表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
出向先は、剣と魔法と人事部でした 〜評価されなかった社会人の異世界改革〜  作者: 怪獣姫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
72/104

手で、見る

朝の空気は、まだ冷たかった。


宿の戸を抜けて通りに出ると、街はようやく目を覚ましたばかりで、東の空に薄い光が差している。伊勢は襟元を少しだけ整え、工房とは反対の道を歩き出した。今日は、まず採取者の小屋に行く。マルコと合流する辻まで、まだ少し時間があった。


(ブリジットさんは、もう、起きているはずだ)


工房の方角の空には、煙はまだ立っていない。だが、火床の火は低く落とされたまま、消えてはいないはずだった——昨日の夕方、出立の支度として残された火だ。家を出る前にもう一度だけ見るための火。


伊勢の足は、自然と工房の前を通る道筋を選んでいた。覗くつもりはなかった。ただ、通りすがりに、煙突の方角だけを、一度。



辻でマルコが待っていた。煤の染みた服の上に薄手の外套を羽織り、肩に古い革袋を提げている。


「親方は、もう、出ました」


マルコがそれだけ言って、歩き出した。伊勢は半歩遅れて並ぶ。


「お見送りはなさったのですか」


「火床の火を、二人で、一度だけ見ました。それで、行ってくる、って」


マルコの声は、いつもより少しだけ低い。だが沈んでいるのではなかった。誰かを送り出した直後の、まだ言葉にならない時間の声だ。


「親方の道のりは、片道半日です」


「ええ」


「俺たちの道のりは、片道、四半刻です」


そう言ってマルコは口の端を少しだけ動かした。距離の差を言葉にしただけだが、その距離は、たぶん、別のものを支えるための足し算だった。


(同じ朝に、二つの道のりが出ている)


伊勢は頭の中でその形を一度だけ置き直した。容器の壁と、葉を絞る工程の壁。同じ朝に、別の人間が、別の道を歩く。半分ずつ持って歩く——昨日、通りで自分の側に置いた言葉が、今朝、足の下で形になっていた。



街を抜け、低い柵の続く小径を行く。マルコは迷う様子もなく先に立った。


「マルコさんは、この道、よくお歩きになるのですか」


「子供の頃、薪を分けてもらいに、何度か」


マルコは前を向いたまま答えた。「マロイさんは、親方が工房を構える前から、ここでやってる人です。親方は知り合いです。俺は、子供の方の知り合いです」


(生活圏が、近かった)


そう言葉にはせず、伊勢は頷くだけにした。マルコがここまでの段取りを自分から計算して志願した理由が、足元の土の固さで分かった気がした。知っている道なのだ。知っている家なのだ。


道の脇に、低い屋根の小屋が見えてきた。煙突から細い煙が立っている。戸口の前には木の桶が二つ伏せて干してあり、その横に、布の束が竿に渡して掛けられていた。布は、絞った後で、洗って、乾かしている布だ。



「マロイさん、おはようございます」


マルコが戸口の前で声を上げた。中から低い返事が一つ。戸が押し開かれて、五十がらみの男が顔を出した。日に焼けた腕、節の太い指、髪は短く刈ってある。眼の奥に、長く同じことを繰り返してきた人間特有の、落ち着いた疲れがあった。


「マルコか。早いな」


それからマロイは伊勢の方を見て、わずかに眉を動かした。ギルドの紋の入った外套を見て、それから伊勢の顔を見て、もう一度紋を見た。


「ギルドさんが、何の用だ」


声は荒くはなかった。だが、警戒というほどではない、何かを構える前の声だった。


「ギルドの伊勢と申します。今朝は、お仕事の邪魔をしに来たのではないんです」


伊勢は一度だけ頭を下げた。「葉を絞る工程を、一度、自分の目で、見せていただきたくて」


「見て、どうする」


「いえ、まだ、どうする、というところまで、来ていなくて」


伊勢は言葉を切った。「ただ、見させていただかないと、私の側で、話が、間違った形のまま進んでしまいそうなんです」


マロイは一度だけ口の端を動かして、戸を大きく開けた。「入んな」



中は、葉の青い匂いと、布の湿った匂いがした。土間の真ん中に低い作業台が一つ。台の上には、たたんだ布が幾枚も重ねてある。奥に若い男が一人、こちらに背を向けて、桶の上で布を両手で押していた。両手で、両側から、ゆっくり押す。布の下の桶に、緑色の汁が、細い線で落ちていく。


伊勢は、その手の動きを、ただ見ていた。マロイは作業台の縁に腰を下ろし、伊勢が見終わるのを待つように、自分も若い男の手元に目を置いた。


「いまの、布、一枚で」


伊勢は若い男ではなく、マロイに尋ねた。「どれくらい、汁が、取れますか」


「子容器、四つ分、ってとこだな」


「ひとり、日に、何枚くらい」


「いまの手で、二十枚」マロイは指を一度だけ折って数えた。「採取者の手伝いが三人、農園の若いのが二人。それと、たまに人事局からの応援が一人か二人」


「総数で、日に、百二十枚あたり、ということでしょうか」


「そんなとこだ」


マロイの声に、少しだけ何かが混じった。数を答えただけだが、その数を確認されたことの方に、わずかな引っかかりが乗った声だった。


(——いま、私は、間違えかけている)


伊勢の頭の中で、その一文が立った。具体的にどこを間違えかけているのか、まだ言葉にならない。だが、何か、相手の側の地面を踏みかけている感じが、確かに、足の裏にあった。



伊勢は数の話を、いったん、置いた。


「布は、洗って、乾かして、また使われるんですね」


「ああ。三度くらいまでは、絞りが落ちん」


「桶は、二つで」


「絞った後の桶と、漬けてある桶だ」


伊勢は土間の隅に積まれた葉の束を見た。摘んだ後で、軽く洗ってあるのが分かる。仕事の手順は、長い時間をかけて、無駄のない形に削り込まれていた。一目で、そう分かる削り方だった。


「マロイさんは、ここで、長くやっていらっしゃるんですか」


「採取の方は、俺で二代目だ。親父の代からだから、三十年は、葉っぱを摘んで運んでる」


「絞りの方は」


「絞りは、最近だ。ギルドさんから話が来てな。葉っぱを摘む合間に、若いのと一緒に、押してる。半年も、経ってない」


マロイは作業台の上のたたんだ布に、節の太い指を置いた。


「だが、押し方は、最初の頃に、何度か別の形を試した。葉が逃げるか、布が滑るか、汁が抜けきらんか、どれかだった。いまの形に落ち着いたのは、まあ、ひと月くらい前の話だ」


(——ああ、そうか)


伊勢は、自分の側で、ようやくひとつ、輪郭が分かった。葉を扱う三十年の上に、絞る半年が、乗っている。絞り自体は新しい仕事だが、葉そのものを知っている手が、押している。マロイは、新しい仕事を、適当にやってきたのではないのだ。試した上で、いまの形に、落ち着いている。


「手の数の話を、申し上げると」


伊勢はそこで一度、息を入れた。「失礼に、当たるかもしれません」


マロイは伊勢の顔を見た。眉の動きは、さっきよりも少しだけ小さかった。


「街の方で、液体回復薬の売れ方が、想定よりも、ずいぶん早く動き始めていまして」


伊勢は事実だけを並べた。「容器の方の話が、いま、ブリジットさんのところで動いています。今朝、別の鍛冶師さんの工房に向かわれました。容器の数が増えると、その下の——いえ」


伊勢は言葉を切り、置き直した。


「マロイさんのところの手が、足りていない、という話を、しに来たのではないんです。今日、自分の目で見させていただいて、いまの形が、何のために、いまの形なのか、それを、私の側で、先に分かっておかないと、街の方の話を、こちらに、不用意に、持ち込んでしまうところでした」


マロイはしばらく、何も言わなかった。それから「ふん」と短く笑った。笑いの音は、シャウプのそれと、どこか似ていた。


「ギルドさんは、ここに来る前に、もう、数を、知ってたんだろう」


「ええ」


伊勢は嘘をつかなかった。「数だけは、聞いていました」


「数だけ聞いて、足りるか足りないかの話を、先に、こっちに持ってこなかったのは、なんでだ」


「形を、知らないままで、数の話を、こちらに置いていったら」


伊勢は、若い男の手元の、両手で押している動きをもう一度見た。「いまの手の動きが、間違っているような言い方に、なってしまうからです。間違ってはいない、ということが、私には、来てみないと、分からなかったので」


マロイは長く息を吐いた。それから、若い男の方に声をかけた。


「おい、いったん、手を止めろ。お茶を、入れてくれ」



若い男が奥に引っ込んでから、マロイは作業台に手をついた。


「ギルドさん」


「はい」


「足りるか足りないかの話は、たぶん、足りん、という話だ。俺も、薄々は、思ってた」


声は低くなった。だが詰める低さではなかった。長く葉を扱ってきた人間が、新しく入ってきた仕事の外側の話を、自分の口で初めて言葉にするときの低さだった。


「採取の方は三十年、同じ形でやってきた。絞りの方は、まだ半年だ。それでも、いまの数で、いまの街が、いちおう、回ってた。街の方が、回り方を変えたなら、こっちの形も、たぶん、変えなきゃならん」


「ええ」


「だが、いまの手で押してる若いのを、一人も、放り出したくはねえ。あいつらの食い扶持の話だ」


「ええ」


伊勢は深く頷いた。「その話は、こちらの話と、たぶん、別の話ではありません」


マロイは少しだけ顔を上げた。


「容器の数の話と、絞る手の話と、押す布の話と、——いえ、すみません、まだ、私の方で、形が、揃っていないんです」


伊勢は一度頭を下げた。「今日、見させていただいたことを、人事局の方で、台帳を見ている者に、まず置きに行きます。マロイさんの方に、こちらから、こうしてください、という話を、いま、置いて帰るつもりは、ありません」


「いつ、置きに来る」


「形を、揃えてから、また、お訪ねしてもいいでしょうか」


マロイはもう一度「ふん」と笑った。今度の笑いは、さっきよりも少しだけ、口の端が動いていた。


「来い。茶くらいは、入れてやる」



外に出ると、日はもう少し高くなっていた。マルコは戸口の脇で、若い男の出してくれた茶を、もう半分ほど飲み終えていた。


「行きましょうか」


「はい」


帰りの小径を、マルコと並んで歩いた。マルコは何も尋ねなかった。


(——いま、私は、間違えかけて、それを、相手の側の声で、教えてもらった)


伊勢の頭の中で、その一文が、もう一度、立ち上がっていた。マロイは何かを声に出して詰めたわけではなかった。数を確認したとき、声に、わずかに何かが乗った——それだけのことだった。だが、それだけのことを、足の裏で、踏みかけた、と分かった。


これまで、自分は、そういう時、後になってから、それと気づくことが多かった。リリアの肩のラインに、後で気づいた。ブリジットの「先に言ってよ」を、その場では、順序の話で受けてしまった。今日は、——少しだけ、早かった。


(早く、なったのは、たぶん、自分の力ではない)


ここに来る前に、丘の上で「火を入れる、というのは、それが届く場所まで、見える仕事のことだ」と自分の側に置いてきた。届く場所、というのは、マロイの手の動きの先のことでもあった。届く場所のことを先に頭に置いてきたから、足の裏が、少しだけ早く、地面の変化を拾ったのかもしれなかった。


「マルコさん」


「はい」


「親方は、いまごろ、どのあたりでしょう」


マルコは少しだけ空を見上げて、それから歩きながら答えた。「峠の手前、くらいかな」


伊勢は頷いた。


(半分、ずつ、持っている)


通りの方角で、煙突の煙が、ようやく薄く一筋、立ち上がっていた。マロイの小屋の煙ではなく、街の方の煙だ。誰かの一日が、また始まっている。


伊勢は、その煙を一度だけ目に入れてから、足を速めた。ギルドへ戻る前に、リリアに渡す紙の上に置く言葉を、自分の側で、もう一度、並べ直しておきたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ