字一文字が、少しずつ大きさが違った。
「伊勢さん、中央はどうですか。街は変わりありません。回復薬を作るのはまだ慣れないようで、以前よりは効率的に作れますが、まだまだのようです。ですが、不思議なことに魔物の数が減っているので回復薬が不足することはありません。ああ、そうだ。ひとつ、聞いてもいいですか。伊勢さんの言っていた『形』というのは、仕事のやり方のことですか。冒険者がそういうことを聞いてきたのですが、うまく答えられませんでした。マロイ」
伊勢は、便りを読み返した。
窓の外で、風が通りの石畳の上を走る音がした。ルカが帰ってきたのかもしれない。
(——『形』というのは、仕事のやり方のことですか)
どう返事を書くか、少しだけ考えた。それから、卓の引き出しから紙と筆を出した。
石は、もうすぐ帰ってくるルカから見えるように、静かに置いてあった。




