台の上で、並べ直す
街の方へ戻る道で伊勢は一度だけ足を止めた。
マロイの小屋で見たもの——布で両側から押す手作業、桶の二つ運用、ひとり日に二十枚、総数で百二十枚あたり——を頭の中で順番に並べ直していた。隣を歩くマルコは何も尋ねず、空を一度だけ見上げた。親方の道のりを見立てる動きが今朝立ち上がったばかりだった。
「ギルドの前で別れます」
伊勢の声にマルコは頷いた。「俺は工房に戻ります」「火床の火、もう一度、低いままで見てきます」。煤の染みた服の肩で外套をひと撫でして、辻のところで右へ折れていった。
(リリアに渡す紙の上に、言葉を、もう一度、並べ直しておきたかった)
◆
ギルドの戸を押すと人事局の側の机にリリアの背中があった。淡い色の髪が朝の光の角度で少しだけ違って見えた。机の上に台帳が三冊、横に揃えて積まれている。背筋はいつも通りまっすぐで書類を胸に抱える癖は、戸口に立った伊勢の足音でわずかにこちらへ向き直る動きに変わった。
「伊勢様」
リリアの声は落ち着いていた。だがいつもの「お供します」の手前でほんの少しだけ間があった。伊勢はその間を足の裏で踏みかけた。
(——いま、リリアさんは、こちらの動きを、聞いていない場所で、もう、半分くらい、聞いていた)
シャウプが先に話を通していたのかもしれなかった。あるいはブリジットの工房への出立の話が別の経路でここまで届いていたのかもしれなかった。伊勢は「おはようございます」と一度だけ置いて机の正面に立った。紙はまだ手元になかった。
「リリアさん」
「はい」
「絞る手の話です」
リリアの指先が台帳の角に触れたまま止まった。
◆
伊勢は卓の上に紙を置かなかった。代わりに見てきたことを声でひとつずつ置いた。マロイの小屋のこと——低い屋根、戸口の前に伏せて干した木の桶が二つ、その横に絞った後の布が竿に渡されていたこと。中で若い男が桶の上に布を載せて両側から両手で押していたこと。布一枚で子容器四つ分の汁が落ちること。一人で日に二十枚。総数で百二十枚あたり。
リリアは台帳を一冊開き指で行を辿り始めた。数字の上で指先が止まる位置が伊勢の数えた数とほとんど同じ場所だった。
「数はこちらの紙の上でも合っています」
「ええ」
「ですが伊勢様、足りるか足りないかの話は、まだ書かれていません」
伊勢は深く頷いた。台帳の上の数は合っていた。だが合っていたのは紙の上だけで、押す手の数が街の方の動きの倍にまで届くかどうかの線は紙のどこにも引かれていなかった。リリアの言葉はその線が引かれていないことをこちらに先に置く言葉だった。
「マロイさんが自分の口で『足りん、という話だ』と」
「マロイ、という方が」
「採取の二代目、三十年の方です。絞りの方は半年で、いまの形に落ち着いたのはひと月くらい前だ、と」
リリアは台帳の二冊目を引き寄せ何かを書き込むのではなく一行を指で軽く押さえた。書く前に押さえる動き——伊勢はその所作を頭の中の( )に置き直した。
「もうひとつお伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「マロイさんが自分の口でもうひとつ出された言葉がありました」
伊勢は声の高さを変えなかった。だが低くもしなかった。マロイの言葉を伝えるのにこちらの声で重さをつけてはいけないと思った。
「『いまの手で押してる若いのを、一人も、放り出したくはねえ』と」
「『あいつらの食い扶持の話だ』と」
リリアの手が台帳の上で止まった。書類を胸に抱える癖の手は、いま、台帳の縁をほんの少しだけ強く押さえていた。
◆
「伊勢様」
「はい」
「いまの話は、台帳のどこに置けばいいのでしょうか」
リリアの声はいつもの過不足のなさを保っていた。だが過不足のなさのその下に、置く場所が台帳の上にまだ作られていないということの戸惑いがわずかに乗っていた。伊勢はその場所を足の裏で踏みかけた。
(——今日は、二回目だ。今朝、小屋で一回。いま、台帳の前で、二回目)
「リリアさん」
「はい」
「足りるか足りないかの線の隣に、もう一本、線を引いていただけますか」
「線、ですか」
「いまの手を何人残したまま量を増やせるか、という線です」
リリアの指先がようやく動いた。新しい羽根筆を取り台帳の二冊目の余白に細い線を一本縦に引いた。
「人を減らさないという前提で量を増やす線ですね」
「ええ」
◆
伊勢は卓の上に視線を落とした。リリアの引いた線の隣の余白を、しばらく見ていた。マロイの小屋で見た若い男の手の動きが、頭の中でゆっくり戻ってきた。両手で押す、両側から、桶の上で、葉が逃げる、布が滑る、汁が抜けきらん——マロイが自分の口で並べた失敗の言葉が、押す動きと一つの動詞の中に重なっていた。
(——「絞る」という動きは、一つの動きだったのだろうか)
伊勢は手を伸ばし、リリアの羽根筆を借りた。線の隣の余白に、二つの単語を縦に並べて書いた。
離す
取り切る
書き終えてから少し息を吐いた。書いた瞬間に頭の中で立ち上がったものを、まだ言葉にしないまま、紙の上の二つの単語の上に視線を置いた。リリアが羽根筆の動きを目で追っていた。
「伊勢様、それは」
「絞る、という動きは、たぶん、二つの動きでした」
「二つ」
「葉から汁を離す動きと、葉から汁を取り切る動きと」
リリアは紙の上の二つの単語を一度ずつ指で押さえた。書く前に押さえる動き——伊勢は同じ所作を二度目に見た。
「マロイさんが失敗されたという、いくつかの試しは」
「ええ。葉が逃げる、布が滑る、汁が抜けきらん——その三つを、一つの動きでまとめて片づけようとしたから、起きていた、のかもしれません」
「離す動きを先に置いて、取り切る動きを後ろに残す、ということでしょうか」
「ええ。離す方は、たぶん、押す手の仕事ではないんです」
「押す手の仕事ではない」
伊勢は頷いた。続きを言わなかった。リリアも先を尋ねなかった。台帳の上の二つの単語は書かれたばかりで、その下に何の線も引かれていなかった。だが線が引かれる前に二つの単語があるという形だけは、いま、紙の上に立っていた。
◆
「伊勢様」
「はい」
「そんなやり方で——」
リリアは言葉を切った。胸に抱える書類の癖の手が、台帳の二冊目の縁に一度だけ触れて離れた。続きの言葉を出すか出さないか、リリアの側で少しだけ揺れた。伊勢はその揺れを足の裏で踏みかけた。
(——今日は、三回目だ)
「そんなやり方でいいのか、と尋ねていいですか」
「ええ」
「人を、台帳の数の側からだけ見ない、という線は、人事局の中にもときどきあるんです」
「……はい」
「ただ、書く場所がいつも決まっていないだけです」
リリアの声はいつもの落ち着きに戻っていた。だがその戻り方の中に、戻ってきた、というよりはもともとそこにあった、という質のものがわずかに混じっていた。伊勢はそれを頭の中の( )にひとつだけ置いた。
「伊勢様」
「はい」
「絞る手の話、ここから先はこちらの側で半分持ちます」
伊勢は深く頷いた。半分という言葉が別の人の口から自分の側に戻ってきた。リリアの言葉として戻ってきたときそれは伊勢が一人で組み立ててきた語彙ではなく、もともとこの場所にあった語彙だったのかもしれない、と思った。書く場所がいつも決まっていなかっただけだというリリアの言葉の続きが、頭の中で薄く鳴った。
◆
机を離れる前に伊勢は一度だけシャウプの席の方を見た。湯呑みは机の上にあった。位置は伊勢の側に寄っていた昨日の場所とほとんど変わっていなかった。シャウプ自身はまだ戻っていなかった。
「リリアさん」
「はい」
「ブリジットさんは、いまごろ」
「マルコさんの見立てでは峠の手前と伺いました」
マルコの言葉はすでにここまで届いていた。伊勢は息を一度吐いた。同じ朝の二つの道のり——片道半日と片道四半刻——がいま別の場所で別の人の口からひとつの台帳の脇に揃って置かれていた。
台帳の上の新しい線はまだ細かった。線の隣に書いた二つの単語の下にも、まだ何の続きも書かれていなかった。だが線が引かれた、ということと、二つの単語が並んだ、ということが今日の朝のもうひとつの答えの形だった。
峠の手前で、いま、別の答えの形が別の人の手でもうひとつ運ばれている。伊勢は窓の外の空を一度だけ見上げ、それから机の上の紙にリリアと一緒に書く言葉を最初の一行から置き始めた。




