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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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袋の中の、ちいさいもの

朝の光が、窓の方からではなく、隣の建物の屋根の上を斜めに渡って、部屋の中の壁の高い場所に当たっていた。


伊勢が目を覚ました時、ルカは既に窓辺の木の椅子に腰掛けていた。布の袋は膝の上で、両手で軽く抱えられていた。背筋は伸びていて、足の先は床から少しだけ浮いていた。窓の外を見ているのか、窓の内側の何かを見ているのかは、伊勢の側からは判らなかった。


「おはようございます」


「おはよう」


ルカは、振り向かずにそう返した。それから、布の袋を膝の上で一度だけ持ち直した。袋の中で、丸い形のものが、また一度だけ、ことり、と動いた。


(昨日と、同じ音)


伊勢は、自分の寝台の縁に腰掛けて、卓の上の水差しから杯に水を注いだ。水は昨日と同じように、冷たくて、わずかに甘かった。



階下の食堂で朝の麦の粥を済ませてから、宿の戸口を出た。脇の通りは、昨日の夕方より人の数が少なかった。荷を背負った人が二人、向こうから歩いてきて、すれ違う時に伊勢の方を見もしないで通り過ぎた。靴の音は石畳の上で、乾いた、少し高い音を立てた。


「どっち、いく?」


ルカが、伊勢の腰のあたりに視線を置いたまま、そう尋ねた。布の袋は両手で抱えていた。


伊勢は、脇の通りの両側を一度見た。北の方が、昨日来た大通りの方角だった。南の方は、まだ歩いたことがなかった。


「南の方へ、行ってみますか」


「うん」


ルカは、それだけ言って、伊勢の半歩後ろをついて歩き始めた。歩幅は伊勢のものよりも小さかった。それでも、足の運びに乱れはなかった。



脇の通りを南へ少し行くと、別の大通りに出た。昨日の大通りよりも幅は狭いが、戸口の上の看板の数は、こちらの方が多かった。


通りの両側には、布を扱う店、革を扱う店、紙を扱う店——それぞれの扱うものを表すらしき絵が、看板に描かれていた。布の店の戸口の前には、染めの色見本が、紐に通されて軒先から下がっていた。風が吹くと、色の並びが揺れて、目の中で順番が変わった。


「いろ、いっぱい」


ルカが、軒先の色見本の前で立ち止まった。布の袋を膝の前に抱えたまま、首だけを少し傾けて見上げていた。


「ええ」


「街にも、これくらいあった?」


伊勢は、街の道具屋の棚を思い出そうとした。ラッジの店の棚に並んでいた布の見本は、たしか五色か六色だった。


「街は、もう少し、種類が少なかったと思います」


「ふぅん」


ルカは、それ以上は何も言わずに、また半歩後ろに戻って歩き始めた。


紙の店の戸口の上には、書付の束を片手に抱えた人の出入りが多かった。書付の縁の色が、店ごとに違うように見えた。中央の機関の書付らしき、深い紺色の縁取りのものを抱えた人もいれば、もっと薄い色の縁のものを抱えた人もいた。


伊勢は、自分の上着の内側にしまった書簡のことを、一度思い出した。差出の印は、街では見たことのない形をしていた。あの印を、紙の店の縁取りの濃さの中で並べたら、どの辺りに置かれるのだろうか——と、半分だけ思った。


(中央の連中は、紙の上の話しかしねえ)


街を出る前夜に、いつもより半段低い声で置かれた一言が、紙の店の戸口の前で、ふっと頭の上に乗った。それから、また、通りの音の層に紛れて消えた。



通りの先に、小さな広場があった。中央に石の水汲み場があって、その縁に何人かが腰掛けて、水筒に水を満たしていた。広場の脇に、低い石の段が一段だけ作られていて、その上にも何人かが座っていた。


伊勢は、その段の空いている場所を見つけて、ルカを促した。


「少し、ここに座りましょうか」


「うん」

ルカは、伊勢の隣に腰掛けた。布の袋は、膝の上に置いた。


広場の真ん中の水汲み場で、水が石の縁を打って、低い音を立てていた。少し離れた場所で、子供が二人、何かを言い合いながら走っていった。馬の蹄の音は、通りの方からは届かなかった。


ルカが、膝の上の布の袋を、両手で軽く持ち上げた。それから、紐の結び目に、片手の指を当てた。


「伊勢さん」


「はい」


「きょうは、あさってじゃない、けど」


ルカは、紐の結び目を、指の先で一度だけ撫でた。


「もういいかな、って、思って」


伊勢は、ルカの膝の上の袋に視線を落とした。自分から尋ねることはしなかった。


ルカが、紐をほどいた。結び目は、片手の指の動きだけで、軽くほどけた。布の口が、ゆっくり開いた。


袋の中には、丸い形のものが、ひとつ、入っていた。


石だった。


伊勢の手のひらに乗るくらいの大きさで、表面はなめらかに磨かれていて、色は、灰色と、わずかに青みを帯びた灰色が、混ざっていた。何の石なのかは、伊勢には判らなかった。


ルカは、その石を、両手で袋の中から取り出した。それから、片方の手のひらの上に乗せて、もう片方の手で軽く支えた。


「これ」

「あげる」


伊勢は、ルカの顔を見た。ルカは、石を見ていた。


「私に、ですか」


「うん」


ルカは、石を支えていた両手を、伊勢の方へ少しだけ差し出した。


「もってて」


伊勢は、両手で受け取った。石は、見た目よりも軽かった。冷たくはなかった——ルカの両手の中にあった時間の分だけ、人の体の温度が、表面に残っていた。


「どこで、見つけたんですか」


「とおい、ところ」


ルカは、伊勢の手のひらの上の石を見ていた。視線は、ゆっくり動いた。


「ずっと前から、もってた。ひとりで、いるときに、にぎってると、安心するの」


大人びた言葉と子供の言葉が、半分ずつ混ざっていた。それから、ルカは、ニコッと笑った。


「だから、伊勢さんに、あげるね」


伊勢は、その笑顔を見た。


(——また)


その笑顔は、何だか懐かしいものに似ていて、どこで見たんだろう、と、もう一度思った。だが、その先は、伊勢の側の言葉にはならなかった。


石の表面の、青みを帯びた灰色の部分が、広場の朝の光の中で、わずかに揺れて見えた。


「ありがとうございます」


「うん」


「大切に、します」


「うん」


ルカは、それから、空になった布の袋を、両手で軽くたたんで、膝の上に置いた。袋は、急に薄くなって、ルカの両手の中に、すっぽり収まる大きさになった。



広場を出て、伊勢は石を上着の内側の、書簡とは別の側のポケットに入れた。書簡と石が触れないように、別の側にした——それは、自分でも、なぜそうしたのかはうまく言葉にならなかった。


日が高くなる頃、二人は通りの一本奥に入った小さな煮炊きの店で、昼を取った。麦のパンと、何かの根菜の煮込みと、子供用に薄い乳のような飲み物が出された。ルカは、スプーンの底が皿に当たらない手首の角度で、煮込みをすくった。


「おいしい?」


「まあまあね」


大人びた語尾だった、それから、ルカは、煮込みのパンをちぎって口に入れて、もぐもぐと噛んだ。その所作だけは、子供のものだった。

伊勢の中でルカに対する見方が変わったのか、親しい間柄で見せるようなものにも聞こえた。ひょっとしたらルカは今までも伊勢に対しては同じような感情で、変わったのは伊勢の方かもしれない。自分で壁を作っていたのか。いずれにしてもルカには正面から向き合おう。



午後になって、二人は宿の方角へ戻り始めた。脇の通りに入った頃には、日の角度が少し低くなっていた。建物と建物の隙間に差す光が、朝とは反対側の壁を照らしていた。


宿の戸口の前で、ルカが、伊勢の上着の裾を、指の先で軽く引いた。


「あのね」


「はい」


「夕方の、ひと、来るのよね」


伊勢は、ルカの顔を見下ろした。ルカは、宿の戸口の方を見ていて、伊勢の顔は見ていなかった。


「ええ」


「私、部屋で、待ってる」


「——いいんですか」


「うん」


ルカは、それから、宿の戸口を先に入っていった。布の袋は、両手で軽く抱えていた——空になった袋を、それでもまだ、抱えていた。


伊勢は、その背中を一拍見送ってから、自分も戸口を入った。



日が暮れる少し前に、食堂の入口の扉の鈴が、短く鳴った。


伊勢は、卓の窓寄りの席で、書簡をもう一度開いて、明日の段取りの欄を目で追っていた。視線を入口の方へ流すと、ハルカが、昨日と同じ深い紺色の上着で、立っていた。


喉の奥で、何かが、半拍、遅れた。


「伊勢くん」


「神崎、さ——ハルカ、さん」


ハルカが、ふっと笑った。


「半分、覚えてくれたね」


伊勢は、それに返す言葉を、すぐには見つけられなかった。ハルカが、卓の向かいの椅子に、姿勢を少しだけ崩して座った。手元には、書付の束が一つあった。束の縁は、深い紺色の縁取りだった。


「お子さんは?」


「部屋に、います」


「そう」


ハルカは、束の一番上の紙を、卓の上に置いた。


「明日からの集まりの、場所と、段取り」


「はい」


「場所は、ここから歩いて十五分くらい。北の方の、機関の建物。明日の朝、私が迎えに来る」


「分かりました」


ハルカは、それから、束の二番目の紙を、最初の紙の脇に並べた。


「議題の、一覧」


伊勢は、その紙を、手元に引き寄せた。


議題は、いくつか並んでいた。文字の形は、街の書付のものとは違っていて、縦に揃えるのではなく、横に揃えて書かれていた。それでも、一つ目の議題の文字は、はっきりと読めた。


——査定の、考え方を、揃える。


「査定」


伊勢は、その語を、声に出して読み上げた。


「うん」


ハルカは、卓の向かいで、軽く目元だけで笑った。


「こっちでは、それを、鑑定、って呼ぶことが多いんだけど。伊勢くんは、たぶん、その呼び方は、しっくり来ないと思う」


伊勢は、ハルカの顔を見た。


「会社の時の、伊勢くんの仕事の延長線上に、あるものだから。物に名前と等級を付ける話、っていうよりは、何を、どういう順番で、誰に届けるか、を整える話。集まりに呼ばれている人の中で、その整える側の仕事を、ちゃんと考えたことのある人は、たぶん、伊勢くんだけ」


「いや、それは——」


「会社の時の、あのプロジェクトの、伊勢くんがいたのと、同じ理由」


ハルカは、それ以上は説明しなかった。卓の上の紙の縁を、指の先で軽く揃え直した。


伊勢は、その紙を、もう一度見た。議題の二つ目以降の文字は、目の中ですぐには像を結ばなかった。一つ目の「査定の、考え方を、揃える」だけが、紙の上で、はっきりとした輪郭を持っていた。


(紙の上の話だけで返したら、お前は、向こうの形になって戻ってくる)


伊勢は、その声を、頭の上で一度だけ受け止めた。それから、卓の縁に置いた自分の手のひらを、軽く開いて、また閉じた。上着の内側の、書簡とは別の側のポケットに入れた石の、わずかな重みが、肋骨のあたりに当たっていた。


「分かりました」


「うん」


ハルカは、それから、卓の上の二枚の紙を、束の中に戻した。立ち上がる前に、伊勢の顔を、もう一度だけ見た。


「明日の朝、迎えに来るから」


「はい」


「あ——それと」


ハルカは、卓の脇に立ったまま、視線を一度だけ階段の方へ流して伊勢の方に向き直った。


「久しぶりに会えてうれしかった」


ハルカは、それから、束を抱えて、食堂の入口の方へ歩いていった。歩幅は、昨日と同じだった。床の上を、必要な歩数だけで進む歩き方だった。


扉の鈴が、短く、もう一度鳴った。



部屋に戻ると、ルカは、寝台のうちの窓に近い方の縁に腰掛けて、空の布の袋を、両手の上で軽く広げていた。


伊勢が入っていくと、ルカは顔を上げた。


「話、おわった?」


「ええ」


伊勢は、上着の内側のポケットから、石を取り出した。両手で軽く包んでから、卓の上に置いた。石は、卓の木目の上で、わずかに青い灰色を残していた。


ルカが、その石を見た。


「もって、いた?」


「ええ。一日中」


「ふぅん」


ルカは、それから、ニコッと笑った。それから、空の布の袋を、軽くたたんで、寝台の縁の奥の方に置いた——昨日までと同じ位置だった。


伊勢は、卓の上の石を、もう一度両手で包んでから、ポケットに戻した。


窓の外の建物の屋根の向こうで、空の色が、夜の側へ一段ずつ変わっていた。

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