色のない封蝋
机のそばに立ったまま、しばらく動かずにいた。リリアの背中は依然として振り返らない。羽根筆は書く前の位置で止まっていて、紙の上に降りる気配はなかった。シャウプの席の真ん中に湯呑みが置かれ、その隣に封筒が一通あった。封蝋の色は赤でも黒でも臙脂でもなく、伊勢の知っている色のどれでもなかった。
奥の戸が開く音がした。シャウプであった。低い足音は卓の手前で止まり、伊勢の顔を一度だけ見て、自席に着いた。封筒には手をかけず、伊勢の側へ卓の上を滑らせた。
「あんた宛だ」
伊勢は卓のそばで封筒を取り上げた。手のひらに乗せると重さは紙一枚のそれであった。封蝋の色は、なにかの粉を混ぜ込んだ色合いで、近くで見ても何の色とも言いがたかった。表書きは黒い細字で、伊勢の名と「伊勢殿」とだけ書かれている。
爪先で蝋を割った。一度では割れず、二度目で薄く割れた。中の紙は二枚であった。本文と、付の一枚。
伊勢は最初の数行を読み、卓の縁で一度紙を伏せた。それからもう一度開いて、最後まで読んだ。中央の機関の名がある。鑑定士の集まりの場への出席の要請。期日はふた月の後、場所は中央の都。要請の文言は柔らかいが、断る形は付の紙には書かれていなかった。
「中身は」
シャウプが低い声で言った。
「招集の要請です」
「期日は」
「ふた月の後です。場所は、中央の都です」
シャウプはひとつ短くうなずいた。それから封筒の色のない封蝋を一度見て、それきり見なかった。
「俺んとこには、先に文が来た」
「はい」
「これまでは、中央へ呼ばれて、街の手の途中の動きが半端で残るような呼ばれ方はこっちで止めてきた。あんたの手は、街の中の段取りの中にも抜け切らねえ場所がある」
「はい」
「今度のは、止めなかった。あんたが街の側で薬草の壁に置いてきた手は、いまの形なら街にいなくても回る。マロイんとこの桶は二つ並んだ。あれはあんたの手から、もう離れてる」
シャウプの低い声は、続きを言わずに一拍置いた。それから付け足した。
「俺の順番は、止めるところまでだった。送り出すとこは、俺の仕事じゃねえ」
(俺の順番)
伊勢の頭の中で、いつかシャウプが言った言葉が薄く戻ってきた。俺の順番を言葉にしてくれる人間が近くにいなかった、という、いつかの低い声。シャウプは今、自分の順番の終わるところを、自分の口で言っていた。言葉にしてくれる人間がいなかった、と言った人が、自分で自分の順番を区切っていた。
「中央へは、行きます」
伊勢は紙を卓の上に戻しながら言った。「ただ、街の側に、半分残します」
「半分か」
「半分です。マロイ親方の桶の重しのことは、採取の合間の手で決まっていく途中ですから、決まった形の便りを、向こうの宿の住所で受け取れるようにしておきたいと考えています。ブリジット工房とマロイ親方の小屋の最初の引き合わせは、戻りに合わせていただけるようなら、それが一番いいです。」
「戻ってくるつもりはあるんだな」
「戻る前提で行きます」
シャウプは口の端でほんのわずかに息を抜いた。笑ったとも違う、聞いたものを胸の真ん中で一度置いた音であった。
「書く場所は、こっちでも空けとく」
「と、いうのは」
「中央へ行ったあんたから戻ってくる文を、誰が受け取って、どこに綴じておくか、ってことだ。伊勢の席は俺んとこの机の脇に半分残しとく。書簡は人事局の台帳の側にも一冊、新しい綴りで空けとく。」
シャウプの声は、その一言だけ、いつもより半段低かった。
◆
伊勢は卓を離れて、人事局の入り口の方へ二歩戻った。リリアの机の脇を通る角度であった。羽根筆は依然として書く前の位置で止まっている。書き足された字は、伊勢の側からは見えない位置に伏せられていた。
伊勢はリリアの机の手前で足を止めた。
「リリアさん」
「はい」
背中は振り返らない。声は昨日と同じ運び方であった。
「中央の都へ、ふた月の後に行きます。戻りの段取りは、また改めて、人事局の側にも、半分置かせてください」
リリアは答えなかった。答えなかったが、羽根筆が紙の上に降りる音がした。書く前の位置で止まっていた手が、書く方の動きに動いた。何を書いているかは、伊勢の位置からは見えない。降りる音はひとつだけで、すぐにまた止まった。
伊勢は卓のそばに足を運ばなかった。書く場所のない感情について、伊勢は今日、何ひとつ手の中に持っていない。持っていないことを、置いていく言葉に変えないことに決める。
「行ってきます。戻ります」
それだけ言った。リリアの背中はうなずいたのか、うなずかなかったのか、伊勢からは判別がつかなかった。
◆
外の坂を下りる時、空はもう茜であった。マロイの小屋の方角は山の影に入っていて、見えなかった。見えなかったが、二つ並んだ桶のことが、瞼の裏に確かにあった。置いとく桶と、押し切る桶。あの二つは、伊勢が街を離れている間も、採取の合間の手で回っていく。
(俺の順番は、送り出すとこは、俺の仕事じゃねえ)
(書く場所は、こっちでも空けとく)
二つの低い声が、坂の上から薄く下りてきた。色のない封蝋の音は、その二つの後ろに、もう一段低く置かれていた。リリアの羽根筆の、書く方へ降りた一度の音だけが、今日の中でいちばん近いところで鳴っていた。




