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出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


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街道の半歩後ろ

馬車は街の門を出てから、坂をひとつ下りた。


車輪が石を打つ音は、街の中の石畳とは違って、間隔が長かった。御者は前を向いたまま手綱を握り、振り返って何か言うこともなく、ただ馬の歩幅に合わせて軽く手首を動かしていた。


朝の光は、東の山の縁から薄く差し始めたばかりだった。街道の脇の草には、まだ夜の露が残っている。馬の足が草を踏むと、露が短く跳ねて、すぐに落ちた。


伊勢の隣にルカが座っていた。


布の袋は、膝の上に置かれていた。両手で軽く抱えていて、紐の結び目は、伊勢の方からは見えない側に向けていた。背筋は伸びていて、馬車が小さく揺れた時にも、上半身はほとんど動かなかった。


(馬車に乗り慣れている、というほどではないが、揺れに体を任せない座り方を知っている)


伊勢は窓の外へ視線を戻した。


街道の左手は、しばらく低い丘が続いていた。畑の縁が朝の影で二色に分かれていて、影の側はまだ青く、光の側だけが薄く黄色く染まり始めていた。畑の中ほどで、誰かが鍬を地面に立てかけていた。腰を伸ばしているのか、こちらに気づいたのかは、距離があってわからなかった。


「ふーん」


ルカが、窓の外を見ていた。


「いっぱい、いる」


「ええ」


伊勢は、ルカの視線の先を辿った。畑の向こうの低い屋根が、煙突から細い煙を一筋ずつ立てていた。朝の煮炊きの煙だった。


「街の外にも、人は、住んでいます」


「うん」


ルカは、それ以上は何も言わなかった。布の袋を、膝の上で一度だけ、ほんの少しだけ位置を直した。



最初の宿は、街道の脇の小さな宿だった。


二階建ての木造で、戸口の上に灯火を吊るすための鉄の輪がついていたが、まだ昼過ぎだったので、灯はなかった。宿の主人は四十くらいの男で、伊勢の顔を見て、それから書付の宿札を見て、何度か頷いた。


「お部屋は、二階の奥の方になります」


「お願いします」


「お子さんは、一緒のお部屋でよろしいですか」


伊勢は、ほんの一拍、答えに迷った。それから、ルカの方へ視線を落とした。ルカは、伊勢の腰のあたりに視線を置いたまま、何も言わなかった。布の袋は、相変わらず両手で抱えていた。


「ええ」


「かしこまりました」


宿の主人は、それで奥へ下がった。


部屋は思ったよりも広かった。窓は街道に面していて、夕方の光が斜めに床の板の上を伸びていた。寝台がふたつ並んでいて、間には小さな木の卓が置かれていた。卓の上には、陶の水差しが一つ。


ルカは部屋に入ると、まず窓のそばまで歩いて、外を一度だけ見た。それから、寝台のうちの扉に近い方ではなく、窓に近い方の縁に布の袋を置いた。袋は寝台の縁から落ちないように、奥の方へ少しだけずらして置かれた。


(落ちたら困るもの、それでいて自分の近くに置きたい大切なものが入っているのか?)


伊勢は、ルカの信頼をまだ得ていないことに今更気が付き、同じ部屋を取ったのは失敗だったと感じたが、子供を別の部屋に一人というものも危険だと自分に言い聞かせ、それ以上考えないようにした。

自分の荷物を扉に近い寝台の脇に下ろした。



夕食は、一階の食堂で取った。


大きな卓は四つあって、客は三組だった。商人らしき身なりの男がひとり、奥の卓で書付を広げながら酒を飲んでいた。手前の卓には、街道を北へ向かう一行——若い男女ふたりと、年配の女ひとり——が、地図らしき紙を囲んで小声で話していた。


伊勢とルカは、窓寄りの卓に座った。


宿の主人が運んできたのは、麦の粥と、煮た根菜と、焼いた小魚が一切れずつ、それから木の杯に注がれた薄い葡萄酒だった。子供用には、酒の代わりに白湯が出された。


ルカはスプーンを取り、粥の縁から、すくった。


スプーンの底が椀の底に当たる音はしなかった。粥の表面を一度撫でるようにすくって、それを口へ運んだ。手首の角度は、椀の縁よりも少しだけ高い位置で止まっていた。


(こぼれない持ち方をしている)


伊勢は、自分のスプーンを取った。


「いかがですか」


「まあまあね」


ルカは、二口目を運びながら、それだけ言った。それから、根菜の方へスプーンを伸ばした。根菜は柔らかく煮てあって、スプーンの縁でほとんど抵抗なく切れた。

話す言葉も非常にまばらだ。なぜルカは自分と同伴したいと言ったのだろう。

伊勢は別に他人に気を遣うような人間ではなかったがそれでも気まずい。


奥の卓の商人が、書付を畳んで卓の隅へ置く音がした。北へ向かう一行の年配の女が、地図の上の何かを指で押さえながら「ここで、一泊」と言うのが、こちらの卓まで届いた。「ここで、一泊」「それから、川沿いに、降りる」。街道の話だった。


(冒険者とは、仲間とこのように会話をしながら旅を進めているのだな。ルカもこんなことを期待していたのだろうか。)


伊勢は粥を一口、運んだ。麦の匂いがして、塩は薄かった。


(リリアなら、どうしているだろうか。)


それを思ったところで伊勢はスプーンを止めた。それから、もう一口粥を運んだ。



部屋に戻った時には、外はもう暗かった。


窓の外で、宿の主人が戸口の鉄の輪に灯火を吊るす音がした。短い梯子を立てかけて、上って、油の入った皿を吊るす。灯がつくと、窓の枠に薄い橙が映って、部屋の中の床の板の縁が、半分だけ橙に染まった。


ルカは、寝台の縁に腰を下ろしていた。


布の袋は、膝の上だった。袋の口の紐を、両手の指でほどいて、それから、もう一度、結び直していた。最初の結びと、二度目の結びの位置を、指先で確かめるように整えていた。


「ルカ」


「うん」


「その袋の中身を明日見せてくれますか」


ルカは、結びの位置を直す手を、一度だけ止めた。それから、また動かして、結びを終えた。


「あした」


「ええ」


「なんで?」


「いえ…ルカのことをよく知ろうと思って。」


ルカはきょとんとしていた。しまった、何かマズかったか…?


「伊勢さん、ふつう女の子の持ち物を知ることは、なかよしになる方法としてはかなり、その、ダメだと思うわ」


「そ…そうですか」


完全にミスだった。よく考えなくても、そんなことが友情のきっかけになるわけがない。

ルカは伊勢の眼をじっと見ながら、急ににこりと微笑んだ。


「あさってでもいい? 女の子には”じゅんび”が必要なの」


「え、ああ、もちろんいいですよ」


ルカは、布の袋を寝台の枕元の方へ置いた。それから、自分も、寝台に上がって、靴の紐をほどいた。靴は、寝台の脇の床に揃えて置かれた。靴の先が、両方とも、扉の方角を向いていた。


伊勢は、自分の寝台の脇で、上着を脱いだ。


「おやすみなさい」


「うん、おやすみ」


彼女はニコッと笑うと、静かに伊勢に背を向け床に着いた。

灯は、卓の上の油皿に小さく残してあった。炎の先は、ほとんど揺れずに、ただ静かに立っていた。


伊勢は、寝台に横になって、しばらく天井の梁を見ていた。梁の木目が、灯の橙でかすかに浮かんでいた。

外の街道の方で、夜の風が、低く鳴っていた。



翌朝は、まだ薄暗いうちに出立した。


街道は、昨日よりも、人の数が増えた。北へ向かう荷馬車が前後にいて、御者同士が短く言葉を交わすこともあった。馬の蹄の音と、車輪の音と、御者の咳と、馬の鼻息——音の層が、昨日よりも一段重くなっていた。


ルカは、また伊勢の隣に座った。気のせいかもしれないが、少し距離が遠くなった、気がする。


膝の上の布の袋は、昨夜と同じ位置に置かれていた。


「あんなに、たくさん」


ルカが、前を行く荷馬車の列を、窓の外から見ていた。


「中央の方へ、行く人が、多いんです」


「ふーん」


「街道は、中央の都に近づくほど、賑やかになります」


「うん」


ルカは、それから、しばらく窓の外を見ていた。荷馬車の積み荷の布の色や、御者の被っている帽子の形を、ひとつずつ目で追っているようだった。


伊勢は、ルカの横顔を、視界の端で短く見た。


(昨日よりも若干表情が柔らかくなった気がする)


そう考えると、どうしてだか二人が座る距離が昨日よりも近い気がした。



夕方になると街道の先に、城壁が見えてきた。


最初は、地平線の上の薄い影だった。それが、馬車が丘をひとつ越えるたびに、輪郭をはっきりさせていった。石造りの壁で、街のものよりも高く、長く伸びていた。壁の上には等間隔に物見の塔が立っていて、塔の頂には、それぞれ旗が掲げられていた。旗の色は、夕日の中で、橙と濃い赤の中間の色に見えた。


「中央の都です」


「とっても大きいのね、人が作ったと思えないわ」


ルカは、窓に少しだけ顔を寄せた。鼻先が、ほんの一瞬、窓枠に触れそうになって、それから、すぐに引いた。


街道の両側には、城壁の手前のひと里ほどに、家並みが続いていた。街道沿いに二階建ての家が並び、その奥に三階建ての建物が見え、さらに奥に、もっと高い建物の影があった。煙突から立つ煙の数は、街のひと朝の比ではなかった。


馬車は、城門の前で速度を落とした。


門の前には、入域を待つ馬車と人の列があった。御者が手綱を引いて、列の最後尾に着けた。前の荷馬車の御者が、こちらを一度振り返って、軽く頷いた。伊勢も、軽く頷き返した。


ルカは、布の袋を、膝の上で、ほんの少しだけ持ち上げた。袋の中で、丸い形のものが、一度だけ、軽く揺れた。


(中身を教えてもらえるのだから、きちんと会話をしなければ)


馬車の列は、ゆっくりと前へ進んだ。

城門の上の旗が、夕日の中で、低い風に一度だけ揺れた。

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