城門の中で
馬車の列は、ゆっくりと前へ進んでいた。
前の荷馬車が城門の手前で停まり、御者が降りて、門の脇に立つ衛兵に書付を渡していた。衛兵は二人いて、片方が書付を見ている間、もう片方は荷台の幌をめくって中を覗いた。やり取りはどれも短く、声はこちらまでは届かなかった。
ルカは、窓の縁に指を一本だけ添えて、その様子を見ていた。背筋は伸びたまま、指の力は強くも弱くもなかった。布の袋は膝の上に戻していた。
伊勢は、上着の内側から書簡を取り出して、もう一度封を確かめた。蝋は割れたあとを爪で押さえてある。書簡の表には宛名と差出の印。差出の印は、街では見たことのない形をしていた。
「次、行きやす」
御者が、前を向いたまま、短くそう言った。馬車が前へ進み、衛兵の前で停まった。
衛兵の片方が、まず御者の前に立った。御者は懐から通行証を出して、両手で渡した。衛兵が無言で目を通し、判の位置を指で押さえ、それから頷いた。通行証は御者の手に戻された。
もう片方の衛兵が、馬車の側面に近づいて、窓の中を覗き込んだ。視線は伊勢に止まり、それから一度だけ、ルカの方へ流れた。
「お連れは」
「子供と、私です」
「ご身分の証は」
伊勢は、書簡を窓の縁から渡した。衛兵が受け取り、宛名と差出の印を見て、表情が少しだけ変わった。封の脇の差出の印を指で軽く撫でるようにして確かめてから、もう一度、伊勢の顔を見た。
「失礼しました。お通りください」
書簡は、伊勢の手に戻ってきた。衛兵は半歩下がって、御者の方へ短く手を上げた。
馬車が動き出した。
城門の下を通る一瞬、馬車の中が暗くなった。石の天井が頭の上にあって、車輪の音が、外の街道の時よりも一段、こもった音に変わった。それから、また光が戻ってきた。
「中へ、入りました」
「うん」
ルカは、それだけ言った。それから、布の袋の上で両手の指を一度だけ組み直した。
◆
城門を抜けた先は、街の中の通りとは別の街だった。
石畳は街のものよりも幅が広く、目地の石が小さく揃って詰められていた。車輪の音は、外の街道の時よりも乾いた、少し高い音に変わっていた。通りの両側には、二階建ての建物が隙間なく続き、一階の戸口の上に、それぞれ違う形の看板が下がっていた。
人の数が、街のひと朝の比ではなかった。
歩いている人の上着の色も、靴の形も、被っている帽子も、ひとつとして同じものがなかった。荷を背負った人、子供の手を引いた人、書付の束を脇に抱えた人。馬を引く人もいた。馬は街で見るものよりも体が大きく、毛並みが整っていた。
音の層も違った。
蹄の音と車輪の音、人の声、戸口の鈴、どこか奥の方で打つ金物の音、それから、何の音だかわからない低いざわめき。それらが、ひとつの層になって、街の中の通りでは聞こえなかった重さを作っていた。
匂いも、種類が多かった。
煙の匂いだけでも、煮炊きの煙、炉の煙、何かを焼いた煙——それぞれ違うものが、通りごとに混ざって流れていた。それに、革の匂いや、香草の匂い、馬の匂いが混じった。
「いっぱい、いる」
ルカが、窓の外を見ながら言った。
「ええ」
「街のひゃくばいくらい?」
「それは……どうでしょう」
伊勢は、その問いに正確に答える数を持っていなかった。
馬車は、大通りから一本、脇の通りへ入った。
そこは大通りよりは静かで、二階建ての宿らしい建物が並んでいた。御者が手綱を引いて、そのうちの一軒の前で馬車を停めた。
「お宿は、ここで合ってますかね」
御者が、初めて振り返って、伊勢に短く尋ねた。
伊勢は書簡をもう一度開いて、宿の名を確かめた。建物の戸口の上に、書簡と同じ字の看板が掛かっていた。
「ええ、ここです」
「では、おろさせてもらいやす」
御者は降りて、馬車の戸を開けた。伊勢が先に降り、それからルカが、自分の足で降りた。布の袋は両手で抱えたままだった。
御者が荷を下ろし終えると、伊勢は懐から銀貨を数えて渡した。御者は両手で受け取り、頷いた。
「お気をつけて」
「ええ、ありがとうございました」
御者は、それ以上は何も言わずに、馬車の御者台に戻った。手綱を一度引き、馬車は脇の通りをゆっくり戻っていった。車輪の音が、しばらくの間、通りの石畳の上に残った。
ルカが、その音を見送るように、馬車の去った方角へ顔を向けていた。
「行っちゃった」
「ええ」
「あの人とはもう会えないかもしれないね」
「そうかも、しれませんね」
ルカは、それから、宿の戸口の方へ顔を戻した。
◆
宿の中は、街の宿よりも天井が高かった。
入ってすぐの広間には、書付のための大きな卓が一つ置かれていて、奥に階段、階段の脇に小さな食堂が見えた。卓の向こうに立っていたのは、五十くらいの女だった。髪を後ろで結い上げ、紺色の上着を着ていた。胸の上に、何かの印を刺繍した布の札を縫い付けていた。
「いらっしゃいませ」
「中央へ、書簡で呼ばれて参りました。伊勢、と申します」
伊勢が書簡を卓の上に置くと、女は両手でそれを受け取り、宛名と差出の印を確かめた。差出の印を見たところで、女の所作が、ほんの少しだけ丁寧になった。
「お待ちしておりました。お部屋は、二階のいちばん奥、東向きにご用意してございます」
「お願いします」
「お子様は——」
女が、伊勢の足元のルカに視線を落とした。ルカは、伊勢の腰のあたりに視線を置いたまま、何も言わなかった。布の袋は、両手で抱えていた。
伊勢は、一拍、答えに迷った。
(また、同じ部屋がよいか、と聞かれるのだろうか)
心理の中で、昨日の宿のやり取りが短く蘇った。完全にミスだった、と思った夜の自分の声も、一緒に蘇った。
「お子様は、ご一緒のお部屋でよろしいですか。あるいは、隣の部屋もご用意できますが」
女の口調は、選択肢を並べる形だった。
伊勢は、ルカの方へ視線を落とした。ルカは、それでも何も言わなかった。
(何も言わない、ということは——たぶん、嫌、ではない)
「同じ部屋で、お願いします」
「かしこまりました」
女が、卓の引き出しから鍵を取って、伊勢に渡した。鍵には、木の札がついていて、札に数字が彫られていた。
「お夕食は、一階の食堂で、日が暮れてから召し上がれます。お入り用のものがございましたら、こちらにお声がけください」
「ありがとうございます」
伊勢が鍵を受け取ると、女は短く頭を下げた。その動きの中で、刺繍の布の札が、胸の上で一度だけ揺れた。
◆
部屋は、街道の宿よりも広かった。
寝台がふたつ、卓がひとつ、卓の上に陶の水差し、それから、窓辺に木の椅子が一脚。窓は東向きで、夕方の光は反対側だったから、部屋の中は少し暗かった。窓の外には、隣の建物の屋根と、その向こうにもう少し高い建物の影が見えた。
ルカは、部屋に入ると、昨日と同じように、まず窓のそばまで歩いた。外を一度だけ見て、それから、寝台のうちの窓に近い方の縁に布の袋を置いた。袋は寝台の縁から落ちないように、奥の方へ少しだけずらして置かれた。
(昨日と、同じだ)
伊勢は、扉に近い方の寝台の脇に自分の荷物を下ろした。
ルカが、窓の外を見ていた。
「たかい」
「ええ。街よりも、建物が高いです」
「うん」
ルカは、それ以上は何も言わなかった。
伊勢は、卓の上の水差しから杯に水を注いで、一口含んだ。水は冷たくて、わずかに甘い感じがした。
こんなところでも中央という場所が垣間見える、いや、中央という場所が細部まで洗練する義務を強いているのかもしれない。
書簡をもう一度卓の上に置いて、開いた。集まりの日程は、明後日からだった。今日と明日は、宿で休むようにと書かれている。明日の夕方に迎えの者が来て、集まりの場所と段取りの説明をする、ともあった。
(明日まで、特に予定はない)
そう思った時、伊勢の頭の中で、街での自分の予定の組み方が一度ちらついた。決まっていない時間がこんなに長いのは、街に来てからは、めったになかった。
「ルカ」
「うん」
「明日は特に予定はありません。少し、街を見ますか」
ルカは、窓の外から伊勢の方へ顔を向けた。それから、また窓の外を見て、少し考えるような間を置いた。
「あした、ね」
「ええ」
「伊勢さん、やればできるじゃない。」
その笑顔は、何だか懐かしいものに似ていて、一体どこで見たんだろう。
◆
夕食は、一階の食堂で取った。
街道の宿の食堂よりも広く、卓の数も多かった。客は六組ほどいて、ほとんどが商人らしき身なりだった。書付を脇に置きながら食事をしている者もいれば、二人で向き合って小声で話している者もいた。
伊勢とルカは、窓寄りの卓に案内された。
出された料理は、街道の宿のものよりも品数が多かった。麦の粥の代わりに白い米のような穀物が皿に盛られ、煮た根菜、焼いた魚、それから、何かを煮込んだ汁。子供用には、街道の宿と同じく白湯が出された。
ルカが、スプーンを取った。
穀物の縁から、すくった。スプーンの底が皿に当たる音はしなかった。手首の角度は、皿の縁よりも少しだけ高い位置で止まっていた。
(昨日と、同じだ)
伊勢も、自分のスプーンを取った。
「お味は——」
そう声を掛けようとした時、食堂の入口の方で、扉の鈴が短く鳴った。
伊勢は、特に意識せず、視線を入口の方へ流した。
そこに、知った顔が立っていた。
——一瞬、わからなかった。
服装が違うからだ。中央の機関のものらしき、深い紺色の上着、襟の脇に金色の細い線の縁取り、肩の上に小さな印。髪は会社にいた頃よりも短くなっていて、後ろで一度だけ束ねてあった。
それでも、こちらに向ける視線の運び方は、変わっていなかった。
神崎遥香だった。
(——え)
伊勢の喉の奥で、何かが、半拍、遅れた。
声を出そうとした瞬間に、息を吸う動作と、声を作る動作の間に、いつもならない隙間が一瞬だけ入った。それを自分でも自覚した。
神崎遥香は、食堂の入口の方から、まっすぐにこちらの卓へ歩いてきた。歩幅は、会社の時と同じだった。床の上を、必要な歩数だけで進む歩き方だった。
卓のそばまで来て、立ち止まった。
「——伊勢くん」
会社の時と同じ呼び方だった。
「神崎、さん」
伊勢の声が、自分でわかるくらい、いつもより半拍遅れた。
ルカが、伊勢の方へ顔を向けた。それから、神崎の方へ視線を流した。視線の運び方は、ゆっくりだった。布の袋の上で、両手の指は組まれたまま、動かなかった。
神崎が、ルカの方へ視線を落とした。
「お子さん——?」
「いえ、その、お預かりしている、お子さんで」
「そう」
神崎は、なぜかほっとしたような顔を見せた。子供を攫って来たとでも思ったのだろうか?
神崎は視線をルカから伊勢に戻して、一度、小さく息を吐いた。それから、卓の脇に立ったまま、姿勢を少しだけ崩した。
「ハルカ、でいいよ」
「え」
「神崎さん、って、向こうの呼び方でしょ。ここでは、ハルカ。それで」
「あ、はい——」
「敬語も、いらない。会社の時、敬語じゃなかったでしょ」
「いや、それは——」
伊勢は、その先の言葉を続けようとして、続けられなかった。会社の時の敬語かそうでないかの記憶を、頭の中で正確に並べるのが、今はうまくできなかった。
ハルカが、ふっと笑った。
「変わってないね」
「……そうですか」
「敬語のとこ、変わってない。それで——明日の夕方の迎え、私が来るから」
「あ、それは——あなたが」
「私が」
ハルカは、卓の脇に立ったまま、伊勢の食事の皿を一度だけ見た。それから、視線をルカの方へ戻して、軽く目元だけで笑った。
「ごめんね、ご飯のときに。詳しい話は、明日」
「ええ」
「じゃあ、また」
ハルカは、それで卓のそばを離れた。食堂の奥の卓へ歩いていって、そこで一人で席に着いた。書付らしき紙を、卓の上に広げた。
伊勢は、自分のスプーンが、いつの間にか皿の縁で止まっていることに気がついた。
ルカが、伊勢の顔を、じっと見ていた。
何も言わなかった。
それから、ルカは、視線をハルカの方へ短く流した。視線は、ハルカの背中の上で、ほんの一拍だけ止まった。ハルカの肩の上の小さな印——伊勢の側からは何の印かわからなかったが——その上で、止まっていた。
それから、ルカの視線は、また伊勢の方へ戻ってきた。
「伊勢さん」
「はい」
「あのひと、しってるひと?」
「ええ、まあ。ずっと昔の——知り合いです」
「ふぅん、向こうはよく忘れてなかったね」
ルカは、それだけ言った。それから、また自分のスプーンを動かして、穀物を口へ運んだ。手首の角度は、さっきと同じ位置で止まっていた。
伊勢は、自分のスプーンを動かそうとして、もう一度、喉の奥で何かが半拍遅れるのを感じた。
(——明日の夕方)
食堂の奥の卓で、ハルカが書付の上に何かを書き付けていた。羽根筆の先が紙の上に降りる音は、こちらまでは届かなかった。




