落ちる報せ
朝の光は、また少しだけ低い場所を通っていた。卓の上を渡る帯が、昨日よりもさらに窓の桟に近づいていた。季節は、伊勢が気づかないあいだに、一日ずつ前へ進んでいるらしかった。
二階の東の部屋には、今日は四人しかいなかった。髭の男が奥。その右手に若い男。左手に薄い縁の女。昨日助言を貰った男の席は、空のままだった。
ハルカが伊勢の斜め向かいに腰掛けながら、その空席に一度だけ目をやった。何も言わなかった。
「おはようございます」
伊勢が言うと、髭の男は書付の縁を指の先で揃えてから、低い声で返した。
「座ってくれ。昨日の話は改める。それでよいか?」
「はい、私も異論ありません。私も街と中央の状況を整理せずに議論を広げてしまいすみませんでした。」
ハルカは伊勢の発言に反応をしていたが、目の端に感じ取った程度だったのでどんな表情をしていたかは分からなかった。
◆
「今日は、別の話をする」
髭の男はそう言って、卓の上に新しい書付の束を置いた。
「周辺の街や隊から中央に報せが上がってくる。物の数が足りない。道が荒れた。人が一人帰らない。そういう報せだ。それを、まず一つの卓が受ける。受けて仕分ける」
髭の男は卓の上で、束を二つに分けるように手を動かした。
「これは物の話だ。こっちの卓へ回せ。これは届け先の話だ。あっちの卓へ回せ。そうやって、報せは正しい卓に届く。仕分けの卓があるから、どの報せも、迷わずに行き先が決まる」
髭の男は話を続ける。
「だが、近頃、その仕分けの卓に、報せが溜まるようになった」
若い男が、卓の上の自分の書付を一枚、指で押さえた。
「物の話でも、届け先の話でもない報せがある。あるいは、その両方にまたがる報せだ。仕分けの卓は、それを、どちらにも回せない。物の卓に回せば、届け先の話だと突き返される。届け先の卓に回せば、物の話だと突き返される」
薄い縁の女が、本日初めて口を開いた。
「それで、仕分けの卓に、強い権を持たせよう、という話になっています」
女の声はまっすぐだった。
「どちらの卓も突き返せないように、仕分けの卓が、上から決める。これは物の卓がやれ。これは届け先の卓がやれ。そう命じる権を、持たせる」
◆
伊勢は、その話を頭の中で一度、最後まで通した。
(仕分けの卓に、上から命じる権を持たせる)
反射のように、頭の中で言葉が立ちかけた。それでは、仕分けの卓が、二つの卓の上に立つことになる。分けたはずのものが、また一つの手に戻ってしまう——
言いかけて、伊勢は口を閉じた。
昨日、戸口を出ていく前に、すれ違いざまに言われた言葉が、頭の隅に残っていた。連中の理屈を、一度、丸ごと飲み込んでから、その上で、道の話だけをしろ。理屈を否定する者の言うことは、ここでは、誰も聞かん。
伊勢は、もう一度、女の話を頭の中で受け止め直した。突き返される報せがある。どこにも回せない報せが溜まる。それは、本当のことだった。仕分けの卓を責めても、何も変わらない。仕分けの卓は、正しく仕分けているだけなのだ。
「仕分けるのは、そのままでいいと思います」
伊勢は、卓の上に右手を置いた。
「物の話と、届け先の話を分けて回す。それは正しいやり方だと思います。報せが迷わずに行き先に着くのは、仕分けの卓があるからです」
「だろう」
髭の男が言った。
「ただ」
伊勢はそこで、一度間を置いた。
「どちらの卓にも回せない報せが、今、どこに溜まっているのか。それを、伺ってもいいですか」
部屋の中が、少し静かになった。
「……どこ、とは」
薄い縁の女が補足として情報を継いでくれた。
「物の卓でもなく、届け先の卓でもないなら、その報せは、仕分けの卓の上に、積まれたままになっているはずです。誰のものでもない報せが、毎日、少しずつ、卓の上に増えていくのでしょう。ですからそれを上の権限で強制的に執行させるのです。」
若い男が、髭の男の方を見た。髭の男は、何も言わなかった。
「私が、伺いたいのは」
伊勢は、卓の上の見えない束に、もう一度、手をかけた。
「その積まれた報せを、毎朝、一番上から読む人が、今いるのかどうか、です」
◆
誰も、すぐには答えなかった。
薄い縁の女が、自分の書付の縁を、少しだけ動かした。
「……いません」
女が言った。
「読む人が、決まっていません。それは、誰の仕事でもないので」
「では」
伊勢は言った。
「仕分けの卓に、上から命じる権を持たせると解決できるのかどうかは、私には経験がなく分かりません。それは、皆さんの感覚が正しいと思っています。ただ、その権を持たせても、持たせなくても、どちらにも回せない報せは、これからも出てきます。物の話でも、届け先の話でもない報せは、きっとなくなりません。」
伊勢は、卓の真ん中の、何もない辺りに目を落とした。
「だから、命じる権の話とは別に、もう一つだけ。その、誰のものでもない報せが積まれる場所に、毎朝、一番上から読む人を、一人、それも『この人が言うなら』という信頼のある人で決めておく。読んで、これは物の卓に持っていった方がいい、これは届け先の卓に、と、自分の足で運ぶ人を、一人。それだけ、置いておくのは、どうでしょうか」
「仕分けの卓が権限を持って実行するのと、何が違う」
髭の男が、低く言った。
「仕分けの卓は強制権を行使し、行き先を決めて回すのだと理解しました。ですが強制的に受け取った者はどうしてもその判断に懐疑感を持ったり、やっつけ仕事になる。結果としてトラブルがあった時に仕分けの卓にの信頼が落ちる。そうすると、今の状態よりも悪くなってしまうリスクがある。」
髭の男は、しばらく、伊勢の置いた手の方を見ていた。
「……それは、面倒だな」
「ええ。とても、面倒です。人の感情はそれほど『誰が』というのが重要なのです。」
伊勢は、そう言った。街でも、それは、いつも、誰かがやらなければならない役だった。回っくる報せを、自分の意志で運ぶ役。突き返されても、また運ぶ役。
その役を、長いあいだ、引き受けていた人の、低い声を、伊勢は知っていた。
(——いずれ、止めにくる)
昨日の、あの男の声が、ふと、頭の隅で重なった。誰のものでもない報せを、誰も運ばないまま、卓の上に積み上げていったら、いつか、その山が、何かを止める。
上着のポケットの石の重みが急に重くなった気がした。
◆
髭の男は、議題をそこで一度置いた。今日はここまでにする、ただこの意見について各々考えてほしいと。
建物を出ると、ハルカが先に通りに立っていた。空には、薄い雲がかかっていた。
「信頼感のある運ぶ人を、一人」
ハルカが、前を向いたまま言った。
「あなたが街でやってたのも、それでしょう」
伊勢は、少しだけ黙ってから、答えた。
「……どうでしょうか。私は、運ぶ人を、決める方だったかもしれません」
ハルカは、ふっと笑った。
「同じことよ。誰も運ばない報せがあることに、気づける人が、いちばん少ないの」
二人は、北の通りを、宿の方へ歩いた。
◆
宿に戻ると、部屋の窓辺の椅子に、ルカが座っていた。足の先が、床から少しだけ浮いていた。膝の上に、何か小さなものを、両手で包んでいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
ルカは、包んでいた手を、ゆっくり開いた。中には、何もなかった。ただ、手のひらを開いて閉じる、その仕草だけがあった。
「今日は、何の話だったの」
「どこにも、届かない手紙の話です」
「それってとても悲しいお手紙だね」
伊勢は、椅子の隣に荷を置きながら言った。
「物の話でもない、届け先の話でもない手紙が、机の上に、たまっていく。誰も、読まないまま」
ルカは、少しのあいだ、窓の外を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「よまれないお手紙はほうせきといっしょだね。見つけないとただの石だもんね」
伊勢は、ルカの横顔を見た。
窓からの光が、ルカの白い髪の先を、薄く透かしていた。その横顔の、言葉の選び方が、いつかどこかで見たものに、似ている気がした。どこで見たのかは、像を結ばなかった。
「ええ」
伊勢は答えた。
「だから、毎朝、一番上から読む人を、一人、置いた方がいい、という話をしてきました」
「ふぅん」
ルカは、また窓の外に目を戻した。
「それ、たぶん、石を宝石にしてくれる人の話だね」
卓の端には、昨日と同じ場所に、ルカから見える側に、石が置いてあった。
仕事の関係で次回の更新は6/6(土)となります。




