顔を上げる
朝の光は、昨日と同じように東向きの窓から斜めに差し込んでいた。ただ、卓の上を渡る光の帯は、昨日よりもわずかに低い場所を通っていた。一日分、季節が進んだのかもしれなかった。
二階の東の部屋には、伊勢が入った時には既に五人が揃っていた。昨日と同じ席だった。髭の男が卓の向かいのいちばん奥。その右手に若い男。左手に薄い縁の女。そして、いちばん端に、灰色がかった縁の書付を前に置いた男が座っていた。
ハルカは伊勢の斜め向かいに腰掛けて、書付の束を卓の上で軽く揃えた。
「おはようございます」
伊勢が言うと、髭の男が低い声で返した。
「座ってくれ」
伊勢は昨日と同じ手前の椅子に腰掛けた。卓の上の墨壺の位置も、羽根筆の向きも、昨日とほとんど変わっていなかった。ただ、人の手で一度触れられて、また戻された気配だけがあった。
◆
「昨日の話だ」
髭の男はそう切り出して、卓の上の自分の書付の縁を、指の先で軽く揃えた。
「あんたは、等級を付けるところと、その先の——棚を見にいくところまでを、ひとつの仕事として話した。行ったり来たり、と言ったな」
「ええ」
「ここでは、それは分かれている。鑑定の卓は、物に名前と等級を付ける。それを、誰に、どの順番で届けるかは、別の卓が決める」
髭の男は卓の真ん中の辺りに、見えない線を一本引くように、右手をゆっくり動かした。
「分けることには、理由がある。同じ人間が等級も届け先も決めると、等級の方が、届け先の都合に引きずられる。売りたいものを、上の等級にしたくなる。だから分けた」
伊勢は、その言葉を頭の中で一度受け止めた。理屈は通っていた。街でも、似た歪みを見たことがあった。等級を付ける人間が、商人の顔色を窺うようになれば、等級そのものが信じられなくなる。
「分かります」
伊勢は卓の上に右手を置いた。
「分けた方が、等級は曲がりにくくなります。それはその通りだと思います」
「だろう」
「ただ」
伊勢はそこで一度、間を置いた。
「分けたあとで、二つの卓が互いの様子を一度も見にいかなくなったら、結果、どうなりますか」
部屋の中の音が、わずかに低くなった。
「等級の卓は、自分の付けた等級が、棚の上でどうなっているかを知らないまま、等級を付け続けます。届け先の卓は、その等級がどんな手で、何を見て付けられたかを知らないまま、物を動かします。やがて、片方が片方を、信じられなくなります」
若い男が、髭の男の方を一度見た。髭の男は何も言わなかった。
◆
「それは——」
声がした。
卓のいちばん端からだった。
灰色がかった縁の書付を前にしていた男が、初めて顔を上げていた。年は、髭の男よりは若く、伊勢よりは上に見えた。痩せた頬で、目の下に眠りの足りない者の薄い影があった。
「それは、分けたことの問題ではない」
男は、低くも高くもない、平たい声でそう言った。
「分けたあとで、二つの卓が互いを見にいく道を、誰も作らなかった、という話だ。分けることと、道を作らないことは、別の話だ」
伊勢は男の顔を見た。男は伊勢を見てはいなかった。卓の真ん中の、何もない辺りを見ていた。
「分けるのはいい。等級の曲がりを防ぐためだ。だが、分けたなら、見にいく道を、別に一本、引いておかなければならない。それを引かずに分けただけで終わらせると——」
男はそこで言葉を切った。それから、少しだけ声を落とした。
「いずれ誰か、もしくは何かが止めにくる」
その、最後の一言の声の低さに、伊勢は一瞬、息を止めた。
(——止めにくる)
どこかで、聞いた言い方だった。誰の声だったかは、すぐには像を結ばなかった。
ただ、上着の内側の、書簡とは別の側のポケットに入れた石の、わずかな重みが、肋骨のあたりに当たっていた。伊勢は卓の縁に置いた手のひらを、軽く開いて、また閉じた。
◆
髭の男が、発言をした男の方を見ていた。
「珍しいな。あんたが、初日の次の日に口を開くのは」
男は、それには答えなかった。書付の縁を揃え直すでもなく、卓の上で手を組むでもなく、ただ、また視線を卓の真ん中に戻した。
「私は、もう道を引く側ではない」
男はそれだけ言った。
「ただ、引かなかったときに、何が起きるかは知っている」
部屋の中が、しばらく静かだった。
ハルカが、書付の束の上で指を一度だけ動かした。伊勢の方は見ていなかった。
◆
集まりは、それからまた議題の細部をなぞる話に戻った。髭の男が議題の一つ目を「明日、改める」と言って書付を閉じたのは、昨日よりも少し早い時刻だった。
伊勢が席を立とうとした時だった。
例の男が、書付の束を抱えて、伊勢のすぐ脇を通り過ぎた。すれ違いざま、男は足を止めずに、低い声で短く言った。
「あんたの言った、行ったり来たり、だがな」
伊勢は男の方を見た。男は、もう戸口の方を向いていた。
「ここで、その言葉を、そのまま使うな。曲がりを防ぐために分けた、という連中の理屈を、一度、丸ごと飲み込んでから、その上で、道の話だけをしろ。理屈を否定する者の言うことは、ここでは、誰も聞かん」
それだけ言って、男は戸口を出ていった。書付の縁の、灰色がかった色が、廊下の暗がりに紛れて見えなくなった。
伊勢は、しばらくその場に立っていた。
今のは、助言だった。それも、ひどく正確な場所を突いた助言だった。昨日から今日にかけて、伊勢が一番、足を置きかけていた場所——中央の理屈を、まず否定してかかろうとしていた、その手前のところを、男はちょうど見ていた。
◆
建物を出ると、ハルカが先に通りに立っていた。
「あの人、何か言ってた?」
「ええ。少し」
「珍しい」
ハルカは通りの北の方を見ていた。
「あの人、私もよく分からないの。何を考えてるのか。普段は、ほとんど口をきかない。でも、たまに、ああやって、誰かのところに、すっと近づく」
「……近づく」
「うん。近づいて、一言だけ言うの。別に何か行動をするわけでもないから、コネでいるんじゃないかって噂よ。」
ハルカは少しだけ笑って、歩き始めた。
伊勢は男の言葉を、もう一度頭の中で並べ直した。理屈を、まず飲み込め。その上で、道の話だけをしろ——筋は、通っていた。通りすぎるほど、通っていた。
ただ、最後まで残ったのは、男が部屋で言った、別の一言の方だった。
(いずれ、止めにくる)
その声の低さが、なぜだか、街にいるときに聞いたような言い方だった。
石の重みが、また一度、肋骨のあたりに当たった。




