街道の手前で
ふた月は、思っていたよりも、短かった。
朝の冷えがまだ残る人事局の机で、伊勢は宛先を書いた紙を一枚、リリアの台帳の上に置いた。中央の宿の住所だった。リリアは羽根筆を一度、卓の縁で止めて、それから、紙の方へ降ろした。
「ここで、よろしいですね」
「ええ」
紙の隅にリリアの字が一行だけ並んだ。書き慣れた角度の、いつもの字だった。
◆
マロイの小屋へは、午後に降りた。低い柵の続く小径は、ふた月の間に下草が少し丈を伸ばしていた。戸口の前の桶は、二つ並んだまま、布で覆われている。煙突から細い煙。
「ふん」
マロイは作業台の縁に腰を下ろしたまま、節の太い指で、布の端を一度だけ撫でた。
伊勢は懐から紙を出して、作業台の上に置いた。マロイは目を細めて、紙の上を一度だけ追って、それから、台の上の布の方へ視線を戻した。
「重しのほうはな。河原のと、山の方のと、二つ試してる。若いのが、ひと月くれぇで、どっちが手に馴れるか、口にすると思う」
「では、その時に」
「ああ」
マロイの口の端が、ほんの少しだけ動いた。それ以上は、何も言わなかった。伊勢も、それ以上は聞かなかった。戸口を出るとき、外の風に、絞ったあとの布の青い匂いが、薄く混ざっていた。
◆
工房に寄ったのは、その翌日だった。
炉の前の温度が、街中の空気とは別の重さで肩に触れる。ブリジットは、まだ戻ってきていなかった。煤で頬を汚したマルコが、深い息で「親方は峠を越えました」とだけ言って、それから、手の中の鑿を一度、作業台の上に置いた。
「親方、まだ、戻りません」
「ええ」
「伊勢さんは、向こうに行かれると聞きました」
マルコの目が、まっすぐに伊勢の方を見た。子供の目ではなく、工房の若い職人の目だった。
「親方が戻ってきたら、私から伝えます」
「いえ、それは」
「最初の絵を組んだのは、三人です」
伊勢が頭を一度下げて、戸口の方へ歩きかけた時だった。
「伊勢さん」
マルコの声が、後ろから追ってきた。
「峠を越えた朝に、親方、泣いていました」
伊勢は、何も言わなかった。
「炉の前で、火の音だけ聞いていて、それで、声を出さずに、泣いていました。私は、見ていないことに、しました」
マルコは、視線を一度、自分の手元へ落とした。
「内緒ですよ」
「ええ」
「戻ってきたら、伊勢さん、たくさん、声をかけてあげてください。親方、ああいう人なので、自分からは、言いません」
「分かりました」
「私からだとは、言わないでください」
「ええ」
マルコは、もう一度、深い息をついて、「はい、親方」のいつものリズムで、鑿を持ち直した。伊勢は、戸口を出て、炉の熱が肩から離れていくのを、しばらく、後ろの側に感じていた。
◆
ラッジの店は、夕方だった。
店の戸を引くと、帳面の上で指を叩いていた音が、止まった。ラッジは顔を上げて、それから、もう一度、帳面の方を見た。
「向こうの宿の住所は」
「リリアさんと、マロイさんに置いてきました」
「ハーグの話は」
「戻ってから、伺います」
ラッジは顎を撫でて、それから、帳面を閉じて、その上に手を置いた。
「面倒な客の話を、向こうでも、面倒だと言える顔をしてろよ」
「ええ」
「礼は、いらん」
それだけだった。店の戸を閉める時、ラッジはもう一度、帳面を開いていた。
◆
シャウプの机のそばに座ったのは、出立の前夜だった。
湯呑みは、机の真ん中に置かれていた。シャウプは、片肘を机の縁にかけたまま、しばらく、何も言わなかった。それから、書類の角を縁に二度ほど軽く打って、揃えた。
「伊勢」
「はい」
「お前、ここに来た頃と、少し、変わってきたな」
伊勢は、答えなかった。
「来た頃のお前は、紙の上の数字を動かしてた。それは、それで、間違っちゃいねえ。間違っちゃいねえが、人の側からは、ちょっと、遠かった」
シャウプは、湯呑みに手を伸ばして、口元まで上げて、止めた。それから、口元には運ばずに、もう一度、机の真ん中に戻した。
「最近のお前は、人の側の音を、聞くようになった。マロイんとこで、足の裏で踏んだって話。ありゃあ、前のお前にゃ、できなかった」
「……はい」
「言葉にできなくても、聞こえるようになってる。たぶん、お前自身が、いちばん、戸惑ってる」
声は、低かった。低かったが、責める音ではなかった。
「向こうで、その耳を、閉じるな」
「ええ」
「中央の連中は、紙の上の話しかしねえ。お前が、紙の上の話だけで返したら、お前は、向こうの形になって戻ってくる。それは、俺は、見たくない」
伊勢は、頭を一度、ゆっくりと下げた。
シャウプは、湯呑みに、もう一度、手を伸ばした。今度は、口元まで運んで、一口、含んだ。
「待ってる」
「ええ」
「行ってこい」
それだけだった。シャウプは、もう、こちらを見ていなかった。
◆
出立の朝は、まだ星が空のいちばん端に残っていた。
ギルドの前の石畳は、夜のうちの霜で薄く白い。馬車は、街の門の手前まで来て、停まっていた。御者の吐く息が、灯火の明かりの中で短く立ちのぼる。
見送りに立っていたのは、五人だった。
シャウプは、ギルドの戸の前で、腕を組んでいた。マルコは、煤の落ちた頬で、両手を脇に揃えて、まっすぐに立っていた。ラッジは、店の方角から少し離れた場所で、帳面を脇に抱えて、顎を撫でていた。マロイは、街まで降りてきていた。長い息を一度吐いてから、節の太い指を、伊勢の肩の上に短く置いて、すぐに離した。
「あんた」
「ええ」
「重しの便りは、河原のほうが、たぶん、先に来る」
「お待ちしています」
マロイの口の端が、ほんの少しだけ動いた。それで、それだけだった。
リリアは、五人のいちばん端に立っていた。制服のままだった。書類は胸に抱えていない。両手とも、軽く下げられた状態だった。背筋は、いつものリリアの背筋だった。
「お見送り、申し上げます」
「ええ」
「お気をつけて」
「行ってきます」
それだけだった。リリアの目は、伊勢の足元の石畳の方を、一度だけ見て、それから、馬車の車輪の方へ動いた。髪は、耳の前で、まだ静かに揃っていた。
伊勢は、馬車の方へ歩き出した。半分残してきたものの場所が、背中の側で、五人の立ち位置の形をしていた。
◆
門の手前で、伊勢は一度、振り返った。
五人の立ち位置の、もう少し奥、街道の端の側に、もうひとり、立っていた。
白髪の少女だった。
小さな布の袋を、両手で抱えていた。袋の口は、紐で一度きつく結ばれて、その上から、もう一度、結び目を整えるように指先で押さえた跡があった。所作だけが、子供の所作からは、ほんの少しだけ離れた整い方をしていた。
「ルカ」
ルカは、伊勢のほうを見上げた。澄んだ目だった。
「いっしょに、いく」
短い言葉だった。伊勢の側からは、すぐに返す言葉が、見つからなかった。
「いってもいい?」
ルカは、布の袋を、自分の胸の前で、ほんの少しだけ持ち上げた。袋の中で、たぶん、丸い形のものが、一度だけ、軽く揺れた。
伊勢の背中の側で、五人の立ち位置のうちの、リリアの背筋がほんのわずかに動いた気がした——けれど、それは、振り返らずに、置いておくことにした。
「行きましょう」
伊勢は、ルカに手を差し出さなかった。ルカも、伊勢の手を取らなかった。ただ、馬車の方へ、伊勢の半歩後ろに、自分の足で歩き出した。
街道の上に、朝の光が、東の山の縁から、ようやく、薄く差し始めていた。




