置く手と、押す手
小屋に着いたのは昨日と同じ刻限であった。マルコは連れず、伊勢ひとりで坂を上った。布袋にも紙にも、何も書いて持ってきていない。
(離す、と、取り切る。この二つは、置いていく言葉じゃない)
戸の前で一度立ち止まり、頭の中で順番をもう一度並べ直した。リリアの台帳の余白に縦に並べた二つの単語が、頭の中に薄く重なる。羽根筆の先で押さえた紙の感触が、まだ指先に残っていた。
戸を引くと、マロイは桶の前にしゃがんでいた。今日も両手で布を押している。葉が逃げる。汁が抜けきらん。マロイの口の中にすでに並んでいる言葉が、押す手の動きと一緒に卓の上で形を持っているように見えた。
「親方」
「ああ」
マロイは顔を上げず、押す手を止めない。伊勢は卓の端に腰を下ろし、桶の中をのぞいた。布に包まれた葉が、押されるたびに布の中で固まりかけている。布の縁から汁がにじむ前に、葉のほうが横に滑って逃げていく。
「昨日、ギルドで台帳を見てきました」
「数の話か」
「数の話の手前です」
マロイの手がいったん止まった。布から両手を離し、桶のふちに置く。煤の指の節が、桶の縁の同じ場所で凹んでいた。何度も置かれてきた跡である。
伊勢は卓を立ち、桶のそばまで歩いた。布の上から、ほんの少しだけ指の腹で押してみる。布越しに葉がまた横に逃げた。指の下から外れていく。
「親方、昨日、葉が逃げる、と言っていました」
「言ったな」
「葉が逃げるのは、押しているからですか」
マロイは答えなかった。桶の中の葉をじっと見ている。伊勢は続きを言わないことに決めた。リリアの羽根筆の動きを思い出す。台帳の余白に縦に一本、線を引いたあとの手の戻りの静けさを。
(半分、ずつ、持っている)
しばらく時でも止まったのではないかという沈黙が続き、突然、マロイの右手が桶の縁から離れた。卓の上の布に包んだ葉を両手で持ち上げる。押す手の形ではない。布の四隅を寄せて、葉の包みを一つの袋のようにまとめる動きであった。マロイはその包みを、桶の上に渡した木の棒へ、ぶら下げるように引っかけた。包みの下に桶。包みは押されてもいない、揉まれてもいない。ただ宙にぶら下がっている。
マロイは小屋の隅から平たい石を一つ取った。河原から拾ってきたものらしかった。包みの上に乗せると、石の重さで布の包みがわずかに沈んだ。それだけであった。マロイは手を引いて桶の縁に戻した。
「置いとくと、出るか」
マロイの声は自分に向かって出ていた。伊勢に問うていない。伊勢は何も答えなかった。足が鉛のように重くなり言葉ごと踏みしめたようだった。
しばらく何も起こらなかった。マロイも伊勢も、桶の上の包みを見ているだけであった。やがて布の下の端から、汁が一滴、桶の底に落ちた。押した時のような絞り出された強さの落ち方ではない。葉が自分の重さで汁を布に渡している、という形の落ち方であった。続けて、もう一滴。さらに、もう一滴。
「規則正しくそろえれば、手で押さねえで出る分がある」
「ええ」
「全部はぁ出ねえ。半分か、もうちっと出るくれぇだ」
マロイは包みを見たまま動かなかった。煤の指が桶の凹みの上で、ほんの少しだけ強く力をかけた。一拍。
「あんた」
「はい」
「置いとく手と、押し切る手は、別の手だ」
伊勢は頷きもしなかった。マロイの口から二つの動きが別の言葉で並んで出ている。「離す」と「取り切る」ではない。「置いとく」と「押し切る」であった。リリアの台帳の余白の二語と同じ場所に立っている。同じ場所に立っているのに、マロイの口の中の言葉として別の形で出てきた。
(書く場所は、たぶん、いま、できた)
頭の中で、リリアの羽根筆の先が台帳の余白の上で動いた。ただ、書く場所がいつも決まっていないだけです、というリリアの声が薄く卓の上に降りてくる。
マロイは桶の縁から手を離した。立ち上がって小屋の奥の棚へ歩く。使っていない木桶を一つ引き出し、いまの桶の隣に並べた。同じ卓の上に桶が二つ並んだ形になる。
「置いとく方の桶は、採取で帰ってきた手の合間で回せる。誰かが張りついてる必要はねえ。重しを乗せて、しばらく置いとくだけだ」
「ええ」
「押し切る方は、いまの若いのの手で、そのまま回す。半分くれぇ汁が抜けた葉は、いまよりずっと柔らけえはずだ。一押しで終わる。同じ手で枚数が増える」
マロイの口の中で、若い者の食い扶持の話が絞りの手の中身として組み直されていく。伊勢は卓の端で自分の指先を見ていた。リリアの羽根筆の線の隣に、まだ何かを足すための余白が残っている気がした。
「親方」
「ああ」
「置いとく方の桶の重しは、まだ決まっていません」
マロイは空の桶の縁を煤の指で軽く撫でた。撫でながら、笑うでもなく頷くでもなく、ただ一拍黙った。「重しの話はこっちで考える」と低く言った。
伊勢は卓を立った。今日、置いていく言葉はもう一つもなかった。布袋も紙も出さなかった。戸口まで歩き、振り返らずに外の坂を下りた。
◆
ギルドに戻ったのは日が西に傾きかけた頃であった。人事局の机にリリアの背中があった。台帳は二冊目が開いたままで、昨日伊勢が書いた縦の線の隣に、リリアの字で何かが書き足されている。
伊勢は近づいて覗き込まなかった。覗き込む前にシャウプの席が視界の端に入った。
湯呑みが伊勢側に寄っていない。机の真ん中に戻されている。湯呑みの隣に、封蝋のついた封筒が一通置かれていた。封蝋の色は見たことのある色ではなかった。
「お帰りなさい」
リリアの声がした。振り返らなかった。羽根筆の手が、台帳の上で書く前の位置に止まったまま動かない。声の運び方は昨日と変わらなかった。過不足のなさも、書く前に紙を指で押さえる所作も、いつものリリアの手であった。
ただ、振り返らない、という形が、いつもの形と少しだけ違って見えた。昨日までのリリアは、伊勢が机のそばに立つと、書く前の手をいったん休めて、軽く首だけこちらへ向ける所作をする人であった。今日は休めなかった。手は止まっているのに、向き直る動きへ手が動かない。書き足している字を、こちらに見せない位置に置こうとしているようにも見えた。
足の裏がまた鉛のように重たくなった。今度はリリアにかける言葉を探す時間を稼ぐように未練がましく、それでも言葉は出なかった。
伊勢はシャウプの席に近づかなかった。封筒の表書きが卓の端からでも見えていた。見たことのない印章であった。
(置く手と、押す手の話は、終わった)
頭の中でマロイの低い声と、リリアの羽根筆の動きが、まだ薄く鳴っていた。その薄い鳴り方の上に、見たことのない封蝋の色が、もう一つ別の音を置いていた。
リリアの羽根筆は、書く前の位置で止まったまま、まだ動いていなかった。




