書く場所のない線
人事局を出たのは、いつもの退勤の刻よりほんの少しだけ早かった。日は西の屋根の向こうに落ちかけて、石畳の継ぎ目に長く影が伸びている。風はもう夜の側のもので、肩のあたりに冷たい重さを置いていく。
机を離れる前、伊勢はもう一度だけ振り返った。リリアの背中は、書きかけの紙の上で止まっていた。羽根筆を握ったままの指先が、卓の縁を一度だけ軽く押さえる。書く前の所作だった。
「リリアさん」
伊勢は卓のそばに戻らなかった。声だけを置いた。
「今夜、お時間をいただけますか」
リリアは振り向かなかった。指先が、卓の縁を押さえたまま動かない。
「……はい」
書く方へ降りるよりも先に、声の方が降りた。
「西通りの、橙の灯りの店で、お待ちしています」
「分かりました」
それだけだった。伊勢は人事局の戸を引いて、坂の方へ歩き出した。
◆
橙の灯りの店、というのは、二人にとって、もう一度行く店、という意味だった。
肩書きを外した夜に二人で入ったあの店。出向に来てまだ間もない頃で、伊勢の手の中には何もなくて、リリアの背筋にはまだ規律しか入っていなかった。あの夜、酒で敬語が外れて、「ただのリリア」になったのは一度きりだった。
店に着くと、戸口のところで一度足を止めた。中から橙の灯りが、磨いた木の床の上に短く落ちていた。蝋燭の光だった。魔法の明かりの白さとは違う、揺れる光だった。
「いらっしゃい」
戸を引くと、店主が顔を上げて、奥の卓を顎で指した。前と同じ位置だった。木の卓の縁が、灯りで濡れたように見える。
伊勢は奥に座って、リリアを待った。
杯はまだ運ばれてこない。卓の上には、何もない。前にこの店に来た夜、ここに何があったかを思い出そうとしたが、像は結ばなかった。たぶん、なかった。あの夜も、卓の上には何もなかった。
戸が鳴った。
リリアが入ってきた。制服のままだった。書類は胸に抱えていなかった。手は、両手とも、軽く下げられていた。
「お待たせしました」
「いえ」
向かいに座ると、店主が杯と陶器の徳利を運んできた。徳利の口から薄い湯気が立っていた。温めた酒だった。色は琥珀よりも淡くて、麦の匂いがした。
「肴は」
「いつものを」
リリアが先に答えた。前にこの店に来た時に頼んだもののことを、リリアの方が覚えていた。
肴が来るまでの間に、酒だけが先に注がれた。リリアは杯を両手で持ち、口元まで上げて、止めた。
「……いただきます」
一口、含む。それから、もう一口。
伊勢も同じだけ含んだ。酒は思っていたよりも温かくて、喉の奥でほどけた。
◆
肴が運ばれてきた。
茹でた根菜と、油で揚げた小魚と、葉物を酢で和えたものだった。陶の皿はどれも縁が少し欠けている。湯気が三皿それぞれから違う高さで立っていた。
二人とも、最初の杯を空けるまでは、ほとんど何も言わなかった。窓の外で犬が一度鳴いて、それから、遠くで馬車の車輪が石畳を打つ音が、薄く流れていった。
「ふた月後に、行かれるんですね」
リリアが先に置いた。声は低くなかった。低くなかったが、いつものリリアの声よりも、ほんの少しだけ、息の混ざる量が多い気がした。
「ええ」
伊勢はうなずいた。
「戻る前提で、行きます」
「はい」
二杯目が注がれた。リリアの指先が、徳利を傾ける動きの中で、ほんの一瞬、震えた。震えたというよりは、傾きすぎないように力を入れ直した、という形だった。
「あの、線の話なんですけど」
リリアが、卓の上の自分の杯を見たまま言った。
「先日、台帳の余白に伊勢様が引いてくださった、縦の線」
「ええ」
「あの線の隣に、わたくし、いくつか書き足しました」
「ええ」
「あの書き足しが何だったか、お話ししてもよろしいですか」
伊勢はうなずいた。リリアは、杯を一度卓の上に置いた。木の卓に陶の底が触れる音が思っていたよりも短かった。
「いまの手を何人残したまま量を増やせるか、という線でした。伊勢様が引かれた線は」
「ええ」
「わたくしが書き足したのは、その隣に、もう一本、線でした」
リリアの指先が卓の上に見えない縦線を一本引いた。
「人を台帳の数の側からだけ見ない、という線です。前にわたくしが申し上げた線です」
「ええ」
「ただ、書く場所が、いつも決まっていないだけです、と」
リリアの声は、依然として低くなかった。低くなかったのに、卓のすぐ上の空気が、ほんの少しだけ重くなった気がした。
「あの線の話は」
リリアは、もう一度、自分の杯を見た。
「いま、半分くらい、自分の話、でもありました」
伊勢は答えなかった。
(書く場所のない感情について、伊勢は今日も、手の中に何も持っていない)
杯の中の酒が、灯りを受けて、橙の色をしていた。
◆
三杯目が注がれた頃には、リリアの語尾の、丁寧な角が、少しだけ丸くなっていた。
「伊勢様が、ふた月後に、ここを離れることを」
リリアは、杯を両手で持ったまま、止めた。
「台帳の、どの場所に書けばいいのか、わたくし、まだ、決まっていません」
伊勢は、リリアの方ではなく、卓の木目を見ていた。木目は、奥の方へ流れていた。
「リリアさん」
「はい」
「書く場所の形は、出立の前に、一緒に、決めましょう」
リリアの指先が、杯の縁を、一度、なぞった。
「人事局の机の上に、書簡の往復の宛先を、一枚、置いていきます」
「はい」
「向こうから戻ってくる文が、どの綴りに入って、誰の手で読まれるかを、こちらに残してから、行きます」
「はい」
「リリアさんの台帳の、書き足しの隣に、もう一本、線が要るなら、その線も、出立の前に、一緒に引きます」
リリアは、杯を、もう一度、卓の上に置いた。今度の音は、最初の時よりも、もう少しだけ柔らかかった。
髪が、一筋、耳の前にほつれて落ちた。リリアは、それを直さなかった。
「……海人さん」
リリアの声から、敬語が外れた。「伊勢様」ではなくなった。前にこの店に来た夜と、同じ呼び方だった。
「はい」
伊勢は、杯を一度、卓の上に置いた。
「今夜は、酔っぱらっていないんですね」
リリアの指先が、杯の縁のところで、一瞬、止まった。それから、伊勢の方を、ようやくまっすぐに見た。今夜、初めての、まっすぐな視線だった。
「……あの夜のことを、おっしゃっていますか」
「ええ」
「忘れていただきたかったのですけれど」
「覚えています」
「……覚えていらっしゃるんですね」
リリアは、杯を口元まで上げて、止めた。
「あの夜は、人事局の規律から、四歩か、五歩、外に出てしまいました」
「四歩か、五歩」
「……数えなくて、よろしいです」
リリアの口の端が、ほんの少しだけ上がった。声には出さなかった。声に出さない、口元だけの笑いだった。
「今夜は、二歩、まで、です」
「二歩、ですか」
「ええ」
「二歩は、出ている、ということですよね」
リリアは、答えなかった。答えなかったが、杯を口元から離す動きの中で、卓の縁の方を、一度だけ見た。
「……海人さんが、そういうことを、おっしゃるとは、思っていませんでした」
「すみません」
「謝らなくて、よろしいです」
リリアは、もう一口、酒を含んだ。今度は、含んでから、少し長く止めた。
「あの夜、わたくし、何か、おかしなことを、申し上げましたか」
「いえ」
「本当に、いえ、ですか」
「ええ」
「……海人さんの『ええ』は、たまに、長さが、いつもより、半分くらい、短いことがあります」
伊勢は、答えなかった。答える前に、杯の方へ手を伸ばした。
「……ほら」
リリアの声に、笑いが薄く混ざった。今夜、初めて聞く音だった。
「いま、半分でした」
「リリアさん」
「はい」
「今夜は、二歩、で、止めておいてください」
「……はい」
リリアの指先が、卓の上に置かれた。書く前の所作の手だった。けれど、今、その手は、卓の縁ではなく、卓の真ん中の少し手前に置かれていた。
「書く場所、というのは、紙の上の場所のことだけじゃ、ないと思うんです」
「ええ」
「人事局の、机の上だけのことでも、ないと思うんです」
リリアは、自分の指先を、卓の上に置いた。卓の縁を押さえる癖の手だった。けれど今、その手は、卓の縁ではなく、卓の真ん中の少し手前に置かれていた。
「書く場所のない線は」
「ええ」
「持っていく場所も、ない、と思っていたんです。これまで」
「ええ」
「でも、いま、半分くらいは、持って歩ける、と、思いました」
伊勢は、自分の杯を、もう一度、口元まで上げた。酒は冷めていなくて、最初の一口と同じ温度の喉のほどけ方をした。
(半分、ずつ、持っている、というのは、たぶん、こういう場所でも、立ち上がる形をしている)
その言葉は、口の中まで上げてこなかった。
「リリアさん」
「はい」
「持って歩ける半分の場所を、ふた月後に、こちらに置いていきます」
「はい」
「戻った時に、その場所に、何が書いてあっても、書いてなくても、わたくしは、また、その隣に、線を引きます」
リリアは、答えなかった。答えなかったが、卓の上に置かれた手の指先が、ほんの少しだけ、開いた。書く前の所作のときの、閉じ方ではなくなった。
◆
肴の皿は、半分ほど残った。
店を出る時、店主は何も言わなかった。戸口のところで、リリアの方が先に立って、外の風に肩をすぼめた。
「冷えますね」
「ええ」
街は、もう夜の色だった。橙の店の灯りが、戸を閉めた途端に背中の側に消えて、目の前には、青に近い暗さだけが残った。坂の上の方に、ギルドの建物の影が、暗い空の中で一段だけ濃い影として見えていた。
二人は、坂を上る方ではなく、川沿いの道の方へ歩き出した。どちらが先に決めたわけでもなかった。
リリアの足音が、伊勢の半歩後ろにあった。いつもよりも、半歩、近かった。
(風が冷たかった)
(リリアの足音が、いつもより、少しだけ近かった)
川の音が、石垣の下から、低く上がってきた。リリアは、川の方を見ていた。横顔の輪郭が、街灯のひとつ前の蝋の灯りで、ぼんやりと縁取られていた。
「海人さん」
「はい」
「戻ってきてください」
リリアは、川の方を見たまま、それだけを置いた。
伊勢は、川の方ではなく、リリアの足元の石畳を見ていた。
「戻ります」
二人は、しばらく、そのまま川沿いを歩いた。
風が一度だけ強くなって、リリアの耳の前のほつれた髪を、一筋、後ろへ流した。リリアは、それも直さなかった。
ギルドの方角の空に、星がひとつ、低い位置に出ていた。




